第40話 獣の形
カニス・ルシアンは獣である。
彼女を知るものであれば皆が口を揃えてそう言うだろう。
ルシアンは獣としての本能が強く、雌の個体が産まれにくい性質でありながら、カニスは生を受けた。
4代目『獣神』ラリアス・ルシアンの孫にして、ガルシアの大森林の要たる戦士長リュカス・ルシアンの娘。
将来を期待されるのは当然だ。
戦士にしろ姫にしろ、あらゆる方向性で誰からも期待されていた。
もしかしたら、戦士長リュカスをも超えて5代目の『獣神』となるのではないかと。
しかし、致命的なまでの問題があった。
ルシアンの雌は、本能に耐えられるだけの強度がないのだ。
雄のルシアンは神より受け継いだ強靭な精神を持って獣すらも喰らう。
しかし雌は違う。本能に喰われ、心を貪られる。
獣の本能。牙の凶暴性を持ち、知性や理性を貪る獣の在り方。
それはカニスも同様だ。
牙の欲求に勝てるほど強き魂を持ち得ず、本能を剥き出しにするだけの獣と成り下がる。
はずであった。
カニス・ルシアンは生まれつきの精神力で本能に打ち勝った稀有な個体。
誰よりも獣の誇りに満ちた獣族であったため、決して野獣に落ちることはなかった。
では、何故?
カニス・ルシアンはあそこまで分別も聞かず、獰猛であるのか。
彼女は精神が強い。言ってしまえば我が強かった。
獣族は誇り高い、獣族は強い、獣族に敗北はありえない。
生来の自尊心とリュカスから受けた戦士の教育。
それが、今のカニス・ルシアンを形成した。
歯止めの効かない牙を持ち、強きを尊び弱きを嫌う、獣のプライドを持ち合わせた戦士。
何も間違いはなかった。
歯車に狂いはなかった。
生まれながらにして特別であった子が行き着いた先は獣であった。
ただそれだけの話。
カニス・ルシアンは獣である。
獣の本能を否定しながら、誰よりも誇り高い獣らしい戦士となったのだ。
*
陽が沈んだ頃……ベランが鼠捜索より戻ってきた折に言われた通り話した。
カニスが逃げ出した事を。
彼は狼の顔を歪ませて、またかと言わん哀れみの目をしていた。
まああの性格だ。脱走も1度や2度ではないのだろう。既に何回も脱獄経験がおありのようだ。
獣族の謹慎がどうなっているか分からないが、酷くても木の檻だろう。
カニスがこじ開けて脱出する姿が容易に想像できてしまう。
「それはまた、カニスが申し訳ない事をしました……。同じルシアンとして謝罪いたします」
「いや、まだ確定したわけでは……」
「カニス以外ありえません」
あのベランが真顔で即答するくらいには負の信頼が厚すぎる。
何かあったらカニスが真っ先に疑われるんだろうな。
不憫だとは思わない。普段の行いが原因だ。
思われたくないのなら優等生を気どるだけでいいのだ。
僕みたいにね。
「上手く臭いは消してありますが、微かな臭いからアイツに違いありません。カマリの臭い消しを使っていますが俺の鼻は誤魔化せない」
やっぱり凄いな、獣族の嗅覚。
カマリの臭い消しってかなり臭いが消える代物だ。
血溜まりに入ったあとに使って抱きついたらリーシアは嫌な顔をしながらも抱き返してくる程度には臭いが消える。
その臭い消しを塗っても彼らの嗅覚は誤魔化せない。
本当に良質な鼻だ。羨ましい、人族にも分けてくれないだろうか。
犯人は暫定カニス。ほぼほぼ確定的だが、まだ加害者を捕らえていないので誠かは定かではない。
とっ捕まえて吐かせたいんだけど、そうもいかないんだよな。
何故ならカニスはこの里には居ない。
里中探したが彼女は何処にもいなかった。
考えられる可能性としては外に出たというのが無難だろう。
だけど僕は外には出られない。
ラリアス様より外出禁止令を出されている。
僕自身がカニスの捜索に出られないのだ。
更に言えば、普段カニスを抑える役目にあるリュカスさんが各所の対応に追われているせいでこの事態を把握出来ていない。
カニス捜索は困難と言っていい。
「ラリアス様には……いや、言えないか」
「どんな罰があるか分かりませんが緊急事態なので行ったのですが……神の間には居られませんでした」
「それは凄い覚悟でいらっしゃる。しかしラリアス様が?……では、アルフィリム様の所に御足労しているのかもしれませんね」
また出てきた、目的のアルフィリム。
ラリアス様すら頼る全知全能の力……早く会って情報を手に入れたい。
しかしどうしたものか。
ラリアス様もいない。リュカスさんもいない。
カニスの手網を握るべき人たちが一斉に居なくなった。
ベランは……この通り無理そうだ。彼がイジメられていても不思議じゃない。
「獣神様が居ないなら、出てもバレないんじゃない?」
リーシアがさも当然とばかりにとんでもない事を言い出した。
これには僕とベランも惚けて顔を見合わせる。
確かにラリアス様はいま居ないけど、天使さん蛮勇すぎないか。
「あ、いや、もちろんムートが危険になりそうなら絶対駄目だよ!でも獣神様なら盗られた物は自分で取り返せ、って言いそうだなって……」
僕の反応を見てリーシアは慌てて捲し立てる。
言うか言わないかなら、言いそうではあるな。
盗られたから取り返してくれ?自分で取り返せクソガキ!くらい言ってきても違和感はない。
獣神様ならそう言うだろうな。
「じゃあ取りに行きますか?」
ベランからそんな発言が出てくるとはな。
彼はラリアス様の意見を優先すると思っていたが、意外とヤンチャの様だ。
相手がカニスならその方が良いのかもしれないな。
痛い目をみてもらうという意味でも。
「じゃあ、カニスを探して崩牙を取り返しに行きましょう」
ラリアス様なら取りに行けと命じるだろう。
これもまたラリアス様が求める答えのひとつだ。
 
夜が深け、闇が濃く滲み出る。
腐敗を手にした鼠の手に落ちた大森林を元に戻すため、駆けた獣を僕たちは追いかける。
*
夜の月が頂点で輝く頃……作戦を開始した。
外に出るのは案外容易だった。
見張りの番の者はおらず、外を出歩く人影もない。獣族の戦士は夜に十分な休息を取る事で朝昼の活動に支障をきたさないようにしている。
かなり健康的な生活を送っている。生活習慣も強さの証なのかもな。
もしやラリアス様が求めているのは生活習慣の改善!?生活の充実によって最高潮になった体は力を発揮できる、みたいな。
……流石に獣神様がそれを求めてきたら何か嫌だ。言いようがないけど『獣神』が生活習慣は大事にしろと言ってくるのは嫌だ。
そもそも闘気関係ないじゃんという話になる。
ガルシアの大森林の夜は暗い。
月光は高木の葉によって遮られ、あまり入ってこない。
夜闇に目が慣れるまではキツイだろう。
しかしベランは夜闇を駆ける。
獣族に闇は障害とならない。
聴覚と聴力で周囲を把握し、あらゆる物を見逃さず潜り抜ける。
僕たちの歩幅に合わせて先行し、危険がない事を確認してくれる。
あんな紳士的な事が出来る獣族は他に何人いるかな。
迷いない足取りで進み続けるベランを追従する僕とリーシア。
臭いや土地勘があるベランに着いていくのが良いが、何処へ迎っているのか分からない。
彼について行った方がいいので着いていくだけだ。
「はあ……走るの、疲れるね」
「フッ、僕はこの程度じゃまだ潰れないよ」
息を切らしながら顔を赤くするリーシア。
彼女は体力がないのです。
ちょっとした物も重いと感じ、少し走るだけで息を切らす。
貧弱と言いたくなる弱々しさでとても可愛いのです。
だから甘やかしたくなる。
「わっ」
「掴まっててね」
手と背中に腕をかけて抱きかかえる。
通称お姫様抱っこで走る。
女の子だから軽いというのは当然だが、リーシアは本当に軽い。
まるで羽のよう(それは嘘)で持っているかすら怪しい。
だがしっかりと腕の中に収まる彼女の体。
がっしりと力ないながら、彼女は全力で握っているであろう手。
僕のお姫様抱っこはなんて可愛いんだ。
「スンスン……ん?発情の臭い?」
前に居たベランが唐突にこちらを振り向いた。
「何かありましたか?」
「いえ……何も。……………その、お言葉ですが、ムート殿。集中してください」
何故か釘を刺された。
浮かれてみえたのかもしれない。
傍から見れば確かに浮かれてるな。
真面目な顔付きになろう。
仏頂面と言うやつだ。
これで文句はないだろう。
目を細めて息を吐きながら、ベランは再び走り出した。
*
しばらく走っているとベランは急に立ち止まった。
「カニスの居場所を探れる人を呼びますので少々お待ちください」
と言われたので、リーシアを降ろした。
彼女の体力も大方回復した、また走れる。運動に適していない体だろうから明日は筋肉痛かもしれないけど、筋肉痛くらい治癒魔法で治せるから痛みに苦しむ必要はない。
ベランはその場で座り込み、体を小さくした。
後ろから見るともろ狼。
「はああーー」
彼は大きく息を吸い込んで、天高く頭を伸ばし口を開いた。
「ウゥオオオ─────ンッ!!」
遠吠え。
これをされるともう本物の狼だ。
夜の闇に響きしは獣の叫び。
何処までも鳴る咆哮は瞬く間に大森林を駆け抜けた。
近くで聞くとかなりの大音量。口から出ているがまるで音の波のように波紋している。
人族の声帯では真似できない音のだし方だ。
遠吠えには様々な意味がある。
縄張りの誇示、狩りの合図、仲間に位置を知らせるため。
今回は後者だろう。
仲間に位置を知らせるための遠吠え。
ベランはカニスの位置を探れる人物を呼んだのだ。
例の人物が来るまで休憩する。
ひとっ走りした体は水分を求めていた。
水魔法で作った水をそのまま口に入れる。
飲水ではないが汚い水でもない。飲んでも有害ではないし、喉を潤すだけなら十分すぎる効果がある。
効率では生命力を消費しているので差し引きゼロだったりする。
ガルシアの大森林の夜は思いのほか穏やかだ。
夜になると魔物は朝昼よりも活性化する。夜行性でもあるのだろう。
来る時は魔物もチラホラ見ていたし、もっと動く度に出てくる事を身構えていたのだが、今のところは1匹も邪魔に入ってこない。
これも獣族の戦士たちの頑張りのお陰かもな。
ガルシアの大森林が平和なのは彼らが魔物を狩り尽くしてくれているから。
他の部族は狼牙族に頭が上がらないだろう。
夜風というのは心地好い。
葉が揺れる音は夜森にあった演奏だ。
まるで平原の中心で寝転がっている涼やかさを連想させる。
目を閉じればまさに平原そのもののとかす。
葉音を雑音なんて言う人はいるが、そういう人は自然を楽しむ余裕がないんだよ余裕が。
こういう時に心を落ち着けられる余裕がね。
僕も余裕があるわけじゃないんだけどな。
1人で苦笑していると、葉の音に混じり風を切る音が重なった。
「呼んだよねえ、ベラン?こんな夜遅くに、私じゃないと起きてなかったよ」
暗闇に新たな影が落ちる。
上空から翼を落とし、2本の足で着地する人影。
ベランと顔見知りである発言をした女性の声。
夜目に冴えてきた僕たちならハッキリと姿を視認できた。
腕であるはずの物が大きい。広げられた腕はまるで幕のように大きく薄い。
しかしそれで空を翔んでいた。
暗闇に同化した黒色の腕……またの名を翼と呼ばれる部位。
人間らしい見た目だが下半身……脚の1部先からは人肌ではなく先端には獲物を狩りとる鉤爪が月光により鈍く光っていた。
ここまでの特徴を持つ生物はひとつしかない。
天翼族。
鳥の特徴を持つ空を領域とした翼の種族。
「貴方たち……人と妖精?」
「耳が長いのは魔族だぞ」
「ふーん、じゃあ噂の獣神様に気に入られた子達か」
獣神の里外でも有名なのか。
ガルシアの大森林で知らない者はいないかもな。
どうせラリアス様に喧嘩を売ったとか言われているんだろうな。解せぬ。
「いいなあ、私も獣神様に気に入られたいなあ。ねえ、どうしたら獣神様にお気に入りにさせてもらえるのかな?」
グイグイと距離を詰めてくる天翼族。
なんというか近い。
整った目つきの美人顔が近くから覗いてくる感覚……心臓が働きすぎて痛い。
隣にいるリーシアがむっと顔を顰めていた。
わざとじゃないんだリーシア。これは事故のようなもので仕方がないんだ。
健全な男子なら緊張しない方がおかしいんだ。
だから、その、僕はリーシア一筋だよ。
「メイン。その辺にしておけ。珍しい物を見たら欲しがる、悪い癖だぞ」
「あら、私が何でも欲しがる強欲な女に見えたと?」
当然だという顔をしているベランにニコニコと事務的な笑顔を浮かべるメインさん。
まあ、仲良さそうだな。
そしてリーシアよ、居なくなった途端に近づいてくるのはやめなさい。いややめなくてもいいけど、アピールしてくれるのは凄く嬉しいよ。
でも、今はちょっと……心音が聞かれちゃう。
「で、何かしらベラン。腐敗の鼠を討伐してるって聞いたけど、その一環かしら。私たち天翼族も空からの偵察を手伝ってほしいの」
「それは願ってもない事だ」
「残念。それは出来ない相談ね。木よりも下の低空飛行なんて天翼族らしくないわ、捜し物をするなんてごめんよ」
話の流れとしてはカニスを探してほしいという要件ではないが、探し物はしないってカニス探してもしてくれないんじゃないだろうか。
「そうか、だが今回は捜し物だ」
美人顔が面倒臭さに歪んだ。絶対に嫌という顔だ。
それでもベランは臆しない。否定を上書きせんと奮闘の意志を見せる。
「カニスが何処かに行った、お前なら探せるだろ」
「またカニスちゃんが?」
また。
やはり何回も脱走していたんだ。
「それでもねえ。ルシアンの姫君が逃げ出したのは追いかけないといけないけど、私の翼的には無駄な飛行はしたくないし?それに報酬だって、ないといけないじゃない?」
メインさんのベランを見る目が、何と言うか獲物を狙うハンターのようになった。
すぐにでも口舐りをして狩りの体制を整えん姿見。
しかしよく見てみると……目に宿っているのは恍惚と情欲の炎だ。
つまり、どういう事だ?
「分かった、3日だ」
謎の3日発言に疑問を持つこちらを無視して、メインは顔を綻ばせて翼を広げた。
「その言葉、忘れないでね」
そうして何処かに飛び立ち、瞬く間に夜闇の中へと消えていった。
もう目で追えない。
天翼の飛行スピードは凄まじく視認できる距離から出たのだ。
それを眺めて、一息つくベラン。
このまま彼女を待つので良いのだろう。
再びの休憩時間だが……
僕は我慢できずに問いかけた。
ずばり、彼女との関係は如何に。
あれは普通の反応ではなかった。あんな美人さんとどんな関係性であるのか、純粋な興味で聞きたかったから問うた。
「まあ……言ってしまえば、妻ですかね」
灰色の毛に覆われた素肌を赤らめながら答えるベランに不覚にもメインさんの気持ちが理解できた。
ベランはいい。
もちろん、僕は男だからそういう方向性で言っているのではない。ただ同意しただけだ。
しかし妻か。
ベランの歳を聞いていなかったが、既婚者でもおかしくない。
ルシアンの王子であるベランに婚約相手が居るのは何ら不思議な事ではない。
メインさんは美人だ。
天翼族の族長の娘だったりするかもしれない。
そうなると結婚もない事はないかもしれない。
「結婚……獣族と天翼族がするの?」
別種の獣族同士の番はたまに見るが、別種族の番は獣神の里でも見た事がない。
そういうのに忌避感とかがあると思ったのだろう、リーシアは純粋に疑問を投げかけた。
僕と同じだ。
誇り高そうなルシアンが他種族と番になる事なんてあるのだろうかと疑問に思っていた。
「愛があれば種族の垣根はどうでもいい、とメインは言っていましたね」
「ベラン的には好きですか?」
「がっつきますね。好きか嫌いかなら、大好きですけど……」
ベランにしては言うな。
愛があれば大丈夫。
種族の違いなんて些細な差でしかないのだ。
僕とリーシアがこうして一緒にいるのと同じように、愛は誰かと誰かの溝を埋めてひとつにしてくれる。
支えられる誰かが居てくれるのは、本当に良い事だ。
「でも何で離れ離れで生活してるの?」
「……常に発情してると思われたくないからです」
なるほどな。
メインさん、貴方が選んだ男性は正しい。
こんな良くて可愛い獣族は彼以外いないでしょう。
*
約10分後……思ったよりも早くメインさんは戻ってきた。
降り立つ動作が一々綺麗で見惚れてしまう。
まるで天の使いが舞い降りたかのような美しさであった。
と、見惚れていたらリーシアに嫉妬されちゃう。平常心を保て。
クールにだ。
戻ってきたメインさんは面の良さを崩さず、しかし浮かない顔をしていた。
何か非常事態でも起こったのかもしれない。
そう僕の中で警告が走った。
「カニスちゃんね、北東の方にいたわ」
「それだけか?」
「ええ。それだけ、今も移動中だから早く行かないと追いつけなくなるから手短に済ませただけよ」
感謝する、と残してベランは走り出した。
メインさんに何かもっと言いたい事はあるだろうが、あくまでもこちらの事を優先する姿勢。
出来たお人好しはああいう人の事を言うんだろう。
「不器用ですね、彼は……」
「ええ、全く。昔から真意を口に出さず我慢して、それで自分を箱に詰めて優等を演じる。それでも今の彼は楽しそう。彼の友達であってあげてね」
友のため、駆ける狼。
彼以上の獣族が何処に居ようか……ルシアンの雄は精神力が強く、獣の本能には負けぬが、それでも他の獣族に比べて獰猛な事が多い。
だが、ベランは全く違う。
己を抑制し、ただ友のために尽くす姿勢は獣あらざる人の姿だ。
だから、他人の心を動かせる。
たとえ姿形が違っていても、他人から愛され他人を愛せる。
羨ましく美しい。
僕は彼のようにはなれないだろうが……ランガルさんと同じくらい、尊敬に値する人物だと感じた。
彼はそれを喜んでくれるだろうな。
*
ベランの鼻を頼りにして走り抜ける。
草木を掻き分けて行くにつれ、彼の鼻はカニスを捉え始めているのか更に速度を増していく。
僕もそれに着いて行けるように『瞬動速』で何とか追いつき追い抜かれを繰り返していた。
揺れが激しく本来天使を抱えるには不十分な乗り心地だが、彼女は文句は出さずにただしがみついていた。
近づくにつれて聞こえてくる戦闘音。
近い、ベランは剣を引き抜いた。
僕もリーシアを降ろして、ベランから借りた剣を抜く。
木々が揺らぐ轟音。
鳥たちが一斉に飛び立ち、この森から離れていく音。
遮蔽物である木を突き破って、こちらに飛んでくる影。
それを間一髪のところで回避する。
「……な」
見覚えがある。
灰色の毛……カニスだ。
その手にはしっかりと崩牙が握られており、胸を上下させ苦しそうに息を出し入れしていた。
犯人はカニスだが……それ以上に重要な事があった。
彼女の体はボロボロであった。
恐らく外傷である殴打の跡に塗られた茶色の斑模様。
それは見覚えがある、腐敗の呪い。
感染した者を喰らう病だ。
「カニス!?お前……腐敗病に……」
ベランは怒りに滲ませながらもカニスへの心配が上回ったのか、引き攣った顔となる。
それに対してカニスはゆらゆらと立ち上がり、自分が吹き飛んだ方向だけを見ていた。
「何だ、ベランか。今更来ても遅いぞ。鼠はアタシが仕留めた」
「なに!?」
鼠は仕留めた。
病魔の元であった廃鼠を倒したのか……カニスが?
僕たちの驚いた反応を見て期限を良くしたのか、カニスは口元を弛めた。
「ルシアンであるアタシは当然だ。普段と違う鼠の臭いを嗅ぎ分けられないはずがない」
明らかにベランへの自慢だ。
「そうか、凄いなカニス」
しかし流石はベラン、大人だ。
余裕をもった対応でカニスの嫌味を切り抜ける。
親戚関係だから僕の知らないところで交流は多々あるだろう。扱いに慣れていて当然だ。
「それで何があったカニ……!?」
森の奥からこだまするのは……金属を擦り合わせたような異音。
ひび割れた硝子で壁を削るような耳を不快にさせる刺激音。
森の奥から4つの脚を動かし、現れた怪物に目を見開いた。
下半身は馬……だが、内側から刃物のような突起が突き出しており先端にすりついた肉が腐った匂いを発していた。
上半身は赤茶色の肌をした人間……に見えぬ異形。腕が4本ある、人としてあるべき部位が頭のてっぺん追いやられており、鼻と口が頭部の頂点にあるという異常。
そして人の身体を覆い尽くさんほどに肥大した瞳。
ひとつしかない巨大な瞳が、こちらを見据いていた。
鳴き声は……目から鳴っていた。
目が不気味なほど泳ぎ、その度に金切りの異音を奏でている。
「なんだあれは……双馬魔か?」
双馬魔はAランクの魔物で、下半身は馬で上半身は人の怪物だ。
半人半馬の生物であるケンタウロスに酷似した姿をした魔物。
確かに特徴は似ているが、聞いていた姿見を歪にした禍々しさが浮き彫りになっている。
「もしかして……ミッテルが言ってた、廃鼠を食べて凶暴化した魔物なんじゃ……」
10分という短すぎる時間で、魔物が廃鼠の死骸を食らった時、腐敗の呪いを克服し更なる力を得るという。
その姿が、この双馬魔と言われれば納得できる。
腐敗の呪いは強力だ。
Eランクの魔物をCランクにし、Cランクの魔物をAランクにする。
なら、Aランクの魔物が凶暴化したら何になる?
同じ傾向で行くならランクが2段階上昇し……SSランクとなるはずだ。
SSランク……単純な階位に変えるのなら、聖位と認定されるレベルだ。
勝てるか勝てないかで言うなら、絶対に勝てない。
だが、そう簡単に聖位に到達できるほど甘い次元ではない。
下級階位と上級階位にはそれこそかなりの差がある。
Aランクの魔物だからといって、SSランクになってたまるものか。
判断は早かった。
「リーシアはカニスを安全なところに。ベランと僕で食い止めます!」
出来ればカニスから崩牙を取りたかったが、簡単に離してくれなさそうだ。
なら今ある手札でやるだけだ。
僕の声と踏み込みは同時に2人を動かした。
リーシアはカニスを引っ張り、ベランもまた飛び出した。
目が、動いた。
気持ち悪い動きをした目がこちらを視認し直後……双馬魔に攻撃の命令を与えた。
4本あるうちの2本が動いた。空間を殴りつける勢いを帯びた突撃の拳。
カニスが吹き飛ばされたのも頷ける。
しかし視える。
ラリアス様には到底及ばないスピードしかない。
速さで劣っているが動体視力が叩き起した反射的行動で回避しながら、斬剣が飛んだ。
狙うは目。
誰がどう見ても丸出しとなった急所を切りつける。
だが、
止まった。
あの異音は金属のような音で起こったのではない。
実際に金属と同等の硬度を持つ瞳が奏でた事により発生した新たな甲高き音。
ここまで急所丸出しだと普通に急所はではないのか……。
右にあった2つの腕が同時に薙ぎ払いを起こした。
横に振られる剛拳。
回避は容易ではないが、行けると身を奴の内の懐に飛び込み躱した。
眼前にある瞳……生きた心地がしない。
「え……」
そしてそれには予備動作がなかった。
突如として動いた脚がいきなり最高速度をたたき出し、半馬の身体が突進を繰り出したのだ。
馬鹿げた生態。
いきなりトップスピードを出してくる生き物なんて頭がおかしい。
跳ね上がる脚……3mを越す巨大から放たれる突進。
威力など想像に容易い。
骨を砕き、臓器を破壊する強力な打撃だ。
だが衝撃は左から押し寄せた。
軽い力に打ち出され、身体が転がる。
助かった……!?
次に巻き起こったのは軋轢の振動。
即座に双馬魔の方を見て理解した、先程のは僕の代わりにベランが突進を受けて吹き飛んだ衝撃であった。
「ベラン!」
木々を薙ぎ倒しながら何処までも吹き飛ばされる身体……アレはまずい、カニスと同じ状態になっていてもおかしくない。
僕のせいで、ベランが……メインさんに頼むと言われたのに、助けられただけだった。
ベランは木々を押しのけながら、体勢を宙で切り返し受け身をとった。
聳え立つ木に着地という芸当を見せて、喉から声を張り上げた。
「ガアッ!」
獣の咆哮。
衝撃などまるで最初からなかったかのように木を蹴り飛ばし、縦横無尽に木々を利用する。
双馬魔の目が急速に回転するが追いつけていない。
立体的な動きに合わさった高い俊敏性が相手の脳を混乱させる。
奴の目がベランを見失った……直後、雷霆のような斬撃が空から落ちた。
普通なら両断に至るはずの威力を秘めた斬撃だが、双馬魔の肌を切り裂くには不十であった。
闘気を纏ったはずの剣が肉に入り切らず、硬い体表に阻まれる。
直後打ち出された多腕の暴力。
突き刺さる突き出しに口から血を吐きすっ飛びながらも、意識を渡さずに木に爪を突き立てて勢いを殺した。
あれだけの攻撃を受けて、立ち上がれるだけの力がベランにはまだあった。
「『突風』……!」
通用するかしないか、可能性があるベランに託すための邪魔だ。
本来なら目ん玉を打ち飛ばす威力だが……双馬魔の瞳は破壊できない。
「『乱牙』」
それでもベランを安全に近づけさせられた。
瞬間による連撃を繰り出す『乱牙』が双馬魔の全身を切り裂いた。
はずであるのに、奴の体表を削り取る事が出来ない。
「チッ……」
舌を打ちながら、地面を蹴り距離を飛ばした。
先程までベランが立っていた場所の土が拳により吹き飛び、こちらまで散ってくる。まるで水飛沫だ。
ちゃんとした物体だというのに水のように飛んでくるという事は、それだけの力がある。
であるが、ベランは未だ戦えるだけの余力がある。
大気を切り裂く重車のような一撃を何度受けても立ち上がれている。
僕なら無理だ。闘気を纏ったところであの一撃を受け切るなんて不可能な所業だ。
「力が足りないか……」
「まだ動けますか、ベラン?」
「当然。獣族は生命力で満たされている。あの程度で倒れるわけがありません。カニスがやられたのは……大方腐敗病に寄るところが大きいでしょう」
なら上出来だ。勝ち目はある。
しかしよく動けるな、ベラン。
生命力で満たされているとか言っていたが……彼らの毛も便利な代物だ。
生命力で満たされているから、大体のダメージを抑えられる。
生命力で満たされているから、戦い続けられる。
生命力で満たされているから……満たされたら、どうなる?
「……………はっ」
深層に沈んだ、ケダモノの心が疼くような高揚感。
僕は笑っていた。
窮地にこそ、生を深く実感していた。
双馬魔に遠距離攻撃はない。
そんな馬鹿な考えをしていたが、外れであった。
奴の目が光ったのだ。
直後……高速で押し寄せる十条の束。
幾数にも拡がった灰色の魔弾の数々が、掃射された。
「カニス、崩牙を……!」
叫んで走り出す。
後ろにはリーシアが居る。
この掃射を防ぎきらないといけない。
そのためにも、まずは僕が先行する。
残った物はベランが打ち落としてくれるはずだ。
「……『乱牙』」
弾幕には剣戟を。
全てを殺し切る事は不可能だ。
何処が漏れて、こちらの体を削ってくる。
高温に満ちた魔弾は被弾した箇所を蒸発させる。
しかしまだ動ける。
闘気によって足りない器官を補い、筋繊維を上から補強する。
背後で剣が振られた音がした。
防ぎきってくれた事を確信して、僕は突っ込んだ。
10mもなかった距離は僅か1秒で埋まる。
「『牙狼閃』──!」
上位の闘法。
それが双馬魔の無敵のような体表を切り裂いた。
濃紫の血を数滴垂らしただけ……それでも、驚愕すべき事だ。
今まで刃が肉に入らなかった相手に剣が通った。背後から聞こえてくる息遣いからも驚きが分かる。
しかし僕に術はなかった。
右横腹と左足に突き刺さった拳。
恐ろしい衝撃が体に浸透した。
身体の失いを脳が痛みとして発信し、鋭く痛烈な刺激が全身を行き渡る。
破られる闘気。
なのに……
僕は生きて、立ち上がった。
簡単な事だ。
闘気は鎧のように纏うだけじゃない。
自由自在に扱えるのだ。ならば形はひとつではない。
体内を闘気で補強し、足りない部分を補填する。
骨を太くし、筋繊維の動きをカバーし、闘気を巡らせる。
やってみれば容易い。
自分の体で起こる現象など自在に操作できる。
攻撃だって、剣の振りを行う腕に闘気を満ちさせる事で動きを完全にサポートさせられる。
普通の筋肉にプラスした闘気の肉付け。
これくらいやろうと思えば、闘気を使えるものは誰でもできる。
全く何故思いつかなかったのか……。
モタモタしている暇はない。
双馬魔の目がまたも光を発した。
直後……足元に突き刺さる剣。
魔剣・崩牙。
彼女はプライドが高いが、それでも獣族の戦士だ。
獣神の里のために戦う、戦士だ。
自分の行いでどう里を守れるか、しっかり理解している。
僕はいい戦士だと思うよ。
剣を拾い上げた。
刹那。
灰色の光弾が視界を埋めつくした、まさに刹那の寸劇。
魔剣の刃は命を狩りとっていた。
魔闘法『疾風速』による、超速の刃を捉える事は不可能。
縦に割れた瞳が千切れ、中からおどろおどろしい怨嗟を吐き出す。それに意味はない。
最早抵抗にすらならぬ最期の叫び。
魔剣を携えた獣族の戦士の勝利を、高らかに宣言するだけの鐘の音であった。
「ムート……!?」
「おっと」
弱ったカニスをベランに投げ出しながら、リーシアが駆け寄ってきた。
倒れかけたところをギリギリのところで掴まれ、何とか地に伏せる事だけは回避できた。
血に背をついては勝者として格好がつかないからな。
「普通に辛い……」
闘気で満たしたところで、防御力は上がるが痛いものは痛い。
正面から受けた傷は普通に大きく、骨が折れ曲がってしまっている気がする。
痛みを上回る、優しい手つきの感触が救いだな。
言いたい事はあるし、やりたい事もある。
けど今は掴んだ答えを離さない。
偶然に起こった奇跡でも、ありがたく噛み締めさせてもらうために、ちょっと寝よう。
外から聞こえてくる呼び声は、疲労が溜まった体には響かない。
それでも安らかに眠れそうだ。
なんせリーシアの胸の中、これ以上ない至福のベッドである。
意識を閉じても、バチなんて当たらないはずだ……。
*
廃鼠が引き起こした騒動は、一旦の幕を閉じられるだけのものとなった。
 




