第3話 安定期
聖皇歴513年──冬季終盤。
ご飯も食べて、体も拭いて、口も洗った。
もう寝るだけ……の前に、勉強の時間。
お母さんから買ってもらった字書きの参考書を置いて、ひたすら紙に書き写す。
普段使っている言葉だというのに、それはまるで異国の言葉かと思えるほど頭に入ってこない。
苦手な勉強を我慢しながら、紙と睨めっこ。
そんな間にも筆に付いたインクが乾き、また新たにインクをつけて無駄にする。
腕が思うように動かないとはこの事。
同じ英雄になるための修行でも、剣を振るのと勉強とでは天と地の差があるほど憂鬱になってしまう。
「でも、言葉が通じなくてあたふたする英雄はかっこ悪いよね……」
異国で言葉が通じない英雄を想像した……うん、明らかにかっこ悪い。
父も他大陸に行ったとき1番困ったのは魔物の種類なのではなく、言語の差だと聞いた。
言葉が違えば宿にも泊まれない、なんてことがざらにあったとか……。
一般的に使われるのは『人語』と呼ばれる四つの言語……『西方語』、『東方語』、『北方語』、『南方語』。
四地方はそれぞれ独特な文化を形成しており、地続きであろうとも、大陸が離れているような疎遠関係だ。
大陸の中央部なら、僕が使っている『西方語』も通じるが……完全に他地方へと踏み入ってしまえば通じる人の数は激減する。
他にも魔族が多用し、『魔神』が人族の言葉を真似て作り上げた『魔神語』。
人里ではなくそれぞれの集落に住む亜人族が使う『古世語』。
等々あるものの、これらは滅多に使用機会がない。 そもそもこれらの勉強本の数すら少ないので、一般庶民が買おうとするものではない。
人族は人族中心で物事を考えている節がある。今からたった170年前だって、『魔神大戦』で大きく人族に貢献したというのに身勝手さで亜人族と決裂した。
その結果……第二の『魔神大戦』とも言われる『亜人戦争』が勃発した。
「やっぱり『古世語』も習っておくべきかな……」
『古世語』を習うのは悪いことではない。
亜種族であろうと手を取りあったもの同士、まず互いを知ることが必要だ。
言語の壁はその一歩。
お母さんが言葉は大事と言っていた意味がわかった。母は偉大だ。
冒険者となり世界各地を回るには『古世語』も使う場面は多岐にあるだろう。
森の奥に住む獣族や妖精族と交流を深めたり、鉱鉄族に武器を作ってもらったり、吸血族とお茶会するとか普通に夢だったりする。
想像するだけで口元がにやけている……というより、勉強疲れから机に寄りかかっているせいで窓に自分の顔が写っている。
なんとも酷い、笑い顔か、女子に嫌われてしまいそうな顔だ。
でも楽しみだから仕方ない。
だらしない笑顔も人前じゃないから大丈夫。
「あと3年、あと3年で冒険者の資格が得られる」
世界連盟冒険者ギルド。
つい100年ほど前に創設されながら、この世の冒険者全員が在籍していると言っても過言ではない。
冒険者登録できるのが10歳から、あと3年……長いようで短い期間。待ちきれない少年である僕にとっては無限にも等しい時間の牢獄。
こればかりは安全上の決まりであるのだから納得せざるを得ない。
逆に10歳から入れさせてくれるだけで有り難いもの、他の職では雇ってくれないところの方が多いまである。
それに子供だけでなく亜人族はもちろん魔族すら冒険者登録ができる。
色々な多様性を尊重しそうした者も入れるようになっているのだから、それを甘んじて受ける当人からしてみれば文句を言える立場ではない。
「でもまちきれないー!」
理解していても受け入れ難い現実は残念ながらごまんとある。
それは奥歯を噛み続けて耐えるしかあるまい……歯が噛み砕かれんほど強烈なものになっているが。
そうは言えど、3年でどこまで鍛えられるかが重要だ。
10歳から冒険者登録できるようになるとはいえ実力がなければパーティにすら入れられず、個人では下級ゴブリンにすら負けかねない。
下級ゴブリンでも負けたら巣に連れ帰られ、あれやこれやと人間には苦しい陵辱恥辱の嵐だとか……うむ、嫌だ。完全なくっ殺案件。
まあ精々が腹を裂かれて中身を焼かれて食われたり、皮を便利用品に加工されたりするくらい。
あと3年でどこまで伸ばせるか……ゴブリンに勝てるくらいではダメ、パーティのお荷物として解雇され個人になるのがオチ。
確かに個人の方がやりやすい。
パーティでの分配などを考えず、好きな時に好きな依頼を受けられる。無論その分の死亡率は高い。
では、初心者はどうするのか?孤立して結局個人入りなのか?
それを防ぐため、『初心者は初心者で組み合う』ことが常識……いや、ルールとして定められている。
冒険者登録から1年までは1年の冒険者としかパーティを組めず、依頼も優しめ、個人にならぬようサポートしてくれる。
なので、ある程度は許容できる。
強い弱い関係なく。
だが冒険者としてやっていくにはある程度の強さは必要不可欠。
やることの多さで頭が破裂してしまいそうだ。
なんとか、なんとか纏めて頭に叩き込まないと……闘法、魔法の修行に勉学一通り、個人でやり続けるにはさすがに無理がある。
「仕方がない。……子供がみんな嫌うあれに行くしかないのか」
心当たりは……まあ、ありはする。
ありはするが、子供は嫌いだろう。
僕も嫌いだ、決まった時に決まったことしか学べず、自分勝手にできない。
けれどそれが実を結ぶものであるというのだから、否定しようにも否定しがたい教育機関……。
学校。
全児童が嫌うが行っておくと得する場所。利得と損失が半々にある場所……さて、ここに通うべきか否か。
いや普通に行くべきなんだろうな……。
しかし、嫌だ。
何が嫌って……いや、行ったことはあるんだよ?
義務ではないが、行っておくと何かに役立つ。
では何が嫌かと言われると……先輩。
そう、あれはちょうど1年前のこと。
自称天才の先輩にいびられ、なじられ、馬鹿にされ、酷い目にあった。
あれが俗に言うイジメなのだろう。
あんなのにはなりたくないな。
自分の力に溺れ他人を下に見るような悪者にはなりたくないね。
まだ年若いのに社会の厳しさを知ってしまった僕である。
「学校に行くのはいいけど、勉強勉強……剣とか魔法とかと同じで楽しければいいんだけどな」
気合いを入れ直すべく真冬の空気を取り込むべく窓に手をかける。
窓を開ければ穏やかな夜の冷たさが肌に染みる。
だがその中に春の温かさが確かにあった。
新たな時代、これからがどうなるのか分からない。
激動になるのか、それとも今までと変わらない平穏なのか。
どちらでもいい。
どちらでも少年にとっては嬉しいことだからだ。
すべてが新鮮に移ろうことは悪いことではないし、『聖皇』アスタルがなした平和が続くことは何よりも大きな奇跡だ。
新たな時代の到来──黒い影の足跡は未だ聞こえてこない。
それでいい。それがいい。
しかし時間が進むにつれ、残酷にも終わりの刻はどんどんと進行してくる。
何でもない序章はおしまい、雪溶けから歯車は動き出す。
少年の運命はここで決定していた。
それを語ったのは誰だったか……いまのムートでは分かりえない。
誰かがその眼で視た運命のひとつであるのだから──
プロローグは終わり、次からは本編へ。