第29話 誕生日の贈り物
聖皇歴517年──夏季。
カールラウハイルによる『街喰』から3ヶ月もの月日が経った。
それだけの時間があれば、神聖国ルーンから出ることも出来る。
僕たちは、サミエント王国に入った。
同じ国だからと見覚えがあるわけではない。
しかし思うことは多少ある。
鍛えたから分かる、空気の肌触りが懐かしさを覚えている。
動物が本能で故郷を察知できるように、獣族の戦士である僕もここが故郷であるとしみじみ感じていた。
離れてから3年。
懐かしさで胸の内がいっぱいになる。まだ遠いはずなのに、あの街が近くにあるように感じる。
旅に出て1年。
沢山色々なことがあった。語るにしても語りきれないことが沢山ある。
子供にしては、苦労の連続だった……。
色んなことがあって、本当に日々を生きるのが精一杯だった。
込み上げる想いが、自然と目元を弛めた。
とはいえ、泣きはしない。
そんなに幼くはない。精神年齢ならもう大人を主張できるほど立派であろう。
それに、男の涙は惚れた女の胸の中だけさ。
チラリと、隣にいるリーシアを覗く。
…………飛び込めれば楽だった。湧き上がる想いを彼女にぶつけられるだけの勇気があれば、どれだけ楽だったのだろうか。
「のどかだね」
「うん。ここら辺は、ずっとそうだ。穏やかで、争いとは無縁の、平和な国なんだ」
「ええ。眠れてしまうほど」
平和しかないサミエント王国に黄昏ている僕たちを他所に、ミッテルは腕を枕替わりにした居眠りの体勢に入っていた。
ランスの座る隙間がない圧倒的な占領……まあそのランスはトゥールの扶助を行ってくれている。
彼は何かと馬の扱いが上手く、パーティの中で1番トゥールに好かれている。
そういうことで邪魔は入らない。
感傷的になっている心を存分に癒せる。
物珍しそうに馬車から顔を出して移り変わる景色に魅入るリーシア……を見ながら和む僕。
天使のいつどこから見ても天使だ。
そっと手に触れて指を絡め乗せる。
彼女に拒否はない、慈愛の笑顔で全てを受け入れてくれる。
標準体温低めのリーシアの手はひんやりとしていて冷たい。
真っ白な髪と肌も合わせて雪の精霊のように綺麗だ。
「どうかしたの?」
「リーシアが可愛いなって思っていただけ」
「煽てても何もないよ」
彼女も慣れたもの、こういうことを言ってもハイハイと受け流される。
最初は照れて臭く笑ってくれてたのになあ……回数を減らせば、新鮮な反応を何年も期待できたのかもしれない。
僕の言い過ぎだ。
100なんてとうに越えているだろう。
仕方ないじゃないか、可愛いんだから。
リーシアの可愛いは日々更新されていくから僕は悪くない。
リーシアを可愛くないなんて思う人がいるか?いないに決まっている。
次の街まであと3時間はある。
このままリーシアの手を握り続けるのも良いが、魔法の訓練をする……方が良いのだが最近はあまり、訓練をやる気になれない。
夢を諦めたとか、そういうわけではないが、何だかやろうと思えない。
このままでいいんじゃないのか、そんな気持ちがある。
……ロサの街に戻って、家に帰って、両親に紹介して、リーシアと暮らして、このままずっと穏やかに暮らすのも悪くないかもしれない。
収入も近場の依頼を受けて攻略すれば何とか安定するはず。
リーシアの故郷を探してあげたいが、それが果たして幸せに繋がるのかどうか分からない。
いや、怖がっているのは僕か。
彼女が故郷に帰ったら、彼女と離れることになるかもしれない……そんな思いが足を遅らせている。
リーシアは僕の隣に居てくれると誓ってくれたが、僕と家族のどちらか取るとしたら……家族かもしれない。
リーシアはどう思っているんだろう。
そろそろ、彼女が魔族であることを話さなければならない。
「……ねえ、リーシアはさ……。僕の事をどう想ってるの?」
馬車の揺れで視界が歪ませながら彼女と同じ風景を視る。
どこまでも広がる平原にある小さな村……遠くからでも分かる平和な光景。
リーシアの顔を視る勇気はない。
感傷的になっている心のせいで、あんなことを口走ってしまった。
どんな言葉が帰ってくるのか……分からない。
「好きだよ」
好き、か。
親愛か恋愛か……どちらも欲しいと思うのは強欲かな。
そういえば僕はリーシアに好きという言葉はあまり言ってこなかった。
好きなのは間違いないが、言ってしまって良いのかという葛藤が邪魔をする。
それを言ってしまえば、彼女から本当に自由を奪うんじゃないのか……。
そもそもあげた指輪がもうその証……と言われればそうかもな。
とりあえず、落ち着くために寝付こう。
いつもとは逆に、リーシアの肩に頭を埋めて眠気を誘い込む。
どんな表情をしているか分からないが、彼女の細い指が優しく頭を撫でてくれた。
冷たいが、確かな体温を感じられる。
安らかな眠りにつけそうだ。
*
ひたすら西へ、西を目指す。
西方大陸でも最西端にあるサミエント王国の中でもロサの街は西に寄っている。
寄り道は近づくにつれ少なくなり、本来よりも到着が早くなった。
サミエントの王都にも寄らず、ただ馬を走らせた。
近づけば近づくほど、あまり思わなかった焦燥感が増していった。
早く帰りたい。
あの家に、僕の故郷に帰りたいという思いが強くなって行った。
結局はまだ子供で、それが当然なんだ。
サミエント王国に入ってから5日。
ちなみに今日は僕の誕生日、狙ってではない偶然である。
見えてきた、街に感動した。
変わっていない、変わらない、全く変わらない。
ただただ平穏で、平和な時代の象徴……英雄なんていらない、世界の在り方が広がった街。
ロサの街に、辿り着いた。
本当に変わらないんだ。
何もかも変わりない街だ。
逆にそれが感動させられる。
「……はあ」
「なんでそこで息吐くんだよ。やっと故郷に戻ってきたって言うのに」
「いや、流石に変わらなさすぎだなあと思ってさ」
3年で変わることも少ないかもしれないが、昨日見た光景のように見慣れている。
瞼を閉じれば、裏に映るのは7年間育った街の思い出だ。
思い出と言っても、この濃厚な3年に比べれば微笑みひとつで済ませられるもの。
けど、それがいい。
当たり前なのに、尊い奇跡によってもたらされた平穏なのだから……いいんだ。
「歩きますか?」
そうだな。急ぎたい気持ちもあるが、歩いて進みたいかもしれない。
ミッテルはいつでも他人を気遣える聖職者の鏡だな。
「ありがとう、トゥール」
御車台から降りて、トゥールにお礼を言う。
急ぎたいがために休みなしで走ってくれた彼女には感謝しかない。
もっと感謝しろ、褒めろ、なんなら人参をくれというかとをしたのでトゥールの頭を撫でながら、歩を進める。
右にトゥール……そして、リーシアがささっと配置につき左を牛耳る。
両手に花?だな。
モテるってごめんね、ランスとミッテル。
さて、目的地に辿り着いたのだが、ロサの街に入る前に行きたい場所がある。
皆にも事前に許可はとっている。
迷いはしない。何度も通った場所だ。
それに、ここからでも見えるほど大きく立派だ。
迷うことなんてないし、ロサの街であることを示す唯一の象徴だ。
夏風が、涼しさを与える。
真夏の暑さでも、木陰に入れば風が冷たくなる。
街の外れにある丘に、風が吹いて草原の音色を奏でる。
風の動きに合わせて、陽を覗かせたり隠したり……大樹の下も変わらない。
まるで子供に戻ったかのような、涼やかな空気が包み込んだ。
「風が気持ちいいね……」
リーシアも同じ気持ちのようで、手を広げ風を感じていた。
大樹の下で風を浴びるリーシア……妖精族にしか見えないんだよな。
「すげえなこの樹……こんなにでけえのどつやって切り倒すんだ?」
僕とリーシアの2人が感動している中、大樹を切り落とすとか……ランスは何を言ってるんだ。
思い出の大樹なんだぞ、一生ここに残してほしい。
感慨に浸るのはいいが、ここに来たらやることがある。
何年も何年も、ここで続けてきた日課がね。
その日課は潰えたが、今またやるのだっていい。
今日はあるかな……知っているよりも低くなった茂みの中を手で探る。
草と土の感触は、やはり変わらない。
その中で、硬い触り心地の物を手にした。
もう1本もすぐに見つかった。
「ランス」
1本をランスに投げ渡す。
唐突に眼前に迫る物を反射的に掴むランスは、それがなんであるかを一瞬で理解した。
「枝……?」
「修行するよ」
「なんで今?ていうかなんで俺?」
「ランスが1番付き合ってくれるから」
それに剣士としてはランスが1番相手するのが良い。
ランスの剣は超一流、相手にとって不足どころか丁度よい……んだけど、ランスは青い顔をしている。
普段の訓練ならこんな事ないんだけどな。
「もしかして、だけど……俺が切り倒すとか言ったことを怒ってんのか?」
「?そんなことないけど……」
別にそんなことはない。
切り倒してほしくはないが、そんなことで怒ったりはしないとも。
単純に僕が修行したいだけなんだけどな……。
「まあ、ちょっとは怒ってるかもしれませんね」
「やっぱ怒ってんじゃん!」
ハッタリである。
機嫌直しのために付き合ってくれるのがランスという男だ。
木の枝ですら様となっている構えを取るランスに、生唾を飲んで構えを返す。
また始まったと言わんばかりのリーシアを下がらせるミッテル。
彼がそばにいる限り、被害なんてものは出ないだろう。
全力でやっても大丈夫という事だ。
合図を聞いたランスが動いた。
戦闘にはそんなものはないのだから、必然的に動きこそ合図となる。
先手を取ろうとした僕に、反撃の横薙が通る。
頭を下げて回避するが、髪が掠められ目の前に落ちた。
木の枝で髪を切断ってなんだよ……相も変わらず、馬鹿力の理不尽。
木の枝ですら、刃物のようにしてしまうこの男はとんだ天才だ。
しかし躱したとなれば、次の攻撃までに隙がある。
地面を蹴って宙に浮き上がった体を捻り蹴りを2回打ち込む。
木の枝以外ありかよ!?なんて声が聞こえてくる顔をしながらも、ランスは片腕で難なく防御した。
着地した……同時、ランスの刃が眼前にあった。
才能が違う。
努力では埋めようのない反射速度の壁がある。
そもそもランスと僕では間合いの差がある。不利は僕だ。
それでも、スピードはあると自負しよう。
ここからでも追いつける。
相手が音速ならば、音速を凌駕した音速を叩き出せばいい。
木の枝に木の枝を合わせ相殺……
「あ……」
なんて芸当、木の枝で耐え切れるわけがない。
激しい力がぶつかりあった結果……2つの枝は見事に割れ落ちた。
引き分け……か。
いや、武器がなければ拳で戦えばいい。
獣族とは四肢の全てが武器である。
つまり、引き分けにはならない。
武器をなくしても突撃してくる獣にランスも目の色を変える。
死にはしないと分かれば、彼は本当に強い。
拳を握り、迎撃の姿勢となる。
「はい。おしまいです、引き分けですね」
それを止めたのはミッテル。
「これ以上やれば、どちらかがボロボロの状態になりますよ」
水を指しやがって……というより、感謝のほうが大きい。
まあこれ以上やっても無意味なだけだ。
圧倒的に僕がボコボコにされて、リーシアに癒されるのがセットになる。
そんな辛い状態で両親に会いたくはない。
誰にやられたかと聞かれると僕は迷いなくランスと答えてしまうからな。
ランスが嫌われ者になるのは避けさせてなければ。
大樹で懐かしむのも一興。
このまま腰を下ろして昼の陽が沈むまで寛ぎたいが、それは後の楽しみに取っておこう。
今は、家に帰ることが先決だ。
こんなところで油を売っているのに、何を言っているのかと言われても仕方ない。
でも、考えて欲しい。少しは心を安らげる必要があると思うんだ。
3年ぶりの再会となるともしかしたら忘れられている可能性もある。
成長しているし、もしかしたらムートだと気づいてもらえないかもしれない。
あらゆる可能性を持って、対抗できるように心構えをしておく。
今の時間、誰かいるかな。
お父さんは夜まで仕事だし、お母さんもこの時間はどうなんだろう……診療所の方でお手伝いをしているかもしれない。
3年ぶりに行ったら両親は仕事中で感動の再会をやり直します、なんてこと起きるのかな。
いや……うじうじしても仕方ない。
何はともあれ、帰らなければ何も始まらない。
「よし、帰ろう」
僕は足を帰路の方に向ける。
通い慣れた、帰り道。
大樹から家への道は、何回も通ってきたからわかる。
忘れることは、永遠にない。
*
途中でトゥールを馬小屋に預け、僕の家へと向かう。
会話は少ない。
普段会話を切り出すのが僕で、今日は僕が話さないから必然的に喋ることがない。
こういう空気の時は決まってミッテルが和ませてくれるが……今日は彼も静かだ。
いつもなら宗教勧誘から聖イリアの素晴らしさまで、語りまくりで自然と空気が良い方向へと持っていかれる。
ミッテルはお母さんと意気投合しそうな感じがある……なんせ同じ聖峰教徒だからな。
会話が少ないだけで表情が暗いといったことはない。
晴れやかで、本当にただ会話しないだけだ。
道は我ながらよく覚えていた。
1歩も間違えず、足を進める度に記憶が鮮明に蘇る。
同年代の友達と遊んだ記憶。
歳上の先輩にイジメという名の可愛がられをされた記憶。
街で見かけた剣士に声をかけ初めて剣を触った記憶。
お母さんの買い物の手伝いをした記憶。
普通だ。
あまりにも普通すぎて、思い出しただけで口角が上がる。
僕が知っている人はいるだろうか……流石に3年も経っているんだ、忘れている人も多いだろうな。
いつも挨拶をしていた相手も、今では通り過ぎるだけの他人とかす。
時間の流れは、残酷にも色々なものを奪って行く。
けれど、この風景だけは変わらない。
何度も通った帰り道は、何にも変わっていなかった。
それが嬉しくて、昔のように戻れるかもしれない。
ただ楽しかったあの日に……英雄に憧れを抱いた、平穏な日々に……。
思いにふけていると、時間の流れは意外にも早い。
眼前にあるのは、どこにでもある民家。
だけど僕にとっては唯一無二の帰る場所。
気づけば、僕だけが前に出ていた。
先陣は僕が切れと言っている。当然だ。
いきなり他の人が行っても?になるだけ……手紙も送っているのだし、案外名前を言えばムートのお友達の!になるかもしれない。
て、そんなことはいい。
僕が行くことに意味がある。
緊張で、歩くことも覚束ない。
扉の前に着くまでで、30秒はかかった。
なんて言えばいいんだろう……ただいま?戻りました?
それとも安心させるためにムート、帰還致しました!とか元気いっぱいに言えばいいかな……。
わざわざひねる必要もない。
ただノックをして、帰ってきたことを伝える。
それだけで伝わるんだ。
……ノックをした。コンコン、と中まで響くようにしっかりと叩いた。
次に声……いつもよりも小さいが、ちゃんとわかるよう声を張った。
「ムートです。帰りました」
覚悟は、消えていった。
中には誰もいない。
あれだけの緊張が嘘のように解ける。
はあ、なんだいないのか……お父さんはまだしもお母さんも仕事の日だったなんて、運が悪いにも程がある。
「仕事中で、居ないみたい」
パーティメンバーにもそのことを共有する。
レッドウルフとして、親への挨拶を頑張りますの姿勢の皆も肩から力が抜けた気がする。
しかし、どうしたものか……夜になるまで待つしかない。
どうすることもできないし、一旦ゲベークでも買いに行こうかな。
振り返り皆と合流するために扉から離れる……直前、
目に入った。
家の前に建てられた、手紙受けだ。
懐かしい。お父さんが不便だから作ろうと言って、僕も手伝った覚えがある。
単なる好奇心だった。
本当に、ちょっとした思いだった。
別に中を見るくらいなんてことない。時間も取らないし、何があるわけではない。
だけど、ここで見ないという選択肢は出来なかった。
例えそれが、一生の後悔の引き金になったとしても……。
手紙受けの小窓を開けた瞬間……目の前が真っ白になった。
塞がれていない右の瞳はその光景を確認できていた。
しかし頭がそれを拒否し、何も知覚させないよう白に染め上げた。
中にある物を手に取る。
動いてくれない頭で、しっかりとそれが何かを確認した。
考えが纏まらず、その場で数分も立ち止まっていた。
実際は数秒だったかもしれない。
そう錯覚するほど、長く時が止まった。
こんな物、どうでもいい。
中に入っていた物を投げ捨てて、すぐさま扉の方へ走った。
「ムート!?」
誰かの声が僕を呼んだような気がした。
今は聞こえない。今この耳に入るのは、たった2つの音だけだ。
それ以外は必要ないとばかりに雑音として処理される。
扉までは短いはずが、長く感じられる……1秒でも早く辿り着きたい僕にとって、数秒が本当に惜しい。
扉の鍵は閉まっている。
どれだけ力を込めても開けられない。
待てるものか。
足腰に力を入れて扉を蹴り開ける。
経年劣化から簡単に壊れた。それとも僕が強くなっただけか……昔じゃ絶対に有り得ない事が出来た事に喜びなんて感情はない。
扉がぶらんと開き鍵は破損……お母さんに怒られるかもな。
けど、いい。怒られる方がいい。怒ってほしい。
玄関を駆け抜けてリビングに……間取りは分かりきっている。
リビングなら、きっと……僕が欲しい答えが得られる。
しかし僕は気づけなかった、玄関にもその痕跡があるということに。
「……………あ、……」
声が漏れた。
そこで、止まっていた時が動き出した。
針を動かさなくなった時計が、数秒ぶりに動き出して、現実を直視させようとしてくる。
見たくない。
見たくなかった。
しかし理想に浸り続けることは出来ず、現実は見なければならない。
それが生きるということなのだから。
どれだけ後悔をしても、生きている限りはその後悔を背負って生きていかなければならない。
「ムート!」
足音がしたと思えば、鈴のような声が聴こえた。
ゆっくり振り返ると……体はそこまで強くないというのに急に走ったせいで肩から息をするリーシア。
少し、救われた気がしたのも束の間……彼女が持っている物に、現実を突きつけられる。
白い紙。
封筒と呼ばれる紙を入れるための道具を彼女は持っていた。
しっかりと封をされた、見覚えのある手紙。
「どうしたの……?急に、扉を壊すから……びっくりしたよ」
言葉の端々に、脅えがあった。ここまで焦った僕を彼女は知らなさすぎるから普段との違いで恐れている。
でも、彼女の声を聴こうとはできなかった。
理想では、リーシアもこの家に笑い合うはずだった。
どこまでも理想は理想でしかなく、
目を背けたくなるような現実に打ちのめされるしかない。
唯一の帰る場所だった家には、何もなかった。
生活感がない。長い時間放置されている。
時計の針が停止し、完全に時間が固定されていた。
そこに、人の気配はない。
いっそ、ここが他人の家で間違えていたらどれだけよかったか。
でも、この家は僕の家だ。
覚えている。
何もないと言ったが、完全にないわけではない。
机と椅子の配置は同じ、備え付けられている棚に飾りつけはないがやはり位置は同じだ。
両親は、ここにいない。
つまりこれはそういうことだ。
帰ってこれる家は、もう安息の地としての機能を失っていた。
もう僕に、帰る場所はない。
「ごめん……。ちょっと、落ち着かせてほしい……」
リビングに繋がる扉の前に立つリーシアを押しのけて、2階への階段を登る。
追ってくる気配はない。リーシアでも、今は拒絶してしまいそうだったから有り難い。
歩いているのに、浮遊感がある。本当に僕はここにいるのか分からなくなりそうで……現実感がない。
本当は夢なんじゃないかと、思ってしまう。
2階にある3つの扉のうちのひとつに入る。
ここも変わらない。
机にベッド、本棚に並ぶのはどれも誰かの英雄譚。
あの時と変わらない僕の部屋なのに、何も思わない。
今日はもう何もしたくない。
何も考えたくないから、ベッドに身を委ねた。
洗濯がされておらず埃が被っているが、そんなの気にすることではない。
本当に何もしたくない。できない。
無気力だけが体を絡め、僕を沈めようと堕としてくる。
このまま沈んでしまえば、また会えるのだろうか。
心のどこかで、わかっていたのかもしれない。
あの路地裏に、飛び込んだ時点で運命は決まっていたんだ。
なんで、僕は英雄なんてものになろうとしたんだろう。
誰とも知らない人を助けるため、大事なものを失った。
そんなの意味がない。
生命の価値は等価値で、僕にとっては感情が価値を上回らせてくる。
正しいのか、違うのか、それすらも分からない。
自問自答をしても分からない。
誰か教えてほしい。
この理想は間違えなのだろうか……僕は、どう生きればいいのか。
そんなこと、どうでもいい。
もういい……何でもいい。
何もかも遅すぎた。
僕は、運命を受け入れるしかないんだ。