淑女然として
「ジェラルド様、いけません。こんなところではオリヴィア様に見つかってしまいますよ」
「大丈夫。オリヴィアなら大聖堂にいるはずだよ。今は僕たち二人の時間だ」
大聖堂前の通路。
幹のように太い柱の陰で、ジェラルドはマリアムの両手に触れていた。猫のような人懐っこい瞳が見上げてきて、不安げに体を震わせるものだから、どうにか安心させたくてその手を握り直す。
「そういうことでしたら……」
マリアムが控えめな仕草でジェラルドの胸に入り込んでくる。
亜麻色の髪がふわりと舞い、甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。
震えはもうなかった。安心したようでよかった。
ジェラルドは彼女の腰に手を回し、彼女の体温に時を忘れて浸った。
「僕たちは今とてもイケナイことをしているね」
「はい……私は罪深い女です。でも……抑えがたいです」
「僕もだよ、マリアム。ほら聞こえるかい。僕の胸がこんなにも高鳴っている。ようやく見つけたんだ、真実の愛を」
「でもジェラルド様は他の人のもの……」
ジェラルドの胸に耳をそばだてるマリアムが、心臓の音を聞きながら消え入りそうに言った。
「それは心配しなくていい。ウィンダム家との婚姻は政治的に必要なだけで、そこに愛はない。僕が愛しているのは君だけだ、マリアム」
ジェラルドは王家に忠誠を誓うセギュール公爵家。
対してオリヴィアは実力で成り上がったウィンダム侯爵家。
この両者が婚姻を結ぶことで、王党派の力を強固にする目論見があった。
それに何より、大陸最強と謳われるウィンダム家の軍事力をセギュール家は喉から手が出るほど欲していた。対してウィンダム家は、外交上の有力なカードとなる王家の血筋を家内に取り込みたかった。
ゆえにこの婚姻は、二つの意味で重要だった。
「ゆくゆくは君を妻に迎え入れ、オリヴィアは石女として別荘にでも追いやるさ。事実上、セギュール家の妻は君になるんだ。家督を受け継ぐのも君の子さ」
「そのような夢物語……。ジェラルド様、私は世界中を敵に回してもあなたの一番になりたいです」
マリアムがしがみつくように抱きついてくる。
「何を言っているんだい。この国で勇者の末裔に敵などいるものか。君は皆に愛される王妃となるのだよ、マリアム」
「私、今とても幸せです。ジェラルド様を愛しています」
ああ、なんて愛らしいんだ、マリアム。
ジェラルドは慈しむようにマリアムの背中をなでた。
「ふふ、とても愛らしいね君は。だけどそろそろお別れの時間だ。儀式の間はお互い他人の振りをしよう。でも僕は君に視線を送るよ」
「視線?」
ジェラルドがマリアムを押し離すと、マリアムが潤んだ瞳で見上げてくる。
「目で会話をしよう」
「……!」
マリアムの目が可愛らしく見開かれ、頬がほんのりと上気していく。
「僕の体はオリヴィアの隣にいても、僕の心は君の傍にある」
「ジェラルド様……」
うっとりと見上げるマリアム。
今すぐにでもその唇を奪いたくなるが、紅が移ると厄介なので我慢する。
名残惜しいが彼女の肩を押しやった。
「さあ反対側の扉から入り合おう。君は東の扉から、僕は西の扉から。僕が扉を開けたとき、大聖堂の視線は僕に注がれる。その中で君を見ているのは僕だけだ。僕だけが君を独り占めにする。いいね?」
マリアムはただのぼせたように「はい」とうなずいた。
「さあ行こう。天奏郷の鐘を鳴らすのは僕だ」
荘厳な扉を両手で押し開くと、綺羅びやかな大聖堂が目に飛び込んだ。
中にいる者は全員が正装を身にまとい、儀式の前の歓談に耽っている。
一人また一人とこちらに気づいてくれる。
親愛の目を向けてくる者もいれば、気さくに手を挙げてくる者もいる。
認知の連鎖が次々と起こり、いつしか歓談はぱったりとやんで、代わりに盛大な拍手が送られた。音の塊が生き物のようにぶつかってきて、体の芯から震えているのがわかる。
聖堂内の視線がジェラルドに向いている。
一身に注目を浴びているのが肌でわかる。
儀式の主役が自分であることを改めて自覚した。
沸き立つ高揚感で誇らしい気分だ。
磨き上げられた大理石へ一歩足を踏みしめたとき、真向かいの扉が控えめに開かれた。わずかな隙間からその身を滑り込ませているのは、愛するマリアム嬢だ。皆が背を向けて拍手を送るなか、こっそりと大聖堂に入り、ジェラルドの姿を見つけるとぱっと表情が華やいだ。
約束通りジェラルドはマリアムだけを見つめる。
誰も知らない、二人だけの濃密な会話。
公衆の特別な面前で、堂々と背徳な行いをしている。そう思うと、胸がどきどきと弾けんばかりで、脳が陶酔したように痺れていった。
「これはセギュール様、晴れ舞台、楽しみにしていますぞ」
「セギュール様の人望の厚さが窺えますな。名だたる同志諸侯が集まっておられる」
ゆったりと歩を進めていると、次々と挨拶が飛び交ってくる。
ジェラルドは微笑みながら卒なく握手を交わし、大聖堂の中央へ向かって優雅に歩いていく。
まだ儀式までたっぷりと時間があるからか、国王陛下はまだ来られていないようだ。
「ジェラルド卿、今回はあなたのための儀式だ。私も正当なる勇者の血族ではあるが、時運が悪く出番がないようだ。新たな王の誕生を祝わせていただくよ」
声をかけてきたのは、同齢の公爵令息だった。
この御仁も勇者の血を引く家系であり、正当な王位継承権を有する者だ。
その証拠に、首筋にある勇者の紋章が青白く輝いている。
服で隠れて見えないだろうが、ジェラルドの背中の紋章も、大聖堂の聖なる力と共鳴して青く輝いているはずだった。目の前の彼と同様に。
「ありがとう。とても嬉しいよ」
彼がすでに王位を譲っているのにはわけがある。
ジェラルドがすでに聖剣を抜いてしまっているからだ。
ジェラルドは大聖堂の壇上に目をやった。
そこに丁重に供えられているのは、神々しく光り輝く片手剣だった。
この国の王を決めるのは民衆ではない。
この聖剣である。
古より続く伝承によると――
『この剣を抜いた者が正当なるログ大陸の統治者である』
と伝えられている。
したがって次の王はジェラルドに決まったも同然なのだった。
この聖剣には古の魔法がかけられており、誰しもが抜けるものではない。
剣を抜く資格を得るためには三つの条件を満たす必要がある。
一つ、勇者の血を引く者
一つ、齢が十を越える者
一つ、剣技と魔力に優れた可能性のある者
これまでの通例では、学園を卒業した十八歳の勇者の末裔が、抜剣の儀式にて王の器を確かめていた。剣を抜いた者が現れれば、時が来るまで現王を補佐し、現王が退いた暁に王位を継承することになっている。
しかしジェラルドは十八歳を待たずして、これまでの通例を無視し、この聖剣を十歳という若さで抜いてしまったのだ。
それはほんの出来心だった。
イタズラ心が芽生えて、こっそり大聖堂に忍び込み、聖剣に挑んだのだ。
そしてこの三十年抜かれることのなかった聖剣を人知れず抜いてしまった。
聖剣を抜いた事実は瞬く間に知れ渡った。
祝福のせいだった。
聖剣を引き抜く者が現れると、新たな王の誕生を祝福するため、伝説の鐘が世界中に鳴り響くとされる。
空の島にそびえ立つ――天奏郷の鐘が。
突然鳴り響いた鐘の音に、聖者たちはこぞって大聖堂に駆けつけた。そこで剣を抱える十歳の少年を見て、いろんな意味で頭を抱えるのであった。
「…………」
ジェラルドは目を細めて、懐かしむように聖剣を眺めた。
今この場にはあと二人、抜剣の資格者がいるが、確かめるまでもない。
聖剣は一度自分をお選びになった。
世界中に鐘の音を打ち鳴らし、ジェラルド・セギュールの名を知らしめた。
だからここに集まっている者たちは、抜剣の儀式が目的というよりも「十八歳になったジェラルドを祝福しに来た」という意味合いのほうが強い。
セギュールと関係の深い貴族が多く集まっているのがその証拠だ。
今日は人生で最良の日となるだろう。
*
万雷の拍手を気にも留めず、オリヴィアは無言で微笑んでいる。
その視線の先にあるのは、東の扉から忍び込むマリアムの姿だ。
大聖堂の壁際を目立たぬように歩き、人だかりの中に上手く溶け込むまでを、オリヴィアはただじっと眺めていた。人と人の隙間からマリアムの双眸が見えたとき、向こうははっと表情を変えて焦ったように俯いた。
「オリヴィア」
優しく呼ばれた声に振り返る。
美しい金髪と青い瞳の青年が目に入ると、オリヴィアは頬をゆったりと緩め、流れる所作でドレスを持ち上げた。膝を曲げると同時に、ふわりと浮遊感。
「ジェラルド様、ご機嫌麗しゅう」
「オリヴィア?」
ジェラルドの息を呑む音が聞こえた。
「はい。オリヴィアにございます、ジェラルド様」
彼の目が言っている。
本当にオリヴィアか、と。
そう思うのも無理からぬこと、身も心も随分変わったと自覚がある。
引っ込み思案だったオリヴィアが堂々としたカーテシーを披露したことにまず驚いているだろうし、恥ずかしくて伏し目がちだったはずが顔を上げて目を合わせてくることにも驚いているだろう。
「これは驚いたな、つい見蕩れてしまったよ。とても……とても綺麗だ。清く美しいとは君のために生まれた言葉だね。すこし見ない間に凛々しくなられた」
「まあ。相変わらずお上手ですわね、お顔が熱くなってしまいますわ。先生からご助言をいただいて、最近は食事にこだわって体づくりに励みましたのよ」
「体づくり?」
ジェラルドの視線が、ぶしつけに足から頭まで走った。
「身長だってこんなに伸びたのですから。この二年、とてもお会いしたかったですわ」
「僕もだよ、オリヴィア。立て続けに仕事が入ってしまってね。これからは時間を作って君に会いに行くよ。いやはや、君のような女性が僕の妻となるとは……僕はまったく幸せものだな」
「お忙しい身であることは承知しておりますので、そのお言葉だけで充分幸せですわ」
ジェラルドが浮足立っている、それが手に取るようにわかる。
「セギュール様、ご機嫌麗しゅう。プロイセが娘、ティナにございます」
横から勝気なお声。
その美しい顔を拝見してすぐにジェラルドが頬を引きつらせた。
「うっ……ご機嫌麗しく、ティナ嬢。君の活躍は常々耳に入っているよ」
ティナ・プロイセは、ジェラルドがかつて愛した女性だった。
目を惹く赤い髪をまとめ上げ、目尻にもほんのりと朱の化粧を施し、顎を上げて微笑むその姿は、燃え上がるような気の強さを体現しているかのようだった。
「最近は頬を吊り上げる挨拶が流行りですのね。あたくし剣ばかりで、セギュール様と違って時流に疎いものですから嫌になっちゃうわ。取り残されてしまわぬよう、いろいろとご教示いただきたいくらい」
ジェラルドはティナと愛し合っていたけれども、並行して別の女性とも愛し合っていた。
「アリア様とは今も仲がよろしくて?」
アリア・フォン・ローゼンハイム公爵令嬢である。
そのこともあってティナとは今も気まずい関係にあるようだ。
ティナもティナで、アリアとの一件を未だに根に持っている。
「はは……最近はどうかな。手紙を送らなくなって久しいからね。しかしティナ嬢、僕の婚約者の前で他の女性の話をするのはいささか――」
「わたくしは構いませんわよ?」
オリヴィアが微笑みを絶やさずそう言うので、ジェラルドは二の句が継げなくなった。
「そ、そうか。君がいいのならいいんだけど」
目を泳がせるジェラルドが、救いを求めてあたりを見渡す。そこに見知った同性の顔を見つけると、わかりやすいくらいに表情を明るくした。
「ひさしぶりだね、モーリィ。招待に応じてくれて嬉しいよ。さあこちらへ」
空気を入れ換えるため、仲間を引き入れる魂胆らしい。
「ご無沙汰しております、セギュール公爵令息様。このモーリィ・レアロイドがご挨拶申し上げます」
主役から声をかけられては、モーリィもこの輪に入らぬわけにはいかない。
片腕を前に折って腰から礼するモーリィが、思慮深い翡翠の瞳でジェラルドを見る。傍から見れば美男子の絵になる礼法に映るが、幼少の頃からモーリィのお間抜けを眺めてきたオリヴィアには微笑ましく感じた。
「レアロイド商会の盛栄はかねがね承っているよ。我が領地の支店もたいそう評判がいいみたいだね、嬉しいよ」
「もったいなきお言葉です。これもセギュール公爵家のお力添えのおかげでございます」
柔和に頭を下げるモーリィ。
「あら、モーリィ。ご機嫌よう」
「ご機嫌麗しく、ティナお嬢様」
「オリヴィアと三人でお茶会をした日以来かしら?」
「そうかもしれませんね。あのときは愉しい時間でした」
ティナとモーリィの二人の会話に、
待て。待て。とジェラルドの顔が焦っている。
「この三人はそれほど仲がよろしかったのか? オリヴィアとモーリィはわかるけれど、オリヴィアとティナ嬢はいつから親しくなったんだい?」
その言葉の裏側には「ティナ嬢と関わるのはよすようにと言っただろう」という叱責が込められていたが、
「二年前ですわ」
オリヴィアは気づかぬ振りをして素直に答えた。
「そんなに前から」
ジェラルドが唖然としている。
自分の婚約者がかつての恋人とお近づきになるのが心底怖いらしい。
悪い噂が発覚することなら、それほど怯えなくてもよいのに。
ティナとアリアの痴情のもつれは、オリヴィアと婚約を結ぶ前のこと。過去に起こったいさかいを、今さらどうこう言うつもりはなかった。
大切なのは過去ではなく今だ。
「きっかけは何だ。君からか?」
「大会で剣を交えまして、親睦を深めましたの」
「君が、剣を?」
君は花のほうが似合う少女だったのに、と言いたげな反応。
「あら、セギュール様。ご自分の婚約者のこと、何も存じ上げないのですね。オリヴィアは剣の道であたくしと渡り合えるほどになりましてよ?」
「オリヴィアが君と?」
ジェラルドの青い目が大きく見開かれる。
ティナの剣術大会の活躍は大陸全土に轟くほど、そのような剣士と互角ともとれる表現は、ジェラルドに大きすぎる衝撃を与えたに違いない。
なぜならジェラルドの中でのオリヴィアは、〝内気で弱虫なオリヴィア〟のまま時間が止まっているのだから。
「あなたは本当にお変わりありませんのね。真実の愛をいくつも探しているお暇があれば、目の前の美しき花を愛でてくださいませ。新緑の蕾がこうして咲き誇ったのですから」
ティナが過去の不純を持ち出すと、ジェラルドが苦く顔をしかめた。
これだから近づけたくなかったのだ、と顔にありありと出ている。
「何のことかな?」
「目で会話しよう」
「……!」
ジェラルドが、凍りつく。
「僕の心は君の傍にある、でしたかしら?」
「なぜ……」
なぜ、それを。
ジェラルドの口から危うく出かけた言葉は恐らくそれだろう。
オリヴィアは拳を握り、意図せず目を伏せた。
悲しかったのかもしれない。
しかし自分の感情が複雑に混ざりすぎてもはやよくわからなかった。確実に悲しみはあるはずなのに、鑑別できぬほど他の感情と混ざり合って、どろどろの塊に成り変わってしまった。
「ティナ様。先ほどのお言葉、訂正させていただきたく存じます。わたくしはもう、ジェラルド様の婚約者ではありませんので」
自分はもう様々なことを通り過ぎ、覚悟が決まりすぎてしまったようだ。
「あら、そうでしたわね。あたくしったら嫌ね、剣ばかりで」
「オ、オリヴィア? 婚約者じゃないってどういう意味だい?」
ジェラルドの声が震えに震えていた。
「先ほど婚約を白紙に戻していただきましたの」
「は!?」
あられもない声が響き渡る。
「待って、待ってくれ、僕は何も聞いてない。君のご両親は承諾したのか?」
「ええ。ジェラルド様のご両親からもご了承をいただきましたわ」
ジェラルドが一瞬考え込むように俯いた。
「そんなはずはない。僕の両親が婚約破棄を認めるなんて」
ジェラルドが次の王となることが決定すれば、時流によっては命を狙ってくる勢力が現れる。ジェラルドがいなくなれば、聖剣の儀が白紙に戻るからだ。それを避けるためにも、セギュール家には屈強な騎士が必要だった。大陸最強のウィンダム家との繋がりを、ご両親がそう簡単に手放すはずがない。
そう高を括りたくなるのもよくわかる。
けれど事実、ジェラルドの両親は婚約破棄を認めざるを得なくなった。
その理由はとても言いづらいことだった。
オリヴィアが何も答えないので、ジェラルドが心配げに見つめてくる。
「まさか。それほどの理由があるのか?」
「わたくしはジェラルド様をお救いしたいのです」
オリヴィアはジェラルドをまっすぐ射抜く。
「君は一体何を」
「わたくしも全力を尽くしますので、どうかジェラルド様もご尽力くださいませ。一滴の血も流さぬこと、これがオリヴィアの切なる願いなのです」
くらりと立ち眩んで、ジェラルドが手で顔を覆った。
「すこし体調が優れないみたいだ。抜剣の儀まで休ませていただくよ」
国王陛下が到着されるまでの間、別室に籠もって一人で考えたかったのだろう。
「振り返らぬほうが身のためだと存じます。目が合ってしまわれますよ」
「……誰と?」
「わたくしのお父様とです」
「っ……!!」
その一言で、振り返ろうとした体が石のように固まった。
「もしかしてお父上もマリアムのことを?」
「すべてご存知です。あなたのご両親も、ここのモーリィも」
「嘘だろ」
ジェラルドは血の気が失せて、その場で三歩ほどよろめいた。
「ジェラルド様、ここからはどうかご慎重に。あなたの発言次第で、今後血が流れうることを重々ご承知おきくださいませ。お覚悟はよろしいですか?」
大聖堂は痛いくらいに静まり返っていた。
「わたくしの父はあなたの首を刎ねたいと申しております」
「ど、どうすればいい、オリヴィア」
ジェラルドが縋りつくような目で見てくる。
「どうか落ち着いてください、ジェラルド様。まずは状況をお伝えしましょう」
すこしでも最善へ近づくため、オリヴィアは慎重に言葉を選ぶ。
「ジェラルド様が浮ついたお心をお持ちだと知った父は、それはもう手がつけられぬほどお怒りになりました。そこで、セジュール家とウィンダム家で一度話し合いの場を設けました」
「僕は呼ばれてないのだけど」
ジェラルドの喉が引くつくのがよく見えた。
「ジェラルド様のお耳には入れぬ取り決めとなっておりました」
「そんなの、僕にはどうしようもないじゃないか」
「あたくしは剣のことしかよくわからないのだけれど、火遊びをおやめになればよかったのでは?」
ティナにそう言われては、
「ぐむ……」
ジェラルドも口を噤むしかない。
「その話し合いは一度や二度ではございません。ジェラルド様のご両親は真摯に謝罪してくださり、わたくしたちの関係を保とうと尽力してくださいました。しかし、父はその度ごとにセギュール公爵家に宣戦を布告しておられます。それをあなたのご両親とわたくしが協力し合って押し留めている状況にあります」
「どうして。君が言ってくれれば僕だって……」
「何度もお伝えしようとしました。ですけれどこの二年間、ジェラルド様はお忙しい身でありましたから、代わりにご両親にお伝えくださるようお願い申し上げましたの。浮ついたお心のこと、ご両親は何かおっしゃってなかったですか?」
「うっ……確かにここ最近、落ち着けときつく言いつけられていた。だけどオリヴィア。もちろん僕が不誠実であったことは認めるが、貴族が愛人を持つことは珍しいことでもないだろう?」
ジェラルドの言葉を、オリヴィアは微笑んだまま受け止めた。
「わたくしの父は慣例や伝統よりも感情を重んじる人間です」
まずは父という人間を知っていただかないと。
「そもそも貴族としてのあり方が違うのです。セジュール公爵家は勇者の血を引く正当なる王族、対してウィンダム侯爵家は武力と知力で成り上がった獰猛な蛮族。あらかじめ断っておきますが、父に貴族の常識を振りかざせば、それ以上の暴力が返ってきますわ」
オリヴィアは「改めてお覚悟の点だけ、念を押させていただきます」と繰り返す。
「ここまで事が大きくなったのは、わたくしの力不足にございます。ジェラルド様がおっしゃる通り、英雄色を好む、とは古来より言われていることです。ジェラルド様が他のお嬢様方へ愛情を注いでいることは、英気ある殿方として当然のことだと理解しておりますし、わたくしの目に入らぬようご配慮いただいていたことも感謝しております。父にはそのことを何度もお伝え申し上げました。ただ……人の数だけ価値観があるように、わたくしの父はジェラルド様の行いを好ましく思わなかったようです。なぜならわたくしが、平等に愛されていなかったからです」
「いや、そのようなことは」
そう言いつつもジェラルドは目を合わせてくれなかった。
「すべての女性を等しく愛し切る、それが英雄の器というものなのだそうです。非常に申し上げにくいのですが、わたくしもジェラルド様の英雄の器を疑ってしまうときがございました。時折ジェラルド様の愛情に偏りがあるように感じてしまったのです」
「僕は君を愛しているよ、オリヴィア。本当だ」
「…………」
オリヴィアは何も答えられなかった。
なにも嫌な態度を取ろうと思ったわけではない。ジェラルドの「愛している」を聞いても何の感情も湧いてこず、どう反応すればいいのか純粋にわからなかったのだ。
「ここに来るまでは確かに君への愛は軽かったのかもしれない。だけど改めて君を見て、その美しさにのぼせ上がってしまうほどだった。事実、僕は君に惚れ直している。いま君を手放したら僕は絶対に後悔するだろう」
隣でティナが「あらまあ!」と口に手を当てた。
「マリアムさんのことはよいのかしら?」
「もちろんマリアムのことも愛している」
「聞いたあたくしが愚かでしたわね」
ティナが大嫌いなピーマンをかじったときの顔をするものだから、オリヴィアはすこしだけそれがおかしかった。
「オリヴィア、よいこと。英雄色を好むとおっしゃいますが、殿方はこのようにもおっしゃいますわ。男性は追いかけたいものだと。手を伸ばしても届かぬくらいが最も美味しく、いざ自分のものになってしまえば関心を失ってしまう。あたくしの次はアリア様、アリア様の次はオリヴィア、オリヴィアの次はマリアムさん。そうして遠くへ行こうとしているオリヴィアをまた追いかけ始めた。つまりそういうことなのですわ」
「違う。僕はそんな軽はずみな愛など持たない」
信じてくれ、とジェラルドが懇願するように見つめてくる。
「わたくしはジェラルド様を人として尊敬しております。この方こそ王の器だとも確信しております。ただ、旦那様としての信頼は尽きてしまいました」
そのことが申し訳なくて、オリヴィアはそっと目を伏せた。
「もう一度やり直す機会をいただけないか。僕なりに平等の愛を実践してみせるよ、オリヴィア」
「すでに二年以上、その機会はあったはずです」
「それは重要な仕事が重なり致し方なかった」
ジェラルドの言葉を無視してオリヴィアはさらに続ける。
「両家の話し合いにジェラルド様をお呼びにならなかったのは、あなたの本当の気持ちを確かめるためなのです。話し合いの場にお呼びになれば、戦争を避けるためにわたくしをお選びになるはずです。そうなってしまうと、わたくしを選んでくださった理由が外交上の理由なのか真実の愛なのか判別がつかなくなってしまいます」
「オリヴィア、あたくしが」
守ってくれるようなお声。友人想いのティナ様。本当にお優しい方だ。
「いいえ、わたくしが申し上げます。わたくしのために、これ以上損な役回りをしていただくのは偲びないですわ。あなたは本来、太陽の人なのですから」
「オリヴィア……」
これは自分が告げるべきことだ。
ティナの優しさに甘えるわけにはいかなかった。
「ジェラルド様」
「な、なんだい?」
オリヴィアは改めてジェラルドに向き合った。
「この二年間、ご両親の許可のもとあなたを監視しておりました」
「なんだって!?」
「レアロイド商会をセギュール公爵領に進出させて、ウィンダム侯爵領の人間を散りばめておりましたの。モーリィ?」
「はい、お嬢様」
「わたくしとの逢瀬を仕事だと断り、マリアムさんと情事に耽っていた報告書を」
「ここに」
モーリィが懐から出した書類の束を目にした途端、
「ああ……ああ……!」
ジェラルドは自身の髪をくしゃくしゃに握りしめた。
もはや言い逃れはできない。
モーリィが手にしている紙の束は、この二年間オリヴィアの逢瀬を断り続け、浮気相手と過ごしていた証拠の数々だ。何度お話ししようとしても、ジェラルドは会ってすらくれなかった。それどころか……
「モーリィ?」
突然のことにオリヴィアは我が目を疑う。
あろうことかモーリィは、手にした報告書をびりびりと縦に裂いたのだ。
「もはやここにセギュール様の不利となる証拠は存在しません。今まさに私の手で葬り去りました。セギュール様、差し出がましいようですが手を差し伸べさせてください」
モーリィ、それは予定と違う。一体何をしているの?
「私と初めてお会いした日のことを覚えておいでですか。お嬢様が私をセギュール様に紹介してくださった日のことです」
モーリィが突然つらつらと語り始めた。
「私の右腕は醜く焼け爛れておりました」
そう言って彼が袖をまくると、おぞましい腕が目に飛び込んだ。
白い手袋から肘の上まで目を背けたくなるほどの火傷が続き、実際にオリヴィアは直視することができなかった。あまりに痛々しくて、何度見ても慣れない。
「私はこの火傷の跡を必死に隠し、人目を避けるように生きて参りました。ですが貴殿は一平民のために国中を駆けずり回り、ありとあらゆる治療師、魔術師、薬師を私のもとへ連れて来てくださいました。しかしそれでも癒えぬ右腕の痣を見て、貴殿はなんと涙を流されたのです。たとえ平民であろうと別け隔てなく接するお心、我が身のように寄り添ってくださるお姿に心を打たれ、この方が君主となる国家は明るいと確信したほどです」
そう語るモーリィの目にも、涙の光が浮かんでいた。
「剣での試合のときもそうです。これまでお会いした高貴な方々は、私が剣で勝利すると嫌がらせをしてきました。それが嫌でわざと負けていましたが、貴殿はそれを見抜き、正々堂々やり合いたいとおっしゃってくださいました。そして貴殿は私の勝利を認めてくださったのです。これほど器の大きい人を私は見たことがありません。貴殿以上に王の器を有する者など皆無です」
おそらくそれは、この場にいる全員が同意することだろう。
「私は貴殿の人格を尊敬しております」
あのときモーリィの腕は癒えなくとも、心の傷は癒えたに違いないのだ。
「対してこちらにおられますオリヴィアお嬢様は、見た目以上にお心が美しいお方です。幼少の頃から傍で見てきておりますが、この方ほど高潔で気高い女性がどこにおられるでしょうか。お嬢様は貴殿と同様、生まれの貴賤ではなく人の本質を見てくださるお方。貴殿の前で申し上げるのは適切ではないかもしれませんが、オリヴィア様も王の器をお持ちだと私は思っております」
モーリィの柔らかく優しい視線。
「私は誰よりもお嬢様の幸せを願っております。その願いを叶えることができるのはジェラルド・セギュール様、あなたです。二人が笑い合う未来を、私だけでなく多くの民が待ち望んでいるのです。どうか平等の愛と言わず、たった一人を愛してください。オリヴィアお嬢様を選んでください。それがこの不肖、モーリィ・レアロイドの最初で最後の願いです」
己の恥部である腕を曝け出し、モーリィは深々と頭を下げた。
「……ぁ」
ジェラルドの喉から吐息が漏れる。
その視線は右に左にと泳ぐばかりで、まさに頭の中が真っ白という有り様だった。
「何をまごついておられるのですか。さあ強い意志をお示しくださいませ」
煮えきらないジェラルドに対し、モーリィが口調を強めて催促する。
「……どちらかを、選ばないとだめ?」
その反応に、モーリィが悔しそうに唇を噛む。
余計な失敗をした、とその顔が物語っていた。
「お嬢様、申し訳ございません。あなたの心に傷の数を増やしてしまいました。ジェラルド様の誠意をご覧になったあとで、お嬢様が最終的な判断を下さればよろしいかと思っておりましたが……ジェラルド様は決断するとなると思慮深く慎重なお方のようです。商いの道をゆく者が双方に利を生まぬ進言を……私はどのような罰をも受ける覚悟です」
ひどく沈痛な声が床にこぼれ落ちる。
「心の傷、とは何のことかしら、モーリィ」
オリヴィアが小首を傾げながら言った。
「……お嬢様?」
「もはやわたくしはジェラルド様に何の感情も抱いておりませんわ。物事がはっきりして、むしろ清々しいくらいです。感謝しますわ、モーリィ。これで心置きなく物事を推し進められますもの」
強がりも混じっていた。
「君は何を言って……」
ジェラルドは目を見開き、言葉を失っている。
「ジェラルド様、事がここまで大きくなったのはわたくしの力不足だと申し上げましたね。そうです、わたくしは未熟者でした。英気ある殿方は好色であると口では言いつつも、心の奥底ではあなたの一番になりたかった。あなたを本当にお慕いしていて、他の女性といるあなたを見ると切なくなりました。だからこそ、お父様に胸の内を見透かされてしまった。本来であればお父様はどのような無礼であっても笑って見過ごすような温厚な人なのです。わたくしがもうすこし自分の気持ちを御せる女であれば、このようなことにはならなかったのかもしれません。本当に嫌ですわね、わたくしったら」
意に反して嫉妬してしまう自分が嫌いだった。
どうにも醜い存在に思えて、嫌悪感を抱くほどだった。
何度も嫉妬しないように、考えないようにしたが、そうすればそうするほど、オリヴィアの嫉妬心は強くなっていった。その心の醜さにオリヴィアは打ちのめされたし、ジェラルドから愛を向けられないのも当然だと思った。
だからオリヴィアは、変わることに決めたのだ。
もう一度自分を好きになるために、屋敷のベッドで泣き腫らしながら、絶対に変わってやろうと強く思った。誰もが振り向く魅力的な女性になって、ジェラルドを見返してやろうと思った。
だけれど――
オリヴィアは寂しく微笑みながら続ける。
「ジェラルド様のお眼鏡に適うよう、わたくしも精一杯努力したつもりでしたのよ? 舞踊も華道も詩歌も……。あなたが最初に愛したティナ様を真似して、剣を習ってみたり。だってあなたが選ぶ人は皆さん魅力的なんですもの。ティナ様もアリア様も自信に満ちあふれて眩しいくらいでしたわ。だからわたくしはすこしでも並べるように自分を磨いてみたのですけれど」
まだ足りなかったようだ。
「ウィ、ウィンダム侯爵令嬢様!」
静寂を突き破るように、予想外の人物が乱入してきた。
「マリアム!?」
突然のことにオリヴィアは息を止めるほどだったが、驚いたのはジェラルドも同じだったようだ。
「お、お初にお目にかかります、マリアム・ルクヴルールと申します」
「どうして来た、マリアム!」
「お許しください、ウィンダム様!」
その場に膝をついたマリアムが、恥も外聞もなく額を床につけた。
「マリアム! 何をしているんだ!」
「私が自惚れていました。この方を許してあげてください。いくら傷ついたとは言っても、公の場でこんな仕打ち、ひどいですよ。この方はご自身の心に正直であっただけです。私が身を引くので、これ以上の辱めはやめてあげてください。こんなの……こんなのジェラルド様が可哀想ですよ!」
その大きな瞳から、大粒の涙が溢れ出ている。
「ちょっとあなた、被害者でもないのに被害者面しないでちょうだ――」
「マリアムさん、これで涙をお拭きになって」
オリヴィアは膝を曲げ、マリアムの目尻にハンカチーフを押し当てる。
「オリヴィア?」
背中に投げかけられるティナの声。
「ジェラルド様のために怒っていただきありがとうございます」
「……ふぇ?」
「さあお立ちになって。背筋を伸ばして。公の場での涙は、あなたの品位を下げてしまいますわ。あなたはこの場に飛び込む勇気のある女性なのですから、これ以上恥をかかせるわけにはいきません」
マリアムの両手を支え、一緒に立ち上がった。
「ちょっとオリヴィア、どうしてその女をかばうのよ」
「マリアムさんを見過ごせない」
オリヴィアはティナと目を合わせられない。
「だってこの場で一番泣きたいのはあなたでしょう!? 一番傷ついているのはあなたでしょう!? こんなふざけた話があっていいの!?」
ティナの叫びが心に温かく染み渡る。
「ティナ様も、わたくしのために怒ってくださってありがとうございます」
オリヴィアは一滴の血も流さないと誓った。
冷たい女を演じるのはわたくしだけで結構。
オリヴィアは悠然と微笑む。淑女然として。
「オリヴィア……」
ティナが声を詰まらせ、ただただ見つめてくる。そして今度はマリアムに視線を送った。
「マリアム、といったかしら。これが国の命運を背負う者の覚悟です。公の場で涙を流すことの意味をわかっているのです」
そう。
ここで辛い顔を続けようものなら、一粒でも涙を流そうものなら、お父様は絶対にジェラルド様をお許しにならない。戦争は避けられない。したがってこの程度の男女のいさかいは取るに足らぬことで、怒りもしないし悲しみもしないと態度で示さなければならない。
「もうよいのです、ティナ様。損な役回りばかりさせて申し訳ありませんわ」
それからオリヴィアは、マリアムの乱れた髪を整える。
「マリアムさんの心意気は素晴らしいですが、今さらジェラルド様がわたくしを選んでももう遅いのです。ジェラルド様は賭けに負けてしまわれましたから」
「どういう、ことですか?」
つぶらな瞳が見上げてくる。
「戦の最中でも指示が出せるようにとモーリィが開発していらしてね、この念話器というものを発明なさったんですの」
オリヴィアは身に纏うドレスからボタンのような黒い物体を取り出した。
「そしてジェラルド様の着ていらっしゃる礼服もレアロイド商会が仕立て上げたもの。つまりですね、儀式前のあなたたち二人の会話は、この念話器によってセギュール家・ウィンダム家双方に筒抜けだったのです」
「え……嘘……」
マリアムは後ずさり、一瞬にして青ざめた。
「わたくしの父は今日という日までジェラルド様の改心を信じ、最大限の譲歩をしてくださいましたわ。ですがわたくしとご両親の願いは叶わず、あなた方の濃密な愛の会話を聞かされることとなりました」
オリヴィアはうつむき、足元に視線を彷徨わせる。
「だからわたくしは必死に頭を悩ませているのです。戦を収めるよい方法はないかと。このまま行けば汚名をそそぐため、父はセギュール公爵領へ進軍することでしょう。この大陸で我が軍を抑える武力はございませんので、本当に悩ましいことです」
「そんな……」
「ご安心ください。名家の皆様がいらっしゃるので、この場での命は保証されております。父は誇りを重んじる武の者ですので、戦場以外で決着をつけることはありませんわ」
だからこそこの場で白黒つける取り決めとなった。
ジェラルドの命を守るために。
「オリヴィア嬢、誠に申し訳ない。戦だけは……」
居ても立ってもいられなくなったのか、『当人同士の話し合いに介入せず』という取り決めに反して、セギュール公爵が自分の息子の隣に立った。息子の肩をしわが寄るほど鷲掴みし、
「ジェラルドは辺境の地へ赴かせ、長い月日をかけて反省させますゆえ、どうかお許しいただきたい。そして叶うことなら、もう一度友好な関係を結びたく思います」
遅れて、十代の少年がジェラルドの逆隣に駆け寄った。
「セジュール家が次男、シャルルもお詫び申し上げます。愚兄と共に更生しますので、どうかご慈悲を」
深々と頭を下げ、金色の髪が垂れ込める。
ジェラルドは父と弟に挟まれ、青い唇をわなわなと震わせている。
「お顔をお上げになってください。公衆の面前で公爵様が頭を下げる意味を知らぬ者などこの場にはいらっしゃらないですわ。ねえ、お父様?」
オリヴィアはジェラルドのさらに奥、お父様とお母様に視線を向ける。
「…………」
両腕を組んだ父は、口角を下げたまま唇を閉ざしていた。
「このオリヴィア、一滴の血さえ流れることを望んでおりませんわ。世間のあずかり知らぬ色恋沙汰に、民を巻き込むべきではありませんの」
高名な方々の前で見せた公爵様の叩頭、それは必ず父の胸に届く。
「そうであるな」
低く、心臓に響く声だった。
「私からも申し上げる。公爵様、どうぞお顔を。あなた方の誠意に私の溜飲は下がりました。抜いた剣は鞘に納めましょうぞ」
父は静かにそう言った。胸に秘めたる想いを表に出さず。
「ウィンダム侯爵。……誠に感謝いたす」
セギュール公爵が今度は父に向かって礼を言う。
次の瞬間、ジェラルドが崩れ落ちた。
張り詰めた緊張が解けたのか、腰が抜けたように両膝をつく。
オリヴィアの心が割れそうに痛むが、必要なことだったと言い聞かせた。
これほど多くの人の前で、ジェラルドは充分辱めを受けた。もう彼は赦されるべきだ。そしてオリヴィアは、非情な女だと罵られる覚悟がある。別に理解されなくてもいい。一滴の血も流れなかった、その事実が何より大事だった。
だからオリヴィアは悠然と微笑む。
「いま思うとジェラルド様、あなたはわたくしの翼でありましたわ」
ジェラルドを愛おしく見つめる。
「あなたのおかげで高く高く翔ぶことができましたの」
だからどうかあなたも、上を見て。
「幸せなことも、辛いことも、すべてかけがえのない経験。今ならそう思えますの。もちろん当時は辛かったですけれどね。わたくしは前を見て歩きますわ。勇んでどこまでも。どうかお体には気をつけて。では、ご機嫌よう」
ドレスの裾を持ち上げたオリヴィアは、片足を引いてゆっくり膝を曲げた。
お別れの挨拶だった。
その姿をジェラルドは呆然と見上げ、「ぁ……ぁぁ……」と声にもならぬ息を吐き続ける。だけどどういうわけかオリヴィアには、その吐息が「行かないで」と言っているように聞こえた。二年前であればあるいは。オリヴィアは微笑みを絶やさず踵を返し、赤い絨毯の上を悠然と歩んでいく。
「オリ、ヴィア……」
名を呼ばれてもこの足は止まらない。
「オリヴィア様、必ずや兄を更生させてみせましょう。此度は寛大なご配慮、誠に感謝いたします。いただいた恩赦、必ず無駄にはしません」
シャルルの声が静かに尾を引いた。
*
「あーあ、兄さんのせいだよ」
ジェラルドの肩を抱くような素振りを見せ、ジェラルドにだけ聞こえる声でシャルルが囁いた。その声の冷たさにぞっとして、ジェラルドは思わず弟の顔を見た。堪えきれない、とでも言うかのように忍び笑いが漏れ出ている。
「兄さんのせいでセギュール家はいい笑いものだ。あとは僕に任せていいから、安心して流刑を受けてくれよ。くくく」
「シャル、ル?」
思いきり肩を掴まれて、その痛みにジェラルドは顔をしかめる。
「僕は兄さんが目障りだったんだ。ずっと僕の一歩先を行く。でもようやく消えてくれたね。これでセギュール公爵家の次期当主はこの僕だ」
「な、何を言って」
「事が落ち着いた頃に使者を向かわせるよ。こっそり毒をお渡しするから、僕らに迷惑かけずに死んでよね? 兄さんが死ねば皆も許してくれるさ」
今の言葉を聞いたか。父上、母上。
しかしシャルルの声はジェラルドの耳にだけ届いた。
「いや違う……こんなはずでは……」
すべてが終わった。
すべてが狂ってしまった。
未だに自分の何が悪いのかわからない。
「僕の何が間違っているというんだ。僕はただ、二人の女性を同時に愛していただけだ。愛する気持ちを隠さなかっただけだ。それのどこが悪いんだ」
「まだ懲りないんですの」
ティナの侮蔑するような声が上から降ってくる。
「あなたには立場がありますわ。民の模範となるべき重い立場が」
「違う。時代が僕に追いついていないだけだ」
僕がおかしいのではなく、世界がおかしいのだ。
神様だって僕たち全員を愛してくれているじゃないか。
それと同じことをたった二人にしただけの話だ。
「そうか、時代を変えればいいのか」
ジェラルドの頭の中で、一つの考えが天啓のように閃いた。
「立場があるというのなら、君たち何かを忘れていないか。僕は十歳のとき聖剣を抜いているんだぞ。あのとき鳴り響いた天奏郷の鐘を忘れたとは言わせない」
顔を暗く俯けたまま、ジェラルドがよろよろと立ち上がる。
「聖剣の伝承と鉄の掟はこうも言っている。この剣を抜いた者が正当なる勇者の末裔、ログ大陸の統治者であると」
そして弾かれたように、大聖堂の壇上に向かって駆け出した。
「僕が王となり、時代を作る」
「誰か愚息を止めてくれ!」
「兄さんそれは駄目だよ! ウィンダム家と争うのは話が違うでしょ!」
「この場に僕を止められる者はいないだろう?」
剣技と魔力に長けた者、それが聖剣を抜く条件だ。
それを満たしたジェラルドを抑えられる者など、この大聖堂にいるはずもない。
赤い絨毯を踏みしめ跳躍し、三つの段差を飛び越え、息つく間もなく机の前へ到達する。
見下ろした先にあるのは、丁重に収められた聖剣だ。
天窓から差す自然光を採り込んで、散りばめられた宝珠が煌めいている。
この場にいる全員が身動きの取れぬなか、ジェラルドは躊躇なく剣の柄を握りしめた。固く冷たい剣の重み。光を突くように天上へ掲げ、愛する女性に向かって告げる。
「マリアム、僕は君を愛している。君を愛してもいい国を作るよ。そしてオリヴィア、君さえも愛してみせる。逃がさないからね?」
そうして出口の扉で立ちすくむオリヴィアに剣先を向けた。
「気が狂っていますわね」
吐き捨てるように言うティナ。
「このままでは戦が……」
誰かがそう言った。ジェラルドが鼻で笑う。
「いくらウィンダム侯爵家と言えども、王命のもとに集った連合軍を相手にすれば分が悪いだろう?」
ウィンダム家は力を持ちすぎた。
ジェラルドが先頭に立ち、不穏分子をなくす聖なる戦いを始めるのだ。
「ジェラルド様。わたくしが何の策も講じていないとお思いで?」
「は?」
オリヴィアの強い眼差しを受け、ジェラルドは間の抜けた声を発した。
「わたくしの理想的な筋書きは、あなたが誠意を見せることで父がすべてを水に流してくださることでしたの。けれどもちろん、理想通りに行かない場合も想定しておかなければなりませんわ。例えばそう、お父様がお許しになっても、ティナ様がお許しにならない場合とか」
「どういう、ことだ?」
ジェラルドは思いきり動揺した。揺れる視線をティナへ注ぐ。
「あら、ご存知なくて? あたくしはウィンダム家の長男、ガジェ・ウィンダム様と婚約を結びましたのよ?」
「なに!?」
「それに加えてアリア様は次男、ノエル・ウィンダムと婚約を結びました」
オリヴィアが凛と背筋を伸ばして微笑んだ。
「ウィンダム家、プロイセ家、ローゼンハイム家は三家同盟を結びましたの。これでウィンダム侯爵家は海と山をも味方につけましたわ。万に一つ、ジェラルド様がお勝ちになる望みはありませんの」
それではセギュール公爵領が三つの領地に囲まれてしまう。
「無血による降伏をおすすめいたしますわ」
「そんな……そんな……!」
鼻にしわを寄せたジェラルドが、オリヴィアに鋭い視線を送った。
「僕は勇者の血を引く公爵家だぞ。君は王族に刃向かうというのか」
「刃向かうも何も勝負にすらなっておりません。今やわたくしたちの関係は蟻と象でございますわ。どちらが蟻かは申し上げるまでもないでしょう」
「…………」
何も、言葉が出てこない。
開戦すれば間違いなくセギュールが滅ぶ。
どれだけ周到に準備を進めてきたのだろう。
恐ろしいことに最初から無血の運命が定まっていた。
無血の過程が、円満かそうでないかの違いしかない。
「ジェラルド様、もうやめにしましょう。わたくしはあなたを恨んではいないのですから。これ以上、自らの品位を貶める真似はおやめになって」
「馬鹿息子、なんてことを!」
「剣を置いてこちらに来るんだ、兄さん」
「……僕には何もない。すべてを失った。地位も名誉も」
顔を歪めたジェラルドが天を仰いだ。
どうしようもなく声が震え、今にも消え入りそうになる。
「もう僕が縋れるものはこの剣しかない」
「まさかお抜きになるおつもりですか?」
「そうだ。血を流そう、オリヴィア。どうせなら道連れだ。王位を示し、開戦する」
右手で剣の柄を、左手で剣の鞘を掴み、ジェラルドはぐっと力を込める。
「そうですか。ではどうぞご自由に」
「――は?」
その余裕は、何だ?
「どうしたのですか。さあお抜きになってくださいまし」
「君は血を流すまいとしていたのでは――」
「血は流れませんので、どうぞお好きに。いくらあなたが王の後継であろうと、もはやあなたの信頼は地の底まで失墜しました。どれだけ威を示そうと、我が三家同盟と争うために有志がお集まりになるとは思えません。もはや話はそこまで来ているのですよ、ジェラルド様」
もう手遅れだというのか……。
すべてはオリヴィアの手の上。
今さら戦意を示したところで、戦況が固く決まりすぎていた。
「あなたこそお忘れになってはいないですか。聖剣を抜いたところで後継の資格を得るだけ。国王陛下は未だご健在にあらせられます。つまり陛下のご許可なくして軍を動かすことは、陛下に対する謀反を意味します。なぜなら陛下は、我が三家同盟に友好の意を示しておいでですから。陛下は聡明なお方、我々の力を抑えるよりも、迎え入れるほうに利があると判断なさいました」
「そこまでなのか。そこまで埋まってしまっているのか。それではもう、どうしようもないではないか。完膚なきまでに、打つ手がないではないか」
「ですから申し上げたのです。どうぞご自由にと」
権謀術数に備えのあるジェラルドでさえも、この状況を覆す策が何も思いつかない。
かつて少女だったオリヴィアが今は末恐ろしく感じる。
「君は一体どこまで視えていた」
もしかしたら自分は一人の美しい女性ではなく、一つの稀有な才能を取り逃してしまったのではないだろうか。その損失が頭によぎると、どうしようもない恐怖に襲われた。自分はとんでもないことをしでかしてしまったと。
「……もう、戦意が折れた。何も湧いてこない」
からん、と剣が床に落ちる。
ジェラルドは蒼白のまま、すとんと膝から崩れ落ちた。
敵いっこない。
壇の下で微笑み続けるオリビアが見上げるほど巨大に映る。
これが、浮ついた男の末路か。
「であれば、泥を啜って死ぬまで」
せめて潔く。
ジェラルドは床に転がる聖剣を再度掴み取る。
「ジェラルド様、よして。それでは意味が」
「オリヴィア許してくれ。血を流したくないという君の想いに反する気はない。ただもう生きていることが恥ずかしくなった。血を流すことになりすまなく思うが、理解してほしい。今この期に及んで思い知らされたよ、君は死ぬほど美しいと。君ほどの女性を手にしていたのに、僕は手から零してしまった」
「ジェラルド様!」
ジェラルドは両腕に力を込めて剣を――
「え?」
「え?」
――抜けなかった。
ジェラルドとオリヴィアが同時に声を出す。
どよめきが巻き起こる大聖堂で、何度鞘から剣を引き抜こうとしても、まるでびくともしない。
「は、え?」
脳内が混乱の渦に飲み込まれる。
「抜け、ない」
血管が浮き上がるほど力を込めても、聖剣は姿を現してはくれなかった。
「なぜだ? なぜだ?」
何度も何度も。
「抜けろ! 抜けろ!」
声を荒げながら剣を抜こうとするがそれは叶わない。
「僕は死ぬことすらできないのか」
ジェラルドは目の前が真っ暗になった。
沼のような絶望の闇に引きずり込まれていくようだった。
非情に徹しなければならないとオリヴィアは思った。
両膝をつき、天を仰ぎ、声もなく涙を流すジェラルド。
あられもなく絶望するその姿を目の当たりにしても、表情一つ変えてはならないとオリヴィアは思った。それを無慈悲に見届けるのが自分の役目だ。
でも、どうしようもなく胸が痛かった。
喉が締めつけられて、上手く呼吸ができなかった。
だって仕方がない。
非情に徹しようとするけれど、ジェラルドに対して深い情がある。
それが本心だ。隠しきれない本音だ。悲しくないわけがない。
辛い思い出もあったけれど、間違いなく幸せな思い出もあったから。
内気で引っ込み思案だった自分を、いろいろな場所へ連れて行ってくれた。決して怖がらせないように、優しく優しく接してくれた。どう振る舞えばいいかわからない自分に、無理しなくていいからと、自然のままでいいからと、彼は柔らかく笑ってくれた。人との距離の詰め方がわからない自分に、歩幅を合わせて寄り添ってくれた。その目線、仕草、声色で、どれだけ心が軽くなったことだろう。どれだけ救われたことだろう。
これまでの彼の優しさが、急に全部思い出されていく。
そんな優しい彼を、声もなく泣かせてしまった。
心を折ってしまった。
死のうとすらさせてしまった。
静かに絶望していく姿をまざまざと見せつけられて、オリヴィアは感情がぐちゃぐちゃになってしまった。
非情になれるわけが、なかった。
溢れるほどの涙が目に浮かぶ。
視界がぶわっとぼやける。
精一杯、背伸びしてきたつもりだったけれど。
もう駄目みたい。
けれど、一粒として流すわけにはいかない。
真意はどうであれ、社交場での悲哀の涙は、最大の恥辱を意味する。
ひとたび流れ落ちてしまえば、戦の引き金になりかねない。
だから前を見る。
目に一杯の涙を溜めつつも、毅然と背筋を伸ばして壇を見据える。
両手をお腹に押し当て、顎をくっと上げ、一滴の血も流さぬように。
淑女然として、最大の強がりを。
淑女然として、最大の微笑みを。
だが次第に呼吸が荒くなる。
意図せず顔がくしゃくしゃに歪む。
駄目……駄目……。
溢れる涙が止まらない。
目尻の端に膨らむ涙の粒が、とうとう零れ落ちようとしたとき、
「お嬢様」
そっとハンカチーフを押し当てられた。
「モー、リィ?」
優しく添えられた布越しに、覗き込んでくる翡翠の目が見えた。
「表舞台に立つつもりはありませんでした。ひっそりと身の丈にあった暮らしをするつもりでした。騙すような形になってしまい申し訳ありません」
「何を言って……」
モーリィはオリヴィアの言葉を最後まで聞くことなく背中を向けた。
あろうことか右腕の袖をめくり、焼け爛れた腕を露わにし、白い手袋さえも脱ぎ捨てて、ジェラルドのうなだれる壇上へと歩き始めた。
するとどこからともなく四人の男性がモーリィを取り囲んだ。
それはモーリィの進行を妨げるというよりも、モーリィを護衛するための陣形に近かった。
「公の場で正体を明かすなど何を考えておられるのですか」
「思慮の上だ。咎は甘んじて受ける」
モーリィは前を向いたまま端的に答える。
「御身に何かあってからでは遅いのですよ」
「構わん。お前たちに非はない」
大聖堂の視線はジェラルドからモーリィへと移る。
モーリィの右手の甲が不思議な青い光を帯びていた。
「その紋章……」
焼け爛れた火傷の奥に埋もれて、勇者の紋章が光り輝いていた。
「モーリィ、あなた――」
モーリィが壇上へ上がる。
「聖剣を」
「ハッ」
取り囲んだ四人のうちの一人が、歯切れよく返事をし、静謐な聖剣を両手で差し出した。
モーリィが剣を受け取り、右の手で剣の柄を、左の手で剣の鞘を掴む。
さめざめと涙を流すジェラルドが、ありえない光景を目の当たりにしたとでもいうように、モーリィの光り輝く右手を茫然と見上げた。
「モーリィ、君は何をしてるんだい。その剣は君が触れていいものでは――」
その刹那、モーリィが聖剣を引き抜いた。
剣身が鞘を滑る金属質な音が、きぃんと大聖堂に鳴り響く。
「どうして!?」
抜き放たれた聖剣が、天高く掲げられ、銀色の光を迸らせる。
本来であれば聖剣を引き抜くと同時に、この場にいる全員が膝をついて頭を垂れるのであるが、誰もが驚愕しその儀礼を行うことを忘れていた。
モーリィは高らかと謳う。
「我が名はモレリア・エン・メルヒエル。陰謀に敗れ去った遠い国の没落貴族ではありますが、勇者の血を引く正当なる後継であります」
オリヴィアは頭が真っ白になった。
モーリィのことを何もかも知っているつもりだった。
ウィンダム伯爵領の商家の息子で、幼少の頃からお付き合いがあって、ジェラルドの件で辛かった二年間をずっと傍で支えてくれた、大切で頼りになる幼馴染。
オリヴィアの認識では、そうだったはずである。
「モーリィ! なぜ君が抜ける! 僕が先に抜いたんだぞ!」
ジェラルドが錯乱したように叫ぶ。
「貴殿が十歳のとき私は九歳でありました。そのときは単に聖剣を抜く資格がなかっただけです。それに貴殿は私の剣技と魔力を認めてくださったではありませんか。あのときはとても誇らしく、涙が出るほど嬉しかったです」
確かにあのときジェラルドは、雲一つない青空の下で、モーリィの勝利を認めたのだった。そのときの光景は一枚の絵のように美しく、今も尚オリヴィアの目に焼きついている。
「ああ……ああ……」
ジェラルドが両手で顔を覆い、声にならない声で呻いた。
「この火傷は私が暗殺されかけた際に負ったものです。火事で負ったなどと嘘をついてご心配をおかけしたこと、今更ながらお詫び申し上げます」
「僕には何もない。地位も名誉も。縋るべき聖剣も……」
ジェラルドは背中を丸め、消え入るようにうずくまる。
「申し訳ございませんが、ジェラルド様。この場は私めに掌握させていただきます」
壇上のモーリィと彼我の距離で。
目が、合った。
「オリヴィアお嬢様」
聞き慣れたいつもの優しい声色。
「一滴の血も流したくない――お嬢様のその願いを叶えられるというのなら、このモレリア・エン・メルヒエル、今一度俗世を離れ、陰謀渦巻く王の道を歩みましょう」
それからモーリィは父に目を向け、毅然と背筋を伸ばして言った。
「このモレリアが正体を明かした覚悟に免じ、晴らしどころのない想いをどうか胸の内にしまっておくことはできないでしょうか。人知れず闘っておられたお嬢様は、誠に気高く立派であられた。私は不遜にも、貴族の誇りなどよりお嬢様の想いのほうに価値があると考えております。一切の異論は認めません」
その突き抜けた強気っぷりに、お父様が声を出して笑った。
「泣きべそがよく似合うと思っていた少年が精悍になられました。聖剣を抜いた勇ましき者の願いを無碍にするわけにもいかぬでしょう。一滴の血も流さぬことをお約束します」
「っ……!」
その声が、オリヴィアの体を貫いた。
どうして。
どうして、悲しくもないのに。
「ぅあ……っ」
喉から声が漏れる。
同時に。
モーリィが壇上を飛び越えて、赤い絨毯の上を歩いてくる。
「涙の流せる場所へゆきましょう。お手を」
気がついたときには、火傷だらけの右手に手を引かれていた。
彼の背中を見つめる。
引かれるがままに絨毯を歩く。
光の差し込む出口を飛び出る。
視界に広がる、空と雲。
全世界を、荘厳な音色が襲う。
涙でぼやけた視界には、雲間に浮かび上がる空の島。
オリヴィアは目を見開いて圧倒された。
確認せずとも誰もがこの音を知っている。
世界中を祝福するように幾度にも渡って鳴り続ける。
それは紛うことなく。
黄金に輝く、天奏郷の鐘だった――
『淑女然として』 了
最後まで読んでくださりありがとうございました。
好評でしたらまた何か書かせてください。