5話 骸骨神官の兄の妹は聖女
ロイドの父は、彼が幼い頃は良い父親だった。強面だが優しくて、腕っぷしも強く、皆から慕われていた。
冒険者だったから何日も家を空ける事が多かったが、父は必ず帰って来てワクワクする土産話を聞かせてくれた。
そんな父をロイドは尊敬していた。だが、父はある時から別人のように変わってしまった。
依頼で無茶をして片目を失い、右脚が不自由になってしまったのだ。元通り回復するための神聖魔法をかけてもらうには、高額な布施が必要だった。ロイドの父はベテランの冒険者だったが、そこまでの貯えは無かった。
以前のように仕事を熟せなくなった父は、穏やかさを失い酒に逃げるようになった。そして、母や周囲の人々が止めるのを「金さえあれば俺はまたやり直せるんだ!」と言ってきかず、右脚を引きずって魔物の住処に向かい……そのまま戻ってこなかった。
(俺は親父のようにはならない。そう思っていた。なのに……)
気がつけば、ロイドは父と同じ冒険者になっていた。家計を助けるため、そして手に職を付けるために冒険者ギルドに登録したのがきっかけだった。
ギルドでは組合員の育成のために、文字の読み書き等の知識を実質無料で教えてくれ、子供でもできる簡単な依頼を斡旋してくれる。本気で冒険者を目指すつもりなんて、毛頭なかった。
だが、本人の意思とは裏腹にロイドには才能があったらしい。衛兵になれば母さんに楽をさせてやれると思って鍛えていたら、いつの間にか仲間が出来て、二つ星冒険者に昇格していた。
その頃になると衛兵の新人よりも稼げるようになっていたため、そのまま冒険者を続けた。そして三ツ星になり、父と同じ四つ星への昇格も見えて来ていた。
(あれ? 俺、何でこんな事を思い出しているんだ?)
ふと気が付くと、ロイドは濁った水の中にいた。近くには、オーガが藻掻いている。
「ロイドーッ!」
仲間達の声が遠くなっていく。生存本能のままにロイドも泳ごうとするが、流れが強すぎて思うようにいかない。
(そうか、俺はオーガに道連れにされて川に落ちたのか。結局、俺も親父と同じように――)
溺れて藻掻くオーガの腕か、それとも流木か岩か、何かに衝突してロイドの意識は途切れた。
ふと気が付くと、ロイドは心地よい温もりに包まれていた。胸に痛みを覚えるが、それも徐々に納まっていく。
(俺は、死んだのか?)
うっすらと目を開くと、見えたのは温かな光とその向こうに見える骸骨だった。やはり、自分は死んだのか。そう思いつつも、何故か恐怖や悲しみは感じなかった。
「親父……?」
何となくだが、骸骨から懐かしい気配を感じて思わず口から出た言葉に、骸骨が頷いたように見えた。
(そうか、迎えに来てくれたのか)
ロイドは安らかな気持ちで、再び瞼を閉じた。
「うっ……」
微かに自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、ロイドは目を覚ました。雨は上がったが、雨音の代わりに鳥のさえずりが聞こえる。周囲を見回しても、骸骨の姿は無い。
「やっぱりゆ――!?」
身を起こしたロイドが横を見ると、そこには焚火の痕があった。驚いて自分の体を確かめてみると、川に落ちた後打った覚えがある胸には傷どころか痛みも残っていなかった。
「夢じゃ、無かったのか?」
思わず問いかけるか、彼に応える声は無い。
「ロイド―! 何処だ~!?」
「いたっ、ロイドっ、無事だったのね!」
そこに彼を探していた仲間達が駆けつけて来る。
「なんだ、自力で川から這い上がって野営していたのか。流石だな、ロイド」
「いや、多分……親父が来てくれたんだ」
迎えに来てくれたのではなく、「お前はまだ来るな」と追い返しに来たのだろう。久しぶりに会う息子に何て態度だと苦笑して、ロイドは困惑している仲間達の手を借りて立ち上がった。
「心配をかけて悪かったな。町へ帰ろう」
親父、俺はあんたみたいにはならない。あんたより立派な冒険者になってみせるよ。そう胸中で思いを新たにしながら。
そしてロイドとその仲間達の後ろ姿が見えなくなるまで待ってから、ダリアスは木から降りた。
(危なかった。本当に仲間が無事で、探しに来るとは思わなかった。ロイドも目を覚ましそうなったから木に登って隠れたけど……空が曇っていて助かった)
昨夜、ロイドに『治癒』をかけ治療した後、ダリアスは夜通し焚火の番をしながら彼を守っていたのだ。夜は魔物が活発になるので、意識の無い彼を放置するのは見捨てるのと同じだったため、離れられなかったのである。
(それにしても、声をかけられた時は驚いたな。起きたのかと思った)
『治癒』をかけているとき、不意にロイドから「親父?」と声をかけられたダリアスは驚いてビクリと体を震わせた。だが、ロイドはそれ以上何も言わず直ぐに目を閉じた。
(寝言で助かった。きっと、父親の夢でも見ていたんだろう)
もし起きていたら、スケルトンと父親を見間違えるような事は無いだろう。起きた後、仲間と何か話していたようだが、慌てて木に登って隠れていたダリアスにはよく聞こえていなかった。
(まあ、あいつはともかくこの左腕をどうにかしないとな)
こうなるだろうと覚悟していたので、敢えて利き手の右ではなく左手で『治癒』を唱えたのだが、案の定。ダリアスの左手はロイドを癒した代償に、肘まで灰になって消えてしまっていた。
とはいえ、片腕でもメイスは使えるし、木にも登れる。他の骨をくっつければ、自分の腕として動かせることも分かっている。取り返しが効かない損失ではない。
新しい左腕が手に入るまでは、戦闘よりもスケルトンを探す事に集中しよう。
(お? おおぉっ!? こ、これは!?)
そう思ってロイド達が去っていたとのは別方向に去って行こうとした時、ダリアスの体が青白い光に包まれた。月光のように冷たく儚い光とは裏腹に、それに包まれたダリアスの体に力が満ちていく。
(これは、存在進化! 何故このタイミングで来たのかは分からないが、来たぞ! 話せるアンデッド、話せるアンデッド、出来れば話せて生きている人間に見えるアンデッドになりたい!)
高揚し、願いを込めて祈り出すダリアス。しかし、彼の祈りも空しく彼の体は相変わらず骨だけだった。光が納まり、改めて見た自分の両手に肉や肌が無い事を認めた時は、思わず肩を落とした。
(ん? よく見える……見えるぞ! 生きていた時と同じように、物がはっきり見えるぞ!)
だが、その眼下は虚ろな虚無ではなく、青白い炎が灯っていた。そのお陰か、ダリアスの視覚は夢を見ているかのように細部がぼやける事なくなっていた。
(それに、触覚もある。足元の土の感触、右手で握っているメイスの柄……感触が分かる。冷たさや温かさは感じないけど、触れている事は分かる)
視覚だけではなく触覚もダリアスは取り戻していた。もしかしてと期待して何かを嗅ぐ仕草をし、自分の額を指で打つが、何も感じなかった。
取り戻せたのは視覚と触覚だけで、嗅覚や味覚、そして痛覚は失ったままだった。
だが、他にも得たものがあった。
(これはなんだ? 心が温まるような妙な充実感がある……おおっ! これは!?)
妙な感覚に導かれるように祈ると、左手に青白い光が灯った。月光を思わせるそれは、生命と太陽を司るフォースティアの輝きではない。
(これは、冥界と月の女神ディランティアの光!? たしかに、アンデッドが神聖魔法を使うならディランティアかガルドールの神聖魔法が普通だけど、俺はもうフォースティアの加護を得ているのに何故!?)
通常、あらゆる生き物は一柱の神の加護しか受け取れない。どんなに善良で信心深く、才能に恵まれた人物だろうと、マディの加護を得ているならマディのみ、フォースティアの加護を得ているのならフォースティアのみからしか加護を得られない。
それは人間だけではなく、エルフも、ドワーフも、獣人も、ドラゴンでさえ例外は無い。そのはずだったのだが……。
(何故だ? 分からん。やっぱり、フォースティアの加護はリディアのお陰で得た物だからか? それとも、俺が知らないだけで実は二柱以上の神の加護を得た前例があるのか?
多分、前者だよな。聖女に祈られるアンデッドなんて、過去にはいなかっただろうし。ディランティアが俺に加護を与えてくれた理由は……タイミング的に見て、ロイドを助けたからだな)
前回の戦闘からだいたい半日過ぎている事を考えれば、それ以外の理由で存在進化の条件が満たされたとしか思えない。
しかし、全ての生者を憎んでいるのが普通の下位アンデッドが、人助けがきっかけで存在進化する種族とはいったい? そう訝しく思いながら水溜まりを覗き込み、自分の姿を確認する。
(眼球の代わりに青い炎が灯っている。これはジョブ持ちのスケルトンの特徴だな)
ジョブ持ちとは、魔物の中でも特定の技術を習得した、もしくはアンデッド化後も維持している種族の事を指す。例を挙げると、ゴブリンソルジャー、スケルトンアーチャー、ゴブリンメイジ、ゾンビナイト、オーガーシャーマン等だ。
他の種族は体格や装備品に特徴が現れる程度の差異しかないが、スケルトンの場合は眼窩に青い炎が灯るため見分けやすい。
しかし、ジョブ持ちにはいくつもの種類がいる。自分はそのどれなのか……?
(クレリック……クレリック!? 俺はスケルトンの神官になったのか!?)
ダリアスが思い悩んでいると、不意にクレリックと言う言葉が聞こえた気がした。普段なら幻聴を疑うはずだが、この時は何故か信じる気になった。
これが神の声と言うものなのかもしれない。
(そうか、クレリックか。言われてみれば確かに、力以上に魔力が増えたような気がする。しかし、スケルトンクレリックって俺以外にいるのか? 冒険者ギルドの資料では読んだことが無かったけど。
まあ、いいや。ありがとうございます、女神様達)
ロイドを助けた事をフォースティアだけではなくディランティアにまで肯定された事で、ダリアスは自分の選択は間違っていなかったと自信を持つ事が出来た。
この分なら再び日の光の下に出て、妹に会いに行けるのも遠い将来の事ではないかもしれない。
そう思っていると、雲が晴れたのだろう。木漏れ日が差した。
(ぎやぁぁぁっ!? やっぱり恐いぃぃぃっ!)
その途端、ダリアスは日の光に背を向けて森の奥に向かって全力で走り出していた。
存在進化したとしても、スケルトンはスケルトンだった。
マディ大神殿。人種の祖にして神である人王マディが神界へ赴いた地とされる聖地に建立された、ヌザリ大陸の信仰の中心地だ。
その大神殿の長である教皇よりも厳重に守られているのが、聖女リディアである。彼女は大神殿の奥深く、神殿が抱える独自の戦力である神殿戦士団と聖騎士達が守る区画で暮らしている。
「ぅ……」
聖女の朝は早い、夜明けとともに目覚め、そのまま寝台で朝日に向かって短く女神フォースティアに祈る。
(なんだろう……冷たい気がする。お兄ちゃん、苦労しているのかな?)
「おはようございます、聖女様。朝ですよ」
「おはようございます」
そして、起こしに来た世話役にさも今目覚めましたという顔つきで瞼を開き、寝台から起きる。
そして身支度を整えたら、聖堂で朝の祈りを捧げる。生命と太陽の女神フォースティアと、人王マディの像に生きとし生ける全ての人々が健やかであるように祈るのだ。
(今日も温かい日差しをありがとうございます。雨も少し降らしてくれて、みんな喜んでいます。今日も皆が健やかでありますように)
祈りの内容は、リディアの場合フォースティアへの感謝と報告、そしてお願いだ。聖堂にはマディへも祈るが、それは尊敬と感謝を伝えるためで、お願いをするためではない。
朝の祈りが済めば、食事の時間だ。
「聖女様、今日は聖女様が好きなオムレツですよ」
「トマトのソースの?」
「もちろんです。恵みに感謝を」
「やったっ! 恵みに感謝を!」
この日のリディアの朝食は、雑穀を挽いて作った黒パンと野菜のスープ、そして好物のトマトソースをかけたオムレツだ。
「聖女様、本日はお勉強の後、アルザニス王国の第三王子との交流会が入っております」
「うっ、スフォレイツ様と……ご遠慮できない?」
オムレツを堪能し緩んでいたリディアの顔つきが、急に苦い物を口に含んだかのように顰められる。
「スフォレイツ様は苦手ですか?」
「うん、あの人なんだか怖くて……悪い人ではないと思うんだけど」
聖女であるリディアにとって、様々な人物と交流するのも日々の務めの一つで、その中には王侯貴族も含まれる。彼女の出身国の第三王子、スフォレイツもその一人だった。
現在二十一歳、黒い髪にアイスブルーの瞳の美丈夫でありながら二人の兄に遠慮しているのか今まで浮いた話の一つない生真面目な人物と評判の男だ。
「そうですか。武勇に優れた方なので、意識せずとも所作に迫力が出てしまうのかもしれませんね」
「そうなのよ、目つきが鋭くて。あまりお話も好きなようでも無くて……スフォレイツ様も、王族としての務めだから私に会いに来てくれるだけじゃないかしら?」
「そんな事はございません。交流会の後、スフォレイツ様はいつも『次に聖女様に会えるのは何時になる?』とお尋ねになります。
きっと聖女様と過ごす時間が楽しみで仕方ないのですよ」
「そうかしら? そうならいいのだけど……」
そう呟き、オムレツを口に入れるリディアに世話役の女性司祭は柔らかい眼差しを向ける。
柔らかそうな銀色の髪に、琥珀色の瞳。小柄で可愛らしい顔つきであるため、十四歳という年齢よりも幼く見えるが王侯貴族のご令嬢を並べても一際可憐に映る美少女。
そのリディアに、スフォレイツ王子は噂によると一目惚れしたらしい。彼にいまだに婚約者がいないのは、兄達に遠慮しているからではなく、一目惚れした彼女に一途な恋心を抱き続けているからだという。
ただし、スフォレイツ王子がリディアを初めて目にしたのは彼女が故郷の村から保護され、マディ大神殿に向かう道中、アルザニス王国の城に一時滞在した時の事。当時、スフォレイツ王子は十三歳。そして、リディアはなんと六歳である。
(聖女様の事を考えるなら、有用な方なのですが……聖女様の事を考えると、近づけていいものか……)
リディアの世話役を長く務める女性司祭は、柔らかい微笑みの下で今日もこの悩みに答えを出せないでいた。
朝食の後は勉強の時間だ。大神殿の神殿戦士達が使う訓練場で体を動かし、体力をつける。更に、今年に入ってから神聖魔法での実践的な訓練も行うようになった。
「参りますぞ、聖女様!」
相手は、大神殿に招かれた魔道士が唱えた魔法によって動き出したゴーレムだ。
「えいっ!」
そして、そのゴーレムをリディアの神聖魔法が粉砕する。
「流石は聖女様、息をするように強力な神聖魔法を発動なさる」
「ですがまだまだ! 行くぞ、皆っ!」
「おうっ!」
魔道士達が協力して呪文を唱え、次々にリディアの相手を作り出す。彼女は魔法によって創り出された戦闘用の使い魔を輝く『女神の一撃』で打ち砕き、ロックゴーレムを『結界』で閉じ込めてそのまま押し潰し、幻影で創り出された戦士に『戦天使召喚』で召喚した天使で対抗した。
「素晴らしい。魔法の発動までにかかる時間も以前より短縮され、隙が無くなっております。正騎士達が前衛を務めれば、より完璧になるでしょう」
教師として呼ばれた魔道士達の手放しの賛辞を受けても、リディアの顔には困惑が浮かんでいた。
「そう言ってもらえるのは嬉しいのですが、最近実戦形式の勉強が増えていませんか? これじゃあ、勉強と言うより訓練のような……」
大神殿に来たばかりの時は、文字の読み書きや計算、神話や伝説、各国の言語や歴史など、机に向かう勉強の方が多く苦労させられた。しかし、今では机に向かう授業は殆どない。
「ただ聖女様が大きくなり、実戦形式の勉強が出来るようになっただけですよ」
「自衛出来る力を鍛える事も大切な事です。特に、聖女様はいざとなれば魔物との戦いの最前線に赴いて頂かねばなりません。その時のために備えなければならないのです」
リディアの不安と疑問に魔道士達はそう答えた。確かにその通りで、彼女の先代、先々代の聖女は危険な戦場にも赴いて傷ついた人々を神聖魔法で癒した歴史に記されている。
「確かに、そうですね。それに、実は机に齧りつくのは苦手ですから」
「はっはっは、よく存じておりますとも。以前はお勉強を嫌がる聖女様に苦労させられましたな」
冗談めかして納得したように装うリディアに、魔道士達も殊更明るく笑い出した。
その後、汗を流して軽い昼食を済ませ、身だしなみを整えたらスフォレイツ王子との交流会だ。交流会の内容は様々だが、今回は最も多いお茶会が催された。
「……」
「……」
しかし、スフォレイツ王子とのお茶会は会話が全く弾まなかった。切れ長で冷たい瞳のスフォレイツに見つめられると、リディアは睨まれているような気分になってしまうのだ。
「あ、あの――」
「無理はしないでください」
しかし、せっかくの交流会なのだから何か話さなければと思って切り出すと、そのスフォレイツに遮られた。
「訓練でお疲れでしょう。この時間を利用して、どうかご自愛ください」
だが、思ってもみなかった優しい言葉をかけられたリディアは思わず目を瞬かせ、スフォレイツの顔を見つめ返した。
「ですが、もし話したい事があるのなら私に聞かせてください。聖女様が人々の安寧を願っているように、私もあなたが健やかである事を願っているのです」
そう話すスフォレイツの瞳を冷たいとはもう感じなかった。
「ありがとうございます、スフォレイツ王子。じつはその……最近勉強の内容が実戦的なものばかりで戸惑ってしまって」
「勉強ですか。近年、魔物の動きが活発になっています。その脅威に備えるためかもしれません」
「そうですか、魔物が……」
「聖女様が心健やかに過ごせるよう、魔物共を駆逐する力が私にあれば良かったのですが……己の非力が嘆かわしい」
「スフォレイツ様、気に病まないでください! 私だって聖女なんですから、聖女としての務めは立派に果たして見せます! その時が来たら一緒に頑張りましょう!」
「一緒に……!? もちろんです!」
本当に嘆き出すスフォレイツにリディアがそう言うと、彼は普段とは別人のように表情を輝かせて頷いた。実は、感情を表に出すのが苦手なだけなのかもしれないと、リディアは彼に対する印象を改めた。
そうして交流会を終えた後は、祈りの時間だ。途中、夕食と湯浴みを挟むが、それ以外は寝床に入るまで祈り続ける。
聖女の務めと生活は、平民達が持つ修行僧のイメージと比べるとずっと自由で恵まれているように思える。実際、それが正しい部分もある。
この世界の神々は、何かを推奨する事は多くても禁忌とする事は少ない。聖職者であっても肉を食い、酒を嗜んでも構わないし、配偶者と子をなす事はむしろ推奨されている。その上で、道徳的な行為をするべきとされている。
大神殿が奉じる『生命と太陽の女神』フォースティアは人間も含めた全ての生命を、そして『人王』マディは全ての人間を慈しむ神だ。生命と人の営みを過度に制限する事は、むしろ彼らの意志に反する。
肉食や飲酒、妻帯の禁止や厳しい苦行をしている聖職者は、自らを高め信仰心を表すために自主的にやっているのであって、誰かに強制されてしている訳ではない。
だが、聖女であるリディアには強制され、厳守させられている事が二つある。
一つ、例外を除いて誰の名前も呼んではならないし、名前を呼ばれてもならない。
二つ、お勤めの祈りを特定の人物のために捧げてはいけない。
聖女はこの世界の創造神の片割れであるフォースティアに、深く寵愛された存在。それ故に世界全体、人類全体のために尽くさなければならない。
公にはされていないが、大神殿や各国の機密文書には過去の聖女が特定の人物のために祈ったために不幸が偏り、大きな災害が一定の地域で頻発し国が滅びたという記録が残っている。
だからリディアは親しい世話役の女性司祭や、教えを受けている魔道士達、日々護衛に当たっている正騎士達の名前も知らない。
スフォレイツ王子のように交流会で出会う人々は例外だが、彼等からも名前を呼ばれた事は無い。何故彼等が例外とされているのかは、リディアも教えられていない。
(でも、今はお勤めじゃない。私だけの時間だから)
ベッドに入ったリディアは、目を閉じたまま祈る。瞼の裏に浮かぶのは、幼い日々を過ごした村の風景と優しかった兄の顔。
(リアス兄さん、私は頑張ってるよ。兄さんも頑張ってね)
眠りにつく前の時間と、朝に世話役が起こしに来るまでの時間、リディアは故郷の村と別れ離れになった兄リアスのために祈り続けていた。
(……やっぱり、何か変。兄さんの身に何かあったんだ)
だが、数日前から祈る度に以前には無かった感覚を覚えるようになった。妙な冷たさと、兄が遠くに行ってしまったかのような寂しさ。
以前、交流会で知り合ったある国の王子が急病で没した時に覚えた感覚とそれは似ていた。
(兄さん……兄さん……どうか無事でいて。私との約束なんか守らなくてもいいから、兄さんが幸せならそれで私は十分だから。
フォースティア様、どうか兄さんを助けて)
眠りにつくまでの間、リディアは世界ではなく兄だけのために祈り続けた。その祈りは受け取る女神以外、何者も侵す事が出来ない……はずだった。
「聖女の兄の始末に成功したとは誠であろうな? 言っておくが、ただ始末するだけでは意味は無い。その死が公に認められなければ意味が無いのだぞ」
大神殿から離れたアルザニス王国の首都にある神殿で、金糸銀糸で装飾された聖衣を身に纏った中年の男がそう念を押す。
「分かっております。多少手間取りましたが、確かに始末しました。その証拠も、しかるべき機関に提出済みです」
そう答えるのは、髭以外特徴の無い神官だった。笑顔を浮かべればどこにでもいそうな好々爺に見えるだろう。
「一カ月もすれば報告が上がり、聖女様の耳にも入る事でしょう」
しかし、今の彼の表情は全ての感情が削ぎ落されており、まるで仮面を被っているかのようだった。
「そうか。これで一安心だ。平民生まれの聖女は手間がかかる。何故女神は先代や先々代の聖女様のように、生まれてすぐに神殿で管理できる高貴な血筋の者を聖女としなかったのか……。
いや、これも我々に課せられた試練に違いない。その一つを果たしたのだ、それを喜ぼう」
「はい、誠にその通りかと」
〇現在のダリアスの弱点
・日光への恐怖心
・生前より落ちた身体能力
・軽くなって踏ん張りが効かなくなった足腰
・触覚の喪失と視覚の鈍化(克服!)
・嗅覚と味覚の喪失。
・睡眠や飲食で精神を癒せない。
・浄化魔法でダメージを受ける。自分が唱えた場合でも同様
・回復魔法でダメージを受ける。自分が唱えた場合でも同様
・人を見殺しに出来ない