破の破 九、十、十一
九
「矢でも鉄砲でも持って来やがれ、さあ、どうした、風車を吹き回すみたいに……」
急に勢いよく声をあげたのは、うどん屋で飲んでいた博多節の兄貴だった。霜の上に置いた燗酒が冷めるように、冷たい月の光をあびて酔いはすぐ醒めてしまうのであろう。色白の肌もそのままであったが、二、三杯の茶碗酒を飲み切ると、さすがに目の縁に赤みが差した。
「勝手にピーピー吹いてやがれ。こっちは、でんでん太鼓に笙の笛なんて唄ってる小児なんだから。ねえ、おっ母さん、いや、女房さん。それにしても何かね、ご当地は、この桑名という町は、按摩の多いところなのかね」
「何をおっしゃいますか。按摩の目は牡蠣だなどと言いますでしょ。当地の名物ははまぐりじゃもの。なにも特別に多いというわけじゃないけれど、旅籠屋があって遊廓も多い町だから、自然と按摩さんもあちらこちらから稼ぎに来るんですよ」
「そうだ、新地だった」
と、なぜか一人で納得して、気が抜けたように片手を支いた。
「お師匠さん、あんた、これからその美声を芸妓屋の前で聞かせてごらんなさい。ほんに、恋い焦がれて人死にが出るかもしれないよ」
などと言いながら、女房は襟のあたりで塗り盆をくるりと回す。
「おやおや、盆を鏡に化粧直しかい。人死になんて出ようはずもなし。そもそもが芸者屋の前には、うっかり立てねえ身の上だ」
「なぜなんだい」
「運が悪いと敵に出くわす」
と言うと、がっくりとうなだれた。
「あれ、芸は身を助けると言うけれど、あんたさん、芸妓に入れあげたせいで今の身の上かい。……それなら、ほんに、仇だわね」
「違う違う! 芸者のほうで、私が敵なのさ」
「あれ、自分のせいで芸妓になった女がいるなんて、ぬけぬけと、憎いのろけ話を聞かされた」
などと女房が茶化したとき、薄明かりの月に照らされた戸の外で、狭い町の、なんとはなしに暗い軒下を、からころ、からころと駒下駄の音が、土間に染みこむように響いてくる。……するとすぐその足もとをくぐるように、按摩の笛が寂しく聞こえる。
門附は戸口にキッと目を遣った。
「噂をすれば、芸妓はんが通りまっせ。あんた、見たいなら障子を開けなさい……見たら敵を討たれてもいいと思いはるなら」
「ああ、いつでも討たれてやらあ。ちぇっ、なんであんなにうるさく笛を吹きやがる」
そのとき、門の戸を、外からカタリと開けた者がいた。
「ええい、びっくりさせやがる」
「今晩は――うどん六杯、急いでな」
と、草履履きで半纏を着た男が、背中に白い月の光を浴びて、赤い鼻面をぬいっと出す。
「へい」
と、亭主はよく通る大声を張りあげながら、帳場で棒立ちになり、
「おいお前、聞いたか、早うせぬかい」
女房は相手にするわけでもなく、
「きれいな足音やな。どこの妓や?」
と、使いの男に尋ねる。
「こないだ山田の新町から移ってきた、ここの島屋の新入りじゃ」
と言いながら、赤鼻の若者は、足音の先を顔で追った。
門附もまた、それにつられるかのように、背後の壁に背を付けるようにしてちょっと伸びあがると、戸口に立つ男の肩越しに、月明かりに照らされた廓が建ち並ぶ、細い通りの先へ目を遣った。
駒下駄の音は遠く小さくなりながらも、まだからころと響いていたのだった。
「たくさんお声が掛かる妓なのかね」
「まあ、このうどん屋のようには稼げないよ」
「あら、それじゃあ、すぐに届けて稼がせてもらいますよ」
「はい、頼んます」
と言って、男は帰っていった。
亭主は背後向きになって、日和下駄を足先で探りながら帳場から土間に下りると、ガタリ、ピシリと手荒い手つきで料理を並べる台をしつらえる。その様子を見るに、夫婦二人で切り盛りをするこの店では、気の毒なことに、亭主が出前持ちを兼ねているようだ。
「表も裏口も気をつけるんじゃぞ。いいか、いいか。ちょっと寄り道をして来るんで、いいか、お前」
などと言いながら、亭主はそこいらをじろじろと睨み回して、月夜の花街の明るさに提灯も持たず、片手を懐手にしたままで、やけにガッと戸を開けて出前に出る。ひょこひょこと歩いて行くのだが、なぜだか戸を開けたままである。
吹きこむ風が釜の湯気をサッと分けると、門附の頬に影がさした。
女房は脇から出てくると、
「いつまでぼんやり外を見てるのさ。そんなに敵を討たれたいの」
「女房さん、桑名じゃあ……芸者の世話は按摩がするのかい」
と、ゾッとしたように肩をすぼめると、ようやく我に返ったように女房の顔を見た。ふり向いた門附の顔色が悪い。
十
「そうだよな、難波の芦は伊勢の浜荻なんていうもんだが、いくら所変われば……といっても、芸者の世話係をする按摩もいないだろう。いないだろうとは私も思うが、いま向こう側に、からんころんと歩いて行った、なんとか屋の新妓というのをなにげなく見送っていたんだが……あの、薄い紫の座敷着が、一軒おき、二軒おきに掛かっている、軒行燈の明かりのそばでは浅葱色になり、月の光の下では青くなって見えていた。その着物の裾も乱さずひっそりと、白い襟もとをうつむかせて、気の進まなそうな足どりで、なんとなくしおれて歩いて行く。……その後には、鼠色の影法師がついていく。月光が落とした女の影なら地を這うはずなのに、貧相な道祖神みたいな奴が、四、五尺離れながらのそのそと、ずっと向こうまで付き添っていたんだ。腰つきや肩つき、歩き方、粘土をこねてくっつけたような不格好な頭の形、どう見ても按摩だね。盲人らしい。めんない千鳥よ。……けどもまあ、そんなものを見て按摩が芸妓の世話係かと言う私も可笑しいね。目の見えなくなった世話係かもしれないぜ」
「どんな奴なんだい、どれどれ」
と、女房は門口に出ようとする。
「いや、もう見えない。呼ばれてどこかの家に入ったらしい。二人とも、ずっと先のほうで姿が見えなくなった。ああ、そうか、盲目の世話係はいねえのか。あっ、また別の按摩がやって来たぜ。……影がさす、笛の音に影がさす、按摩の笛が降るようだ。この冷たい月の夜に笛の音が積もったら、桑名の町は針山地獄になるだろう。たまらねえ」
と言うと、杯をぐいっとあおって、
「ええい、こうなったらやけくそで飲んでやる。一杯どうだ、女房さんもつき合いねえ。ご亭主が留守なのに飲ませちゃ悪いが、表の戸は開いているんだ……構うものか。ほら、向かいの三軒ほどの屋根の向こうから、雪だるまみたいな山の影が覗いてらあ」
と言いながら表戸の外を見た門附は、あっ、と叫んで、
「来た、来た、来た、来やがった、来やがった、按摩、按摩、按摩だよ」
と、息もつかず、勢いこんでことばを刻んだ。すると町なかを歩いていた流しの按摩はぬっと背を伸ばして、足もとに杖を斜めに突っ張りながら、白目を剥いた顔を仰向かせて、小鼻を月に照らされながら、そのまま凍りついたように立ち止まった。門附は、按摩、按摩と繰り返した自分の声が、按摩を呼び止めたのだとは気づかないようで、
「影か、影なのか、おっ母さん、そこにほんとに按摩がいるのか、それとも化けて出た影なのか」
と錯乱した様子で、またしても女房を母などと呼んで尋ねる。
「あれがほんとの按摩だとして、どうするのさ。あんた、そんなに按摩さんが恋しいのかい」
「恋しいよ! ああ」
と呼吸を吐いて、女房の顔を見ると、眉をしかめながら声高に笑った。
「ははははは、按摩に恋い焦がれてこのありさまさ。おお、按摩さん、さあ入ってくんねえ」
門附は、撥を脇に除けると、ここだという合図に腰掛けの板張りを叩いて、
「ひとつお願いしよう。女房さん、済まないがちょいと場所を借りるぜ」
「この畳のところに来て横におなりな。按摩さん、お客です。入ったら戸を閉めてくださいね」
「へい」
コトコトと杖の音を鳴らす。
「ええ、そりゃもう、影法師も同然な者ですから」
と、白い息を吐きながら、按摩はかすれ声で言った。赤茶に見えるほど色落ちした黒い絹紬の外衣の皺に、赤みを帯びた灯光が差しこんでも、按摩の姿は日和下駄の上から消え失せるわけでもなく、片手を泳がせるように前を探りながら、酒の香りを嗅ぎわけるようにして入ってきた。
「影と言ったのが聞こえたか」
門附は、先刻までとは打って変わって険のある言い方をしながら、五、六本の銚子が並んだ膳を、これもまた脇へずらした。
「へへへ」
と笑った按摩は、ちょっと鼻をすすると、ふんふんとうらやましそうに酒の香を嗅ぐ。
「待ち焦がれてたもんだから、戸外を犬が走っても按摩さんに見えるような気持ちだったのさ。影法師だなんて、悪口を言ってたわけじゃないぜ……そこへぬっと現れたのがお前さんだろう。こっちは酔っているから、幻かと思ったんだ」
「ほんに待ちかねていなさったよ。先刻から笛の音ばかり気にしなさるので、どういうことだか私もわからないでいたが、やっとわかったわいな。なんともお待ちどおさまでございましたね」
「これはこれは、おかみさま、いいお客様がついていらっしゃる」
「お客はこの方お一人なんだから、ゆっくり治療してあげておくれ。そのままお眠りになったら、お泊めしましょう」
と言う。
この按摩、女房が男を泊めるという発言も、さらりと聞き流して、
「ええ、それならば気合いを込めて、ひとつ念入りにお揉みしましょう」
と、自分の手を握ると、握りつぶすかのように、ぐいっと揉んで見せた。
「どうです、旦那」
「旦那じゃねえ。ものもらいだ」
と答えて、唸り声をあげる。
女房は目の色を変えて門附の顔を覗くと、
「とんでもない。まあ、なんてことをおっしゃいます」
十一
「いや、畳に横になるまでもない。充分だ、ここで充分だよ。……そもそもうつ伏せになって背中を揉まれたら、一息でも耐えられるかどうか。実はそれさえ自信がない。下手すりゃそのまま目を回してぶっ倒れるかもしれないよ。計らずして按摩さんに掴み殺される、てなことになりかねない」
と、真顔で物騒なことを言う。
「飛んだことをおっしゃりますな。田舎でも、ここ桑名でも、長年修行をいたしました杉山流の者でござります。鳩尾に針を打つような施術でも、決して危険なことはござりませぬ」
と、按摩は呆れたように言って目を剥いたが、その白目は青かった。
「上手だ、下手だと言っているんじゃないよ。いついかなる時であろうが、私は生まれてから一度も、冗談じゃなく、按摩さんにかかったことがないんだよ」
「まあ、あんなにあんた、按摩が恋しいなどと言ってたくせに」
「そりゃ、肩が凝って凝って仕方がないから、目の前に按摩の姿がちらつくほど待っていたがね。いざ揉んでもらおう……となると、初めての経験です、最初にお灸をするときと同じだ。どうにも勝手がわからない。痛いんだかどうだか、噂によるとくすぐったいとも聞くがね。たぶん私もくすぐったがると思う。……密夫の児はくすぐったがらないなんていうが、母親の身持ちが良かったおかげで、あいにく隠し子なんかじゃないそうで、恐ろしくくすぐったがりだときている。……ほら、あんな、あの、握り飯をこしらえるような手つきをする按摩さんの、あの手で揉まれるのかと思っただけで、たまらなくくすぐったい。どうも、ああ、こりゃいけねえ」
と、両肘を脇腹にしっかりと付けて、もだえるように背筋を捩った。
「ははははは、これはどうも」
と按摩は、どうしていいのかわからない様子。
「まあ、なんて可愛らしい」
「どうせ言うなら可哀相だと言ってくれよ。……そうかといって、ここまで肩が凝っちゃあ、身も皮も石になって固まりそうで、背中が詰まって胸が裂けそうだ……揉んでもらわなくちゃ我慢ができない。構わずにやってくれ」
と荒らげた声で、片膝をサッと立てて、
「殺す気でかかってこい。こっちは覚悟ができている、さあ。ところで女房さん、袖すり合うも多生の縁というものさ。旅の途中でこうしてお世話になるのも前世の縁か何かだろう。そんな縁があるからなのか、別れが辛い気がするんです。揉み殺されればそれっきりだ、申し訳ないが、もう一杯注いでおくれ。別れの杯になるかもしれない」
と門附は、湯飲みを振って雫を切ると、いきなり女房の前に突きだした。それまでも子どもにようにきまぐれに振る舞っていた門附ではあるが、それにしてもあまりにもの変わりようで、眦をキッと釣り上げたさまに、女房は気圧されて、黙ったまま目を丸くした。
「さあ、按摩さん」
「ええ」
「女房さん、酌いでおくれよ!」
「はあ」
と答えながらも、酌をする女房の手は細かく震えている。
酒が注がれた茶碗を一気に仰ぎ干すのと、按摩が肩に手をかけたのが同時だった。
門附はガタガタと身震いをしていたが、顔色を紅潮させているところを見ると、幸いにも気分は悪くないようだ。
「ああ、腸に染みとおる!」
「あの、なんですか、ご事情はよくわかりませんが、施術はうまくいっております」
と、按摩のほうまでおどおどしている。
「生命に別状はなさそうだ。しかし、それにしても利くなあ」
とがっくりとうつむかせた首を、ふらふらと振った。
「月は寒々として、炎のようなその指が、激しくせめぎあって私の骨にまで響く。胸は冷たい。耳は熱い。肉は燃える。血は冷える。あっ」
その声に驚いて手を離した按摩は、鮹のように口を尖らしている。
「いや、手を休めずにやってくれ。可哀相だと思って、そおっとな。……だが、たとえそっと揉まれたとしても、私は五体が砕ける思いだ。
そんな思いをするのが嫌で、これまでいろいろ悩んだものだ。それでも按摩の幻影が、避ければ寄ってくる、通り過ぎれば裾を引っ張る、逃げれば追いかけてくる。姿が見えなくても声がする。……私にとってピーピー笛は、按摩の霊の出陣の合図だ。これほど肌身に迫って寄りつかれると、気の弱さから無視はできない。崖の上から淵を見下ろして踏みとどまる胆力のない者は、これなら死んだほうがましだと思って、真っ逆さまに飛びこみます。それと同じで破れかぶれなんだよ、按摩さん。従兄弟か再従兄弟か伯父か甥か、あんたが親類ならば、さあ、敵を取れ。私はね……お仲間の按摩を一人、殺しているんだ」