(笹川臨風『明治還魂紙』より)
笹川臨風(1870 - 1949年)著
『明治還魂紙』
昭和二十一年六月、亜細亜社刊
底本:明治文学全集 明治文學囘顧錄集(二)、昭和五十五年八月二十日初版第一刷。
(以下本文引用)
一三 泉鏡花
岩波書店で「鏡花全集」を出版した時、鏡花のことを書いた月報を出してゐた。私も三度書いたからこれを以て本稿とする。文体の相違も一二の重複も其のまゝにして置く。
二、泉君の手紙、より
……(略)……
膝栗毛の好きな君のこと故、私を呼ぶのに弥次さん、喜多八は鏡花先生自身の称号です。封筒裏にはよく喜多八と署名してありました。中々人の渾名をつける事が好きで、上手で、後藤宙外の事は金兵衛さん、伊勢へ往つた時には赤福餅の主人濱田氏が東道の主人でしたが、これが辺栗屋、膝栗毛に出てくる人物です。
……(略)……
三、鏡花水月(初出1941年)、より
一
……(略)……
私は鏡花君の作品は古くから相当に読んで居り、出版の度毎に『種郎様、鏡太郎』と署名して贈られた、初版本を少なからずもつて居るが、「鏡花全集」を読むと、一度も読まなかつたのに折々出逢ふ。例へば「山海評判記」の如し。いつかの月報に、今は亡き小村君が解題してゐるが、之は単行本にならなかつたせゐであつたらう。又此の篇を読んで更に驚くのは、故郷に近いせゐでもあらうが、君が和倉の温泉に遊んでゐることである。君と話して、一度も能登の話を聞いたことがない。金沢は別にして、君の旅行地の範囲は割合に狭く、京阪以外余り他の土地は無い筈であるやうに思ふ。そこで君と伊勢へ旅したことを思ひ出す。
神風や伊勢の国は、「東海道中膝栗毛」愛読の鏡花君が当然旅行せねばならない地である。私との伊勢参宮は、実に文芸革新会に関してである。ここに文芸革新会に就いて一言しておかなければならないと思ふ。此会を我々が企てて鏡花君を巻添へにしたやうに考へればそれは誤りで、事実は早稲田から起こつた旋風。早稲田系の後藤宙外が「新小説」編集の主幹をしてゐる関係上、鏡花君を引張り込んで、我々は其余勢を受けたに過ぎない。これには林田春湖や中島孤島やが宙外を担いだと見る方が善い。当時の鏡花君は春陽堂と浅からぬ因縁があつたから、宙外が君を味方としたのも当然である。鏡花君は赤門贔屓(*)であるから、『弥次さん一所にやっておくれ』から初まつて、登張竹風、樋口龍峡、我々どもも一味徒党になつたわけである。東京でも講演会を開催したが春陽堂の本多氏が伊勢に知己が多いので、たうとうお伊勢参りといふことになつたのであつた。
振出しは桑名と思ひます。一行は七八人、中々賑やかな旅であつた。桑名の旅館は船津屋、「歌行燈」にある湊屋です。揖斐川と木曽川とが合流して海に落ちる川口で、大江漫々としてゐる其の江上にある料理屋兼旅館で、景色は此へん切つての第一である。私はこれより前にも此宿に宿泊したことがある。
我々が通された一室の楣間(*)には、「臨風榜可小楼」の小さな額がかゝつてゐる。「ホウ弥次さんおあつらひ向きの額だね」と鏡花君うれしがる。字は十時梅厓の書に成つてゐる。梅厓は桑名の向かひの長島藩の儒者で書画を善くした。此額のことは「歌行燈」にも出てゐるし、明治座の芝居の時にも懸つてゐた。鏡花君は当時の事を善く忘れないで、作品の中にも之を特記してゐる。私も此の額を欲しいと思つてゐた。歌舞伎座に程近い三原橋の電車停留所南側の角に支店を出してゐる、時雨蛤屋の貝新事水谷新之介氏は永年の得意であるから、支店を設ける時、宅へ来たので、其の話をして、今でも船津屋にあるかどうか聞いて来てくれと頼んだ。此主人は当時桑名で町会議員をしてゐたから、都合がいゝと思つたのである。やがて『まだあります』との返事、『どうだ譲らないかね、序に聞いてくれたまへ』其後譲つてもいゝとのことであつたが、時価より三倍程も高いやうであつたから、私は断念した。
二
話はもとへ戻る。其晩来た酌人の中に、容貌魁偉、軀幹肥満の婦人が一人ゐたが、「海士」を舞ふやうなきやしやな内気な若いのは一人もゐませんでした。其の大兵(*)の女に似たやうに大きな、お腕に二つより入らない名物焼蛤ではなく、蒸蛤が出た。『ヨウこれは素的だ』『此貝柱を取るには貝の裏をくすぐると善うとれます』と大兵肥満が云ふので、鏡花君面白がつて、くすぐるわ〳〵。
『桑名の殿様、時雨でぶゝ漬(*)』か何かで、一座陽気なうちに其の夜は過ぎた。あくる日の夕暮近い頃から桑名に近い或る村の小学校で講演会をやるとのことである。どうしてあゝいふ山村で講演会を開いたのか、これには本多氏の懇意な人で、其村の出身者があつたから、是非東京の大家連中にお出を願ひたいとのことからだつたさうです。恐らく桑名の宿泊も其ためでせう。講演などはどうでもいゝ、唯顔見せに来て貰へばいゝといふやうなことであつた。人力車七八台を連ねて威勢よく山村へ練り込む。ところで其村(*)の名がどうしても思ひ出されない。私は桑名は度々往つて案外此附近に精通といふほどでもないが、明るいのに、今以つて此村の名ははつきりしない。暗くなつてから、村を出発して少し来ると、道の左右に人が並んでゐるやうだ。其うち懐中電灯の光が一台づゝ車上の人を照らす。並んでゐたのは小学校の生徒で、懐中電灯の光は先生の手から放たれるのである。生徒は車上の人を仰ぎながら敬礼する。これは先生が可愛い生徒達に一々東京の連中の姓名を告げて、其顔を見せようとするのだ。『今のが泉鏡花先生、其次が後藤宙外先生』と、まア斯うなんでせう。私は先生の教へ子に対する親切心を思ひやつて思はず涙ぐんで、車上に黙礼して過ぎました。
其次の日は伊勢の山田、両宮に参拝して、内宮では太神楽の執行、二見では朝日館に泊る。此時昼飯の折に鯛のうしほが出る。鏡花君蓋を取つたが、ひどく躊躇してゐる。『弥次さん、食べてもいゝかへ』『旨いから食べ給へ』やつと箸を取つて、『こいつは旨い』鏡花君にうしほを吸わせたのは、私が始まり。鏡花君の食物にやかましいのは衆知のことで、泉家の御馳走は鮭の塩引と、お豆腐。ところが流石に吟味してゐるだけあつて、泉家の鮭は新巻の極品、一寸かいなでの魚屋にはあるまい。又お豆腐の料理と来ては、煮奴ではあるが実にうまい。此外に先生の好物は鳥鍋。其鳥鍋も初音に限る。此店は白木屋の裏の木原店(*)(俚俗食傷新道)にあつたので、よく同伴したものです。後に京橋の五郎兵衛町に移つて、依然鏡花君の常得意。此外には余り大した好みもなかつたやうだ。晩年になつて君が支那料理や、洋食のある品を食べるので喫驚した。私の知ってゐたもとの鏡花君は斯ういふものを一切排斥してゐたのだ。これは食物指導家が善かつたせゐだらうと思ひます。
山田での案内者は、赤福餅の主人濱田種三氏であつた。講演会場は県立山田中学校の講堂、此学校の校長さんは私の知人であつた。其夕刻私は宇治山田の戸田家で晩餐、ちやうど近所の劇場で踊のお浚か何かがあつたので、一寸見物して、此夜は山田の五二館に泊る。私と宙外君とは陽気な一座を外して、下の座敷に寝てゐると、夜中に本多氏が二階から庭へ飛び出して大騒ぎを起した。一場の喜悲劇は此前の月報に書いた通りである。
姉崎嘲風も山田へ来て、それから帰京した。弥次喜多党の一行は名古屋へ招ばれて、講演をしたが、会場は公会堂であつたか、議事堂であつたかは記憶に無い。宿屋は支那忠であつたと思ひます。
三
私が鏡花君と旅行したのは此時だけですが、妙なことで鏡花君と一所に寝た事がある。たぶん鏡花会の帰りに会員であつた柴田さんといふ女性の家に寄つたところが、恰ど大晦日に近い晩で、市中は厳重に新関を設けて行人を誰何するといふ噂。もう大分夜も更けてゐる。うつかり調べられて時間を潰しては大変ですから、今夜はお泊まりなさいよと女主人の忠言。『そんなら弥次さん、柴田さんを真中に両脇へ寝よう』といふことになつて、不思議な雑魚寝をしてしまつた。本尊の婦人は偉大な方、脇侍菩薩の我々は小男であつたから可笑しい恰好であつたに相違ない。
伊勢参宮の収穫としてあの「歌行燈」が生れた。世界は桑名で、弥次郎兵衛、喜多八の渾名も出るし、「膝栗毛」の出場してゐるが、主要人物は、流石に松本金太郎氏を叔父に、松本長氏を従兄弟に持つだけあつて、能役者である。長氏は中々の大酒家で、酔ふと鎗錆を踊る能以外の芸当があつた。按摩と其の娘の女主人公は、どこから其のモデルを持出して来たのか、鏡花君のモデルは総べて理想化され鏡花化されてゐるから、よしあつたにしろ、ほんの其一片に過ぎないであらう。猶伊勢を世界にしたものには「無憂樹」がある。
能役者を取扱つたものの一つに「朝湯」がある。之を読んだ時に、思はず微笑まずにはゐられなかつた。此篇の半分は物語の相手の女から鏡花君と二人が聞かされた話で、其男の名も其時に聞いた。実話を語るのであつたから、非常に面白く、私も何かへ「桐の雨」というものを書いたことがある。「朝湯」になると、これを土台として、鏡花一流の創造と才藻とを逞ましくして、一段も数段も美化し、理想化して立派な作品としたので、全くの鏡花張となつて了つた。然しこれなどは他の諸篇に比べると、余程実在の種があるので、私は話を聞いた当夜を思ひ出さずにはゐられない。
(引用終)
*赤門贔屓……笹川臨風、登張竹風、樋口龍峡はみな東京帝国大学出身。また赤門は、旧加賀屋敷の門でもあるから、加賀金沢出身の鏡花には特別な思い入れがあるのかもしれない。
*楣間……長押の間。欄間の間。
*大兵……体の大きいこと。
*桑名の殿様……同名の民謡、お座敷唄。
*其村……三重県度会郡度会村(現、度会町)。
*木原店……幕末から大正初期にかけて飲食の名店が軒を連ねた、日本橋のたもとに近い場所にあった横町。俚俗、食傷新道で、どんな大食漢も食傷する(食べ飽きる)ほどに店が多かったことから。