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(後藤宙外『明治文壇囘顧錄』より)

 ネット上も含めてなかなか読む機会のない資料なので、文芸革新会の関西講演旅行を回想した、後藤宙外著『明治文壇回顧録』、笹川臨風著『明治還魂紙(すきがえし)』の関連箇所全文を引用します。両著者ともに没後70年を過ぎて、著作権は切れています。

 単行本、文庫本以外では、両編ともに『明治文学全集 99明治文學囘顧錄集(二)』(筑摩書房、1980年)に収録されています。

・ルビ箇所は原文ママ。本文は新字、旧仮名、ルビは新仮名、圏点のゴマ点は黒丸に置き換え。

・環境によっては表示されない漢字があるかもしれません。

・他者の目を通していないので、タイプミス、変換ミス等ご容赦ください。

・(*)の語に簡単な後注を付しています。

後藤宙外(1867 - 1938年)著

『明治文壇囘顧錄』~「二十、文藝革新會――雨聲會」より。

昭和十一年五月、岡倉書房刊

底本:河出文庫、昭和三十一年三月十五日初版。


(以下、本文引用)

 明治四十二年十一月には、文芸革新会の関西講演旅行があつた。一行は泉鏡花、笹川臨風、樋口瀧峡、小林愛雄、瀧村斐雄、本多嘨月、それに拙者を加へて七名。十八日に東京を出発して、先づ伊勢の山田に向かつた。確か講演会の主催者は度会(*)郡教育会であつたかと思ふ。我々の一行は、十九日午前に、はやく山田駅に下車、同地の有志の東道(*)で、二見ヶ浦朝日旅館に旅装を解いたのである。この時、山田名産赤福餅本舗故浜田種三氏が、特に我々の歓待斡旋に遺憾のない厚意を発揮したのであつた。同日は休養という訳で、一行中の泉、笹川、樋口、後藤、本多の五人、俥を連ねて志摩の鳥羽港に遊び、日和山に登臨して、島々の絶景を賞した。東京の宅に送つた当時の絵葉書がある。志摩の国崎の写真に、

   帆柱も大根も立てり鳥羽の浦       鏡  花

   散紅葉かと見れば白帆の小舟かな     臨  風

 また鏡花君の二見ヶ浦にてよまれた句に、

   烏帽子きて稲かくるなり神の松      鏡  花

 二見ヶ浦、角屋旅館の写真葉書に、俚謡(*)が雅健(*)な筆でかいてある。

 蔦がからんだ青竹柱、月がさしこむ、さも侘住居、二人して聴く山杜鵑(*)、別れのつらさ。

  十一月二十日               臨 風 生

 その裏にも同君の筆で、

 うき世はなれて奥山住居(ずまい)、恋もりんきも忘れていたが、鹿の啼声、聞けばむかしが恋しいわいな。

                        臨  風

 他の同館玄関正面の絵葉書に、

 峯のしら雪ふもとの水、今は互にへだてゝ居れど、やがて嬉しく、とけてながれて添うのじやわいな。        鏡  花

 此の一行中に四十歳を越えた者は私だけで、他の諸君は、悉く三十代の男盛りであつたし、その上、いずれも水入らすの親しい同志であつたから、()()()弥次喜多気分が横溢して居つたかに思はれる。当時の鏡花君は、右の「峯の白雪」の唄が非常にすきで、酔ふと之れを愛誦しない事はない程であつた。柳川春葉君などは、鏡花君の別号でゞもあるかのやうに、「今日途中で()()()()にあひましたよ、」といふ調子で、「峯の白雪」を泉君の渾名にしてしまつた時代もあつた位だ。

 五人一行の者が、鳥羽見物から二見へ帰つて、跡に残られた小林、瀧村の二君と一緒に、此の夜は角屋事、朝日館に一泊したのである。

 翌二十日には、早朝、浜田種三氏の案内で、宇治山田市に帰り、内宮に参拝、山田有志が我等一行の為め、お神祭の献納があつたので、一同それに列し、終つて外宮に参拝の後、五二会ホテルに入って昼飯をすませた。やがて度会郡役所にゆき、田岡領雲氏の叔父さんに当たる方だといかいふ、郡長さんに敬意を表し、度会中学校の講堂の講演会に臨んだ。そして、小林、瀧村、樋口、泉、笹川の諸君が熱弁をふるひ、拙者も一席雑感をもべて、ご挨拶に換へたのであつた。講演を終わつてからも、上戸党は再び酒を汲みかはしたのであつたかに思はれる。一同宴に就いたのは十二時過であつた。然るに、二十一日の朝、夜の白らむ頃、大騒動が起つてしまつた。誰いふともなく、本多嘨月君が二階から墜落して死んでしまつた、といふのである。「どこだ」! 「どこだ」と二階の雨戸を繰つて見ると玄関前で、誰かに介抱されている人影が見える。一同そこへ駈けつけると、確かに本多君が爛酔(*)の上に、どういふ風に玄関の屋根に()び出して落ちたものか、墜落した際、何処かをひどく打つたらしい。けれども、何処か痛むのか、どうして落ちたのかも分らない。二階の欄干は四尺も高いのだから、それを趯び越えて屋根へでなければならんし、殆ど墜落経路も、わけもわからなかつた。兎も角、室内に移し医者に来て貰つた。診察の結果、一二週間で全快するであらうとの事で、やつと安心した。腰の辺を打つたものであつたらしい。当人も至極恐縮してゐるので、何も尋ねはしなかつたが、今もつて何うして、何の為めに、玄関の屋根などに趯び出して落ちたものか。不審は終に解けずにしまつた。鏡花君の説では、「今夜は全く魔がさしたんですよ。通り魔の(わざ)でせう。私と並んで寝てゐた瀧村君の顔が、怪物(ばけもの)に見えた位なんですからね、」と云ふのであつた。もう本多君が歿してから、二十余年にもならうか。この講演旅行の準備、その他で、同君の斡旋するところ少なからずであつた。此の災難のため、当惑したけれども、予約の日程が決してゐるので、滞留もならず、本多君のことは、篤と宿の人々に頼み、相当の手当てをして、後に残して静養さして貰ふことに取きめ、我々は山田を出発することになつた。然るに、東京から電報があつて、姉崎嘲風博士が、此の度会郡教育会の講演に参加する考へで、今日夕方に山田駅に着くといふのである。日取を一日考へ違ひせられたか、或は通知した方が間違つてゐたか、兎に角、一日遅れて来られることになつた。そこで、我等の出発後へ着かれては、甚だ礼を失することになるといふので、夕方、停車場に出迎へ、主催者側に紹介をすませてから、明日、博士単独の講演をして戴くことになつた。そこで我々の一行は汽車で出発。桑名駅で下車。停車場から桑名駅まで、かなり長い丁場を車にゆられ、揖斐川(*)の河口に沿ふ船津屋に一泊したのである。いふ迄もなく事件の筋は全く無関係ではあるが、当時の桑名の夜景は鏡花君が、此の翌月――四十二年の暮――に起草されて、翌四十三年の一月号の『新小説』に掲げられた『歌行燈』に目に見るやうな逼真(*)な描写をして居られる。

 鏡花君の『歌行燈』には、船津屋を湊屋としてあるし、座敷の額は、題して曰く臨風傍可小楼としてゐる。けれども、これは、故意に少し変へたものであらう。実際は十時梅厓(*)の書で、「臨風小可楼」であるといふ。昨年二月七日付の書面で、臨風氏から示教せられた。

「湊屋だよ。」「おいよ。」で、二台、月に提灯(かんばん)のあかり黄色に、広場の(はし)へ駈け込むと……石(みち)をがたがたしながら、板塀の小路、土塀の辻、捷路(ちかみち)を縫ふと見えて、寂しいところ、幾まがり。やがて二階屋がたて続き、町幅が絲のやう、月の光を(ひさし)で覆ふて、両側の暗い軒に、掛行燈(かけあんどん)がまばらに白く、枯柳に星が乱れて、壁の蒼いのがところ〴〵。長い通りの突当りには火の見の階子(はしご)が、遠山の霧を破つて、半鐘の形いけるが如し、……火の用心さつさりやう、金棒の音に、夜ふけの景色。霜枯時の事ながら、月は格子にあるものを、桑名の妓達(こたち)宵寝(よいね)と見える。寂しい新地(くるわ)へ差掛つた。幅の下に流るゝ路は、細き水銀の川の如く、柱は黒い家のさま、恰も(かわうそ)祭礼(まつり)をして、白張(しらはり)妓口(こぐち)行燈を掛連(かけつら)ねた、鉄橋を渡るやうである。

 我々は揖斐川の河口に臨む臨風小可楼の額のある座敷に通され、いづれも心持よくくつろいで、晩餐の膳に就いた。名物の焼蛤を玩味して、酒のいける人達は、旅愁を払う杯を呼ぶのであつた。

 鏡花君は程よく酔がまはつて、女中からの只今の伝授を即座に応用に及び、蛤の殻の裏を、ちよツと指頭でくすぐる。と、奇妙に貝柱がコロリと取れる。その不思議を面白がつて、幾度も、いくども、蛤をくすぐる。その剽軽(ひょうきん)な身ぶり態度に、一座、興じて笑ひどめいたものであつた。当時、桑名から東京の拙宅へ送つた木曽川鉄橋遠望の写真絵葉書に「眺憩楼」の朱印のあるは船津屋のことであらう。これに、

   蛤のやかれながらに時雨れけり    臨  風

   冬の月焼蛤の二階にて        鏡  花

 とかうものされてある。

 この家を眺憩楼といふのは、或は遠眺、游憩共によい所であるの意であらうか。桑名は古へより四方の游子、輻輳(*)の要津であつた。翌朝、二階から見はらせば、揖斐川の河口につゞく伊勢湾の長汀曲浦、遥かに、知多半島の翠黛を一眸に収むる風景である。晉の羊祜(*)が、峴山(*)に登つた時の、感慨の口真似ではないけれども、宇宙ありてより此の海あり、由来、賢達、勝士、こゝに登て遠望する者も多かつたであらう。が、悉く湮滅(*)して聞ゆるなし、人をして悲傷せしむ、とも云ひたい感じが、むらむら起るのであつた。佳境に対しては感傷を発するは、自然ではあるけれども、興亡、百変すれども、万有、法爾(*)として、おのづから閒なり、と()()()には、当時、私どもの年が余りに若かつたのである。

 臨風氏が此の時のお話に依れば、氏が中学時代には、嚴君が地方官を勤めて、岐阜の県庁に居られた関係から、暑中休暇などには、東京からご両親の膝下へ帰省の往復に、幾回ともなく、此の船津屋に泊まられた思ひ出が多い、と感慨無量のていで語られたのも、つい昨日のやうにも思はれる。

 二十二日の朝、桑名を出発して、三重県員弁郡(*)大泉原の講演会に赴いた。一行六名、いづれも数里の田舎道を人力車にゆられながら、初冬とはいへ、春のやうな和暖な好天気に恵まれたのであつた。一同いづれものび〳〵した旅心地であつた。鏡花君の如きは、懐中より聖書と称して、『膝栗毛』の古本、第五編を恭く取り出し、車上に立ち上つて、弥次郎兵衛が同伴(つれ)の喜多八にはぐれた伊勢山田のくだりを開き、咳払を一つして、「もし此の辺に棚からぶら下つたやうな宿屋はござりやせんかと、賑やかな町の中を独りとぼとぼと尋ねあぐんで、もう落胆(がっかり)しやした……」と捧げ読むのである。それを見て他の嬉しがるには一向無頓着に、当人至極すましたもので、「これは少々内証ですがね、内宮様へ参る途中、古市の藤谷の前で、先度は()()()お世話になり申したといふ気で、略儀ながら、車の上から、お辞儀をして参りましたよ、」などゝ大まじめで笑わせたものである。愉快で、暢気な旅行であつたことも想像されるであらう。――此等のことは少し変へて、同君作の『歌行燈』の中に取り入れてある。

 大泉原は郡役所の所在地で、主催者は員弁郡教育会であつたかと思ふ。小林、瀧村、樋口の諸君の講演が終わつて、鏡花君の順番になつたけれども、同君の羽織袴を納めた鞄が迷子になつて、いくら気を揉んでもなか〳〵着かない。いよ〳〵登壇となつたので、已むを得ず、拙者のを――(ゆき)たけの合はぬ代物(しろもの)なれど――急場しのぎに御用達申したという次第。身にあはぬ羽織を気にしながら、例の快弁をふるつて滞りなく無事にすまされた。が、口の悪い仲間は「それ『膝栗毛』に祟られましたぞ、弥次さんの代りに鞄に()()()()とは、これは新趣向だ、」なぞとからかつたものである。次いで、拙者も何か一席お茶を濁して、殿(しんがり)は笹川臨風氏であつたかと思ふ。大泉原の記憶は、茶と社松(*)の盆栽が名産のところであつた、といふ以外には、何も遺つて居らぬ。

 同地の講演を終つて、大急ぎで何処かの停車場から汽車に乗り、この夜は名古屋市に一泊。翌日東京から新たに俳人医の大野洒竹氏が来て、一行に馳せ加はつた。所が、我々の泊つた宿は、土地で第二流であるとか云ふので、洒竹氏は勝手に上段の間に床柱を背負つて、大あぐらで、睥睨(*)しながら、「苟も東京の名士を招待するのに、一流の旅館に案内しないのは無体だ、」なぞと罵倒するので、主催者側に対して、気の毒でたまらなかつた。いよ〳〵劇場に乗り込んで、一行の講演となつた。西竹氏の番になると、散々な大脱線をやり、猥雑至極な贅弁(*)を長々とつゞけるので、県の警察部から、講師に警告せよ、早く止めないと、注視の厳命を下すかも知れぬ、と頻りに電話が来るといふ騒ぎである。けれども、兎も角、無事にすんだのであつた。樋口、笹川両君の如き能弁家がゐるから、拙者などはどうでもよからうと油断して、再三同じ事を繰返すのも面白くない、といふ不料簡から、腹案なしに、一寸とした思ひ付きを種にして弁じ出した。が、自分ながら、何を云ってゐるのか、わからぬ程の始末であつた。冷汗を拭き切れずに、やツと壇を下ると、小林愛雄君が楽屋裏から私を迎へて、「君! 今日はどうしたんだい。滅茶苦茶だつたぢやアないか。」と正直な批判だ。私は偏へに恐縮してしまつた。

 二十三日は発起人有志の歓迎会があつて、後に衆議院の副議長になられた小山松濤氏が、特に斡旋に力められたものであつた。そして、二十五日になつて帰京したものである。文芸革新会の活動に依つて、思想界に如何なる影響があつたかは局外者の御判断にお任せする。私等も実のところ其の点に就いては多く知るところが無かつた。


(引用終)



【語注】

度会(わたらい)……現在の三重県度会郡度会町。

東道(とうどう)……東道の主。主人となって来客の世話や案内をする人。

俚謡(りよう)……さとうた。

雅健(がけん)……上品で勢いがあること。

*杜鵑……ほととぎす。

爛酔(らんすい)……正体がなくなるほど酒に酔うこと。泥酔。

揖斐川(いびがわ)……岐阜県から三重県へと流れる川。

*逼真……真に迫っていること。読みは「ひっしん」か「ひょくしん」か?

十時(ととき)梅厓(ばいがい)……江戸中期の南画家、儒学者。(1749 - 1804)

輻輳(ふくそう)……方々から集まること。

羊祜(ようこ)……中国三国時代から西晋にかけての武将。

峴山(けんざん)……中国湖北省の山。羊祜が好んで登った。

湮滅(いんめつ)……あとかたなく消えてなくなること。

法爾(ほうに)……あるがままの姿。

員弁郡(いなべぐん)……三重県(伊勢国)の郡。

杜松(としょう)……むろのき。ヒノキ科の常緑針葉樹。

睥睨(へいげい)……あたりをにらみつけて勢いを示すこと。

贅弁(ぜいべん)……むだぐち。


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