表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/15

(破の序のあとがき)

 ここまで読み進めると、この小説は弥次郎兵衛、捻平の伊勢紀行と、博多節の門附の行状記らしきものを交互に語る構成のようで、いっけん無関係に見えるこの二つのストーリーラインは、何か因縁の糸で結ばれているのかもしれないと、察しがついてくる。

 ……のだけれど、それについては持ち越しにするとして、この破の序のパートには『歌行燈』篇中における最大の謎が含まれている。まずそちらから片づけてしまおう。


 さて、講演旅行の話を続けると……。

 二階から転落して負傷した本多嘨月を二見ヶ浦の宿に預けた一行は、汽車で出発していよいよ桑名に到着した。同地では、(例の、人力車で花街を走り抜ける名場面を経て)六名そろって、揖斐川の河口近くに立地する旅館兼料理屋、船津屋に宿を取った。その夜の宴席に当てられた一室の楣間(びかん)――長押(なげし)か欄間のあたりに掛かっていたというのが、六章で弥次郎兵衛が額のなかに読むことになる、


  臨風(りんぷう)榜可(ぼうか)小楼(しょうろう)


 という詞句である。この漢文が登場する箇所を『歌行燈』から引用すると、


 ▶「さん(ぞうろう)、これに()りぬ(こと)なし。」

 と奥歯(おくば)のあたりを(ふく)らまして微笑(ほほえ)みながら、両手(りょうて)(ふところ)に、(むね)(ひろ)く、(ふすま)(うえ)なる(がく)()む。(だい)して(いわ)く、臨風(りんぷう)榜可(ぼうか)小楼(しょうろう)

「……とある、いかさまな。」◀


 とあって、前後も含めてきわめて意味を解しづらい。

 解釈は現代語訳を参照していただくこととして、それでもまだ肝心な「臨風榜可小楼」の意味が解らない。

「臨風榜可小楼」とは、いったい何のことなのか。


 1950(昭和25)年から版を重ねている新潮文庫版の注釈では(いつから付されたものであるかはわからないが)、「臨風榜可小楼」とは、「涼風に臨み舟こぐ音もこころよい宿、というほどの意味。」とされている。1996(平成8)年刊行のちくま文庫版傍注では、「涼風が吹き舟をこぐ音も快い宿、というほどの意。」と、新潮版をほぼ引き写している(ちくま文庫版の注は、巻によって頼りにならないものがある)。

 ふうん、たしかに「榜」という漢字には舟を漕ぐという意味もあるようだけれど、「榜可」と続けて「舟こぐ音もこころよい」とするのはずいぶん飛躍している。漢文は難しいな、と思って読み流すしかない。


 昭和四十一年に近代文学研究者の高田瑞穂が、村松定孝著『泉鏡花』の書評を書いているのだが、そのなかで次のように述べている。


 ▶私は先日、たまたま必要があつて「歌行燈」を読みかえし、二つの疑問に行き当たつた。ひとつは、「法勝寺の入道前の関白太政大臣と言つたら腹を立ちやつた、法勝寺の入道前の関白太政大臣様と来て居る。」という独白の意味、もう一つは、「臨風榜可小楼」の意味、いずれも素朴な読解上の疑問であつた。私は早速村松定孝様参る一筆をしたためた。電話が、前者の江戸早口言葉であることを直ちに解明してくれた。ただし、後者は未だ完全には解決しないで残つている。◀


 高名な研究者が語義を解せず、鏡花研究のスペシャリストに質問をしても答えを得られなかった字句の意味が一読者にわからないのは当然であって、やはり「臨風榜可小楼」とは、意味のわからない言葉なのである。


 ところが、例の伊勢講演旅行のことを回想した後藤宙外の『明治文壇回顧録』(昭和十一年刊)に、これについての気になる記述が見える。


 ▶鏡花君の『歌行燈』には、船津屋を湊屋としてあるし、座敷の額は、題して曰く臨風傍可小楼としてゐる。けれども、これは、故意に少し変へたものであらう。実際は十時梅厓の書で、「臨風小可楼」であるといふ。昨年二月七日付の書面で、臨風氏から示教せられた。◀


 一方、当の笹川臨風は、同じ旅行のことを回想した一節を含む『明治還魂紙(すきがえし)』(昭和二十一年刊)で、


 ▶我々が通された一室の楣間には、「臨風榜可小楼」の小さな額がかゝつてゐる。「ホウ弥次さんおあつらひ向きの額だね」と鏡花君うれしがる。字は十時梅厓の書に成つてゐる。梅厓は桑名の向かひの長島藩の儒者で書画を善くした。此額のことは「歌行燈」にも出てゐるし、明治座の芝居の時にも懸つてゐた。◀


 と書いている。両者の文面を比較すると笹川臨風の記憶はきわめて曖昧で、小説でも舞台でも「臨風榜可小楼」と書かれているからそうだったように思えてしまったけど、改めて問われてみると「臨風小可楼」と書かれていた気がした一時期もあった、ということになる。

 このときのことを、


 ▶名物の焼蛤を玩味して、酒のいける人達は、旅愁を払う杯を呼ぶのであつた。◀


 と述懐する後藤宙外は、もしかすると「酒のいけない人」で、他が酔っぱらって騒ぐなかでもやや冷静を保ちつつ、周囲を観察していたのかもしれない。いずれにせよ「臨風榜可小楼」ではなかったという記憶があったから、笹川臨風に詞句のことを訊ねた可能性がある。


 ここでいったん話をまとめると、以上の資料からは、次のような情景が浮かびあがる。

 一行が宴を開いた部屋には、笹川臨風の記憶を信じれば「臨風小可楼」という額が掛かっていた。それに目を留めた鏡花は、弥次さんに見立ててからかっていた笹川臨風の名前がそこにあることにひっかけて、「臨風榜可小楼」(笹川臨風が(よし)(かか)げる小さな料亭)てなことが書いてあるぞ、とわざと誤読してみせる戯言を臨風に耳打ちした。言われた臨風は、また鏡花がふざけている、という程度に聞き流した。

 ――といった程度の、なにげないエピソードを、帰京した鏡花は、一気に書き上げた『歌行燈』のなかに、即興的に取り入れた。結果的に完成したテキストは、まったくの鏡花の独りよがり、細かすぎて伝わらない楽屋オチネタであって、意味がわからなくて当然のものになってしまった。

 けれども要は、「臨風榜可小楼」というのは、按摩(あんま)や木の精や(いたち)が迫り来る怪奇ムードのなかで、額中の文字までがわけのわからないことばに化けているぞと、作中の弥次郎兵衛が、なかばふざけながら妄想している、意味がわからないことばだという意味をもたせた詞句なのである。


「臨風榜可小楼」の一件はこれで落着、と思いたいのだが、まだ謎が残っている。「臨風榜可小楼」が「臨風小可楼」だったとして、「風に臨む小さな可楼」というのも、わかるようでわからない。ことば自体の意味は依然として不明なままなのである。


 さて、ここで登場するのが、高田瑞穂が「臨風榜可小楼」は未解決と書いた翌年、昭和四十二年に出版された朝田祥次郎著「注解 鏡花小説」という書物である。

 この本で朝田祥次郎は、宙外と臨風のやりとりをふまえた上で、次のような疑問を投げかけている。


 ▶「回顧録」で宙外は、正しくは「臨風小可楼」であったと臨風から教えられた、と記している。五字であることをあきらかにしたのはいいが、旅館を賛する詞句に小の字はおかしい。また佳楼ならばともかく、()()なる熟語はあるまい。()の字のことは忘れられているが、それこそくせものの、ちがえられた字なので、正しくは()――「回顧録」に()とあるのは本文どおりのつもりで誤記している――の字のはずである。◀


……と考えて、おそらく本来の字句は「臨風傍河楼」であったと推理している。

 どういうことなのかというと、楣間(びかん)にかかっていたというのだから当然横書き――となると右から左への横書きで、


     楼河傍風臨


 という五字がくずし字で書かれていて、鏡花はこれを、「傍」(かたわら)をわざと「榜」(さししめす)と誤読し、さらに「河」のさんずいのくずし書きされた部分を「小」の字に分解して、


     楼小可榜風臨


 ……と読みあげて、笹川臨風をからかった、ということになる。

 朝田祥次郎はこれに類似する例として、


 ▶おん水茎のあとを内見に及んで心得てるよ。たとへば(澄)の水が木になって……(橙)なんぞは洒落てるよ◀(『山海評判記』)


 と、後の作品でも鏡花が、漢字の偏を入れ替えることば遊びに興じていることを示して傍証としている。


 こんな、書いたものを指さして説明しなければ理解できない複雑な言葉遊びをとっさに耳打ちされた笹川臨風の記憶が曖昧になるのも当然だし、冷静に思えた後藤宙外も「榜」と「傍」を誤記しているのだから、事態は大混乱であるものの、正しくは「臨風傍河楼」であるとする朝田説にはなんとも強力な説得力がある。爽やかな風の吹く河のほとりのお宿です、とすなおに(まるで不動産広告のマンション・ポエムのように)意味を解せる五文字は、いかにも地方の旅館に掲げられた詞句にふさわしい。


 昭和四十二年に書かれた浅田祥次郎の決定的とも思える解釈がいまだに行き渡っていないのは、「注解 鏡花小説」という書物がそれほど読まれていないこともあるし、現在ではなによりも実証を重んじる風潮にある研究者が、なんのエビデンスもない推理を採るわけにはいかないという事情があるのかもしれない。

 後年になって『歌行燈』の評価が高まってくると、笹川臨風は「臨風榜可小楼」の額を手に入れたくなって旅館に問い合わせたのだが、相場の三倍と思われる金額をふっかけられて断念したのだという。

 額は戦災で焼失し、真相は永遠の闇に包まれてしまった。


 私はまだ目にしたことがないのだが、こんにち『歌行燈』が新派の舞台にかけられるさいも、湊屋の一室には「臨風榜可小楼」と書かれた小道具の額が掲げられるのだそうだ。

 意味のわからない、おそらくは間違えていることば遊びの詩句が、実際にあるものとして物理的にそこに置かれるというのはなんとも奇妙な感覚なのだが、古い時代の歌舞伎にありがちな、たとえば『(せき)()』の演出のような、理由はわからないけれど昔からそうだからそうしているという古怪な風味が、これによって新派の舞台にも付加されるような気がしなくもない。


参考文献:(前回に加えて)

高田瑞穂「村松定孝著『泉鏡花』」(ネット閲覧)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ