破の序 三、四、五
三
お月様がちょいと出て松の影、
アラ、ドッコイショ
と、沖浪の月のなかへサッと撥を投げたように三味線を弾き終えると、唄い終えた最後の歌詞の余韻を残す鮮やかさは、霜を切るかのよう。……うどん屋の門で博多節を弾いていた男は、それまで握っていた棹の手を緩めると、三味線を傾げて抱えながら、ほんのりと薄赤い灯りが漏れるうどん屋の板障子を、逆手に持った撥の柄ではじくようにして、すらりと開けた。
「ごめんなさいよ」
頬被りのなかの清しい目が、釜から吹き出す湯気の向こうからすっきりと現れたのをひと目見て、驚いた顔をしたのは、店の奥の帳場の角で膝を広げて座っていたうどん屋の亭主で、門附の美声にうっかり聞き惚れていたらしい。紺の筒袖にめくら縞の前掛け、草色の股引といった服装で、着物の裾は尻からげにしている。その亭主がいきなり立ちあがると、
「出ないぜ」
とご祝儀を断ったのは、なんともけちくさい。……見たところこの亭主は、自分の店の門で門附が唄っていたのをただ聞きして、いよいよご祝儀が必要になったところで「出ないぜ」と追いはらってやるつもりでいたところを、いきなり向こうから顔を突っこんできたものだから、かなりうろたえてしまったようだ。もっとも店内に客はいなかったのだから、門附としても、たいした商売になろうはずもなかった。
それでも門附は澄ました顔で、後ろ手で戸を閉めながら、斜めに抱えた三味線とともに、ためらうことなく店に入ると、
「あい、ご亭主は出なくてもいいのさ、私のほうで入るのだから。……ねえ、女房さん、そんなものじゃありませんか」
と答えたその声には、ちょっぴり笑い声が交じっているようにも聞こえる。
うどん屋の女房もまた、先ほどの博多節につい心を奪われて、釜から吹きだす湯気の前でぼおっとして立っていた。……浅葱色のたすきをかけて、突きだした白い腕をぶ厚い釜の蓋の上に軽く乗せていたが、円髷を崩して結った、色の白い、お歯黒を染めた中年増である。門附から声をかけられてサッと瞼を赤く染めると、かたかたと下駄の音を鳴らしながら竈の前を横切って、帳場の銭箱へぐいっと手を入れた。
「ああ、ご心配にはおよびません」
と門附は優しい声で、
「出ないと言われたから、冗談で入ると返しただけです。ご祝儀をねだったわけじゃありません。私が客だよ、客なんですよ」
店内の細長い土間の向こう側には、薄汚れた、縦に六畳ほどの市松柄に表を張った畳が敷かれた席があって、そこへ上がれば坐れるのに、釜の近くにある板張りの腰掛けに座って足を伸ばすと、
「どうもね、寒くってたまらないから、一杯御馳走になろうと思って。ええ、ご亭主、けっして、その、ただ飲みをしようなんてわけじゃありません」
そう言って、穏やかなしぐさで頬被りを取った顔を見ると、迷惑どころではない。目鼻立ちのきりりとした、ほっそりとした顔つきで、瞼に気苦労の陰が落ちてはいるが、清らかな目と濃い眉をした、二十八、九の人品の良さそうな若者である。
「へへへへ、いや、どうも」
と亭主は前に出て、揉み手をしながら、
「しかし、このお天気続きで、まず結構なことでござりやすよ」
と、何もない煤けた天井を見上げていたが、帳場の上の神棚へ目を外らした。
「お師匠さん」
女房は前掛けをちょっと撫でて、
「お銚子でございますかい」
とにっこりする。
門附は手拭いの上に撥を置いて、三味線を腰の脇にサッとしまうと、控えめな動きで片膝を持ち上げて、腰掛けの上で素足のあぐらをかいた。
そこで開いた裾を寒そうに押しこむと、
「まずは一合、酒は良いのを」
「ええ、もう飛びっきりのをおつけ申しますよ」
と女房は門附のほうをずっと見ながら土間を横切り、左側の畳の上に置いてある火鉢のなかを乱暴に火箸でほじり返して、炭火がカッと赤くなったところで、門附の席にぐっと寄せて、
「さあ、まあ、お当たりなさいまし」
「ありがてえ」
と、無頼な股火鉢の恰好になると、ほうっと一つ、長く呼吸をついた。
「世の中にゃ、こんなあったかい炭火があるんだと思うと、故郷のことを想い出してなおさら寒くなる。たまらねえ、女房さん、どうか銚子を、とびきり熱く燗をつけておくんなさい。ちょっと飲んで、うんと酔おうという、貧乏たらしい癖がついてる。懐具合はお察しの通りというもんだ。ねえ、親方」
「へへへ、それじゃあお前、極熱にしてさしあげろ」
女房はお歯黒の前歯を美しく見せながら、
「あい、あい」
四
「ところで何かね、さっきこの店の前を車が二台、旅の人を乗せて駆け抜けたっけ。この町を……」
と、飲み干した杯で門のほうを指して、
「二、三町行ったところの左側にある、屋根の大きそうな家の脇に止まったのが、蒼く月明かりで見えたがね……あそこは何かい、旅籠屋ですか」
「湊屋でございます、なあ」
と女房が、釜の前から亭主のほうにふり向いた。
「湊屋、湊屋、湊屋。この土地じゃあ、まあ、あの一軒しかないようなものでござりますよ。古い家じゃが名の知れた宿で、以前は大きな女郎屋じゃったのを旅籠屋にしたんですがね。部屋の様子は昔と変わらぬままで、奥座敷の欄干の外がすぐ揖斐川の河口で、もう海だといってもよい。白帆の舟も通りますわ。スズキは跳ねる、ボラは飛ぶ。他にはどこにもない趣がある宿屋じゃ。
ところが、ときどき崖裏の石垣から獺が這い入って、板廊下や厠に点いた灯りを消す悪戯をするのだといいます。が、べつに恐ろしいものに化けたりなんぞはしませんので。こんな月の良い晩には、庭で瓢箪を叩いて托鉢の真似をしてみせたり。……時雨の降る夜には、一文の値打ちもない安銭を使い賃に豆腐を買いに行くという。そんな話も旅の良い笑い話になるといって、えらく評判のいい旅籠屋ですがな。……お前さま、この土地のことはまだ何も知りなさらんかい」
「あい、ゆうべ初めてこっちへ流れこんで来たばかりさ。方角も何もさっぱりわからない。月夜であっても闇夜のカラスさね」
と言ったきりうつむいて、うどんを口にする。
「どれ、伸びないうちに、腹の底から暖まろうか。しまった、ほっ」
と言って、目を擦りながら顔をそむけた。
「利く、利く……こいつは恐ろしく利く唐辛子だ。ご亭主の前で愚痴をこぼすのも何だが、ついこないだも同じ目に遭わされたよ。要領が悪いのさ。なに、上方産の唐辛子だ、せいぜい鬼灯の皮を下ろしたようなもんだろう。利くものかと高をくくって、無料で食える薬味だからと、どっさり丼へぶちまけて、松坂では飛びあがっちまった。……またやっちまった、涙とよだれがいっしょに出ちまっちゃあ、色気は無えね」
と、手の甲でしきりに目をこする。
女房が銚子を取り替えようと、手のひらで燗の具合を確かめながら話しかける。
「お師匠さん、あんたは東の方のようですなあ」
「そうさ、生まれは東だが、懐具合は北山しぐれ、わびしい限りさ」
と言いながら、徳利の底を振って、杯にたらたらと酒を注ぎ切った。
「で、お前様、湊屋へ泊まんなさろうというのかな」
そんな身なりだと門口で断られるはずだと、亭主は馬鹿正直な顔をして、わざわざそれを教えてやりたそうである。
「ご冗談を言っちゃいけません。泊まりは木賃宿に決まってます。宿の部屋では茣蓙と笠と草鞋が留守番をして、壁の破れたところから、鼠が首を長くして、私が帰るのを待っている。四、五日はこの桑名でご厄介になろうと思う。……高級旅館の湊屋で泊めてくれそうなご身分に見えるのなら、この店に一夜の宿をお願い申し上げたいね。どうでしょうか、女房さん」
「こんなところでよろしければ、泊めますわ」
と女房は、跳ねるような足どりで銚子を運んで、門附に身を寄せる。
「とんでもないこった」
と亭主は門附が奥に行くのを遮るかのように、帳場を背にして腰かけた。それまでは紺の上着の筒袖に手首を引っこめ、案山子のように突っ立って、門附にぞっこんな女房の様子に気を揉んでいたのだった。
「はははは、おことばには及びません。うどん屋さんで泊めるのは、醤油しとしとの雨宿りか、鰹節ならぬ山伏といったところだろう」
と、自分で言った洒落にからからと笑った。
「お師匠さん、ひとつお酌をさせておくんなさいまし」
と女房は、市松張りの畳の端から、門附のほうに身を傾けるようにしながら土間を横切って来ると、差し向かいになって銚子を手に取った。
「とんでもないことです。お忙しかろうに」
「いやね、うちは芸妓屋さんへの出前ばかりですから、ごらんの通り手が空いてるんですよ。ほんにお師匠さんはいいお声ですな。なあ、あんた」
と、横顔で亭主のほうに視線を送る。
「さようじゃ」
と亭主は短く答えたきり、煙草をすぱすぱ。
「なあ、いまお聞かせくださった、あの博多節を聞いたときには……私ゃ、ほんに、身に染みて、ぶるぶると震えました」
五
「そう褒められちゃ興ざめだ。おまけに酔いも醒めそうでやりきれない。たかが大道芸人さ」
と若者は照れた様子で腕組みをした。
「なんで私がお世辞を言うものですか。ほんとのことですえ。あの、その、なあ、ゾッとするような、うっとりするような、締めつけるような、投げだされるような、緩めるような、まあ、なんと言ったらいいのやら。海のなかに柳があったら、お月様の光のなかへ身を投げて死にたいような……なんとも言いようのない気持ちになったんですよ」
と、背筋をくねらせながら、すっかり門附を贔屓にしたい様子。
「おい、お前」
と苛立った亭主は、たいした用もないのに不機嫌な声で女房を呼んだ。
「何なのよ」
とふり向くと……亭主はいつの間にか神棚の下で斜めに身を乗りだしている。乱暴な手つきでめくった帳面を、苦い顔で睨みつけて、
「升屋の掛け売りの払いはまだ寄こさんかい」
と、算盤をぱちりぱちり。
「今頃どうしてそんなことを。月末になったわけでもなし。……お師匠さん」
「師匠じゃないわ、升屋の掛けの話じゃ」
「そないに急に気になったのなら、あんたがちょっと行って取ってくればいい」
と、下唇を突きだして言い返す。亭主はぎゃふんと参った様子で、
「二進が一進、二進が一進、二一天作の五、五一三六七八九」などとつぶやく。うどん屋の帳簿の計算は、麺の加減の伸び縮み、加算、減算で済むものを、醤油を水で割るように割り算の段を唱えてごまかしているのは、どういう心算なのやら。
釜から立ちのぼる湯気のように、夫婦の会話が白けたところで、星も凍てつきそうな按摩の笛が響く。月天心貧しき町を通りけり、の句のように、あたかも冬の町に木枯らしを吹きこむような笛の音である。
「ああ、霜に響く」……と言った門附の声が、物語を読むように、くっきりと冴えて、かつ、鋭く聞こえた。
「按摩が通る……女房さん」
「ええ、笛を吹いてますね」
「くそっ、ひどく身に染みる。たまらなく寒いじゃないか」
と、あぐらをかいていた足を下ろしてきちんと座り直して、飲みかけの冷えた茶の入った茶碗を手に取ると、ざぶりと土間に棄てた。
「こいつに酒を注いでおくんな。そのほうがお前さんも手間が省ける」
「そんな、私はちっとも迷惑なんかじゃないのですえ」
「いや、ご親切はありがたいが、やかんを沸かす火が消し炭になったようで、いくら飲んで熱くなってもすぐ醒めちまう。氷で咽喉をえぐられそうな、あのピイピイを聞かされちゃ、身体にピシリとひびが入りそうだ。……持ってきな」
と、腕を持ち上げる勢いで、一息にぐっと呷った。
「まあ、いい飲みっぷり」
と女房は目を丸くして、
「とはいっても、だけれどもね、無理酒はなさらないでよ。ずいぶんと、あの、心配なさる女がいらっしゃるのでしょ」
「おい、お前、八百屋の支払いは」
と亭主が目をパチパチさせながら口を挟む。女房は夫の慌てぶりが可笑しいのか、見返りもしないで、
「取りに来たらお払いなさいよ」
「ええっと……三百文は新貨で三銭か」
などと言いながら、算盤をはじくふりをする。
「女房さん」
と呼んだ門附の声が沈んだ。
「なんです」
「立て続けにもう一杯。そして次もすぐ。よろしいかね」
「あい。よろしゅうございますが、あんた、えらく大酒飲みですね」
「酒でも飲まなきゃやってられねえ」
と芝居の声色をやりかけたが、ふと仰向いて目尻をつり上げた。
「あれ、また来たぜ、按摩の笛が。北のほうの辻から聞こえる。……やっ、そんなに夜が更けたわけでもないのに、屋根を越えて町外れの……そう、田んぼの畦かと思うところで吹いているよ」
と、そわそわしながら片膝を立てて、なにを探すともなく周囲を見回しながら、
「音は同じ笛の音だが、聞こえ方が違う……女房さん、どっちの按摩がどんな面かね」
と聞く。……そのとき、白目を剥いた按摩の首が、月光に蒼ざめて覗きこんだとでもいうように天井の棟木を見上げた……その視線は鋭かった。
「あら、あんた、鹿なら鳴き声で雄雌がわかるけど、笛の音でどんな按摩かなんてわかりませんよ」
「まったくだ」
と寂しく笑うと、なみなみと注いだ茶碗の酒をキッと見ながら、
「杯の酒を酌もうよ、座頭殿」
と、うつむきながら独り言を言った。……それが博多節の唄の文句なのかはわからない。表の障子を透かせるほどに、霜の夜の月光は冴えて、辻に、町に、按摩の笛の音が、そして揖斐川の波にも響きわたる。