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(序のあとがき)

 四年半ほどのあいだ暮らしていた神奈川の逗子(ずし)から鏡花が東京に戻ったのは、明治四十二(1909)年二月のことだった。

 その年の十一月、満三十六歳になった鏡花は、十八日から二十五日にかけて反自然主義者の集まりである文芸革新会の関西講演旅行に参加している。メンバーは他に、後藤(ごとう)宙外(ちゅうがい)(小説家、評論家)、笹川(ささがわ)臨風(りんぷう)(評論家、俳人)、樋口(ひぐち)龍峡(りゅうきょう)(評論家、政治家、日夏耿之介の叔父)、小林(こばやし)愛雄(あいゆう)(詩人、作詞家)、瀧村(たきむら)斐雄(あやお)(後藤宙外の回想記本文ママ。美学者の滝村斐男?)、本多(ほんだ)嘨月(しょうげつ)(「新小説」編集者)の総勢七名である。

 二十日に伊勢度会(わたらい)中学校での講演を終えた一行は、五二会ホテルに宿を取り、戸田屋という料亭で開催された慰労会に招かれた。講演旅行といってもさほど堅苦しいものではなく、四十代の宙外以外はみな三十代の、気の置けない仲間たちの旅行だったから、賑やかな酒宴が深夜一時過ぎまで続いた。その騒ぎぶりは、泥酔した本多嘨月が二階から転落して気絶しているのが翌朝になって見つかる、というおまけがついたほどだった。

 鏡花はといえば、なにしろ終生の愛読書であった膝栗毛の、初めて訪れた由縁の地だということもあって、到着初日からかなりのご機嫌だったようだ。前日に志摩の鳥羽港を見物したときには、笹川臨風に「弥次さん」と呼びかけたり、


   帆柱も大根も立てり鳥羽の浦       鏡  花


 という句を詠んだりしている。『歌行燈』の冒頭との類似からして、頭のなかではすでに、構想中の次回作に膝栗毛をない交ぜにする発想を得ていたようだ。

 また、本多嘨月の転落事故を知ったときには、


 ▶今夜は全く魔がさしたんですよ。通り魔の(わざ)でせう。私と並んで寝てゐた瀧村君の顔が、怪物(ばけもの)に見えた位なんですからね◀


 などと、ことさら怪談めかしたことを言っているのも、六章で按摩が顔を出して以降の怪異ムードを、すでに先取りしているかのようだ。結果として小説『歌行燈』では、この旅行での見聞が、あたかも旅行エッセイででもあるかのように、ふんだんに採りいれられている。


 しかし、信じられないことに、『歌行燈』が発表されたのは、雑誌「新小説」明治四十三年一月一日刊行の号である。そうなるとこの名作は、一ヶ月にも満たないだろう短期間で執筆されたということになってしまう。いや、校正のやりとりや活版印刷の手間を考えると、一、二週間で書かれたのかもしれない。完成した文章の密度と完成度をおもんばかるに、超人的な筆力としかいいようがない。

 もっともこれには多少の猶予があって、「新小説」の前年十二月号の新年号予告には、鏡花の新作として「あまの舞」という題名が挙げられている。破段以降を読めばわかるのだが、「あまの舞」とは『歌行燈』のプロットの中核を指すにちがいないことばなので、講演旅行に出発する以前からあらかたの構想は鏡花の頭のなかで完成していたとも思われる。


(……この話題は次の、破の序段のあとがきに引き継ぎます。)



 本文中の『膝栗毛』(十返舎一九作、1802~1814年刊)や博多節の引用部分はとくに難解なものではないし、興趣を添えるような使われ方をしているのだから、原文をそのまま載せたほうが親切かもしれない。しかし、たとえば冒頭の、


 ▶宮重(みやしげ)大根のふとしく立てし宮柱は……◀


 などは、宮重大根が「太い」というのと、神社ほめのことばの「ふと(しく)」(美々しく壮大である、の意。「ふと」は美称)を掛けていて、伊勢神宮の柱が大根のように太いといっているわけではない。そんなニュアンスをいちいち注釈するのも煩雑になるので、部分的にリライトする、ということにした。



 二章で描かれた、桑名の夜の町を、弥次郎兵衛、捻平を乗せた人力車が走る道中の場面は、講演旅行で桑名を訪れた際に目にしたことをそのまま写し描いたもの。美文でありながら写実にも徹した鏡花一流の名文で、のちに鏡花も「月下の霜の桑名新地、真景やゝ写し得たらむ()。」と、自賛の辞を述べている。花街(かがい)を通り抜ける様子のなかに、


 ▶あたかも(かわうそ)祭礼(まつり)をして◀

 (あたかも(かわうそ)が獲物の魚を川原に並べたかのように)


 とあるのは(先に上げた『きぬぎぬ川』のあとがきにも書いたけれど)、(カワウソ)が捕らえた魚をすぐには食べず、祭り奉るように川べりに並べる習性を先祖を祭る儀式にたとえた、いわゆる獺祭魚(だっさいぎょ)のこと。架空の伝説ではなくて実際の習性で、検索をすれば動物園で飼われているカワウソも(本文中の黒い柱を並べるように)、プールサイドに魚を並べている愉快な写真がヒットする。


 同じく二章で弥次郎兵衛が車夫に向かって言う「法性寺入道前関白太政大臣……」というのは、芝全交作、北尾重政画『鼻下長物語(はなのしたながものがたり)』下巻(寛政4(1792)年)という江戸時代の黄表紙本に書かれた早口ことばで、二代目市川團十郎が演じた外郎売(ういろううり)の早口ことばが人気を博したのに追随して書かれたもの。本家の外郎売ほど有名でないにしても、現在でも演劇やアナウンスの発声練習用に使われることがあるようだ。

 全文は以下の通り。法性寺(ほうしょうじ)は、法性寺(ほっしょうじ)とも読む。


法性寺(ほうしょうじ)入道前(にゅうどうさき)の関白太政大臣様のことを法性寺の入道前の関白太政大臣殿といったれば法性寺の入道前の関白太政大臣様が大きにお腹をお立ちなされたによって今度から法性寺の入道前の関白太政大臣様と言おうやのう法性寺の入道前の関白太政大臣様。」


 余談めいた話になるが、『鼻下長物語(はなのしたながものがたり)』の「鼻下」は、鼻の下にある(くち)のことを面白おかしく言ったことばで、『鼻下長物語』は、口から出任せに長々と語った話、という意味。同様に「鼻の下を伸ばす」という慣用句も、上唇の皮膚を縦に伸ばしている状態ではなくて、おそらくは、だらしなく口を開けている様子を表しているのである。

 偶然なのか、『歌行燈』の八章には、


 ▶鼻の下を長くして、土間越の隣室(となり)へ傾き◀


 という一節があって、とするとこの「鼻の下を長くして」も、口をあんぐりと開けて、という意味になるのだろう。もしかしたら鏡花も、同じ連想の筋道をたどって「鼻の下」ということばを使ったのかもしれない。



 ――さて、弥次郎兵衛、捻平と呼ばれる二人の老人は、そしてミステリアスに登場した博多節の門附(かどづけ)(人家の門口で芸を披露してご祝儀を受け取る芸人)は何者なのかが、以後、次第にあきらかにされていきます。



参考文献:

十返舎一九『東海道中膝栗毛』(岩波文庫)

後藤宙外『明治文壇回顧録』

笹川臨風『明治還魂紙』

朝田祥次郎『注解鏡花小説』

巌谷大四『人間泉鏡花』

『新編 泉鏡花集 別巻2』

『新編 日本古典文学全集79・黄表紙/川柳/狂歌』

『謡曲集』(新潮日本古典集成)

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