(破の急のあとがき)
鏡花の小説はおおよそ、有名なものが比較的読みやすい作品で、読みにくいものは、たとえ内容が充実していても人気がない。たしかに、『註文帳』や『日本橋』のように、文章も難解な上に、特殊な世界に材が取られて、構成が複雑だったり、ストーリーが予測不能だったりする場合、普通の読書のつもりで読むと、小説のなかでなにが起こったのかさえ、ぼんやりしてしまう。
その点でいえば『歌行燈』は、明快な構成とストーリーラインに助けられて、わからない部分は雰囲気で流し読みしても、主旨を誤解せずに読んでしまった気になれるから、ちょっと特殊な位置にある。けれどもその、流してしまった部分をいちいち拾いあげて、その意味を考えてみると、とたんになにを言いたいのか、さっぱりわからなくなるのがやっかいだ。書いてあることを全部、自分のことばに置きかえることの難度でいえば、鏡花作品中の最難関かもしれない。実際のところ、能楽「海士」の「玉の段」のことをなにも知らずに、文章だけから細部を想い描くのは不可能だと思う。
久しぶりに『歌行燈』を読み返しながら、これはまったく手に負えないとすぐに思った。最近になって入手した、朝田祥次郎著『注解 鏡花小説』という、『歌行燈』『葛飾砂子』『註文帳』の三篇に明快な注を付した名著がなかったら、雰囲気現代語訳がせいぜいだったと思う。そもそもが鏡花作品を熟読する面白さを教えてくれたのが『日本近代文学大系 7 泉鏡花』の朝田氏の注釈や解説だったのだから、『注解』と『大系』と『注解考説 日本橋』のたった三冊しかない朝田本は、鏡花読書におけるかけがえのない先生である。
『東海道中膝栗毛』が好きで、それが鏡花の愛読書だったと知る以前から何度か読んでいたのだけれど、それにしても、岩波文庫の簡単な頭注があればこの古典がすらすらと楽しく読めてしまうのに対して、なぜ百年も今に近い時代に書かれた『歌行燈』はこんなに難しいのかと頭を抱えてしまう。
破の急にあたるこの箇所には、とくに芸能がらみの難解な表現が多いから、以下、自分なりの語釈をまとめてみた。
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▶師走の闇夜に白梅の、面を蠟に照らされる。◀(十六章)
一読してさっぱりわからないが、朝田本には、加藤暁台の「火ともせばうら梅がちに見ゆるなり」の句をふまえた表現との指摘がある。「うら梅がち」の風情が、あからさまに「面」を照らされて恥じ入る、という気持ちか。尺が伸びてしまうのは仕方がないとして、こんなふうに置きかえてみた。
「そう答えたお三重の顔は、師走の闇夜に燈を向けられた白梅のように、蝋燭の光をまともに受けて、消え入りそうな恥じらいを浮かべている。」
▶舞えるのかえ、舞えるのかえ◀(十六章)
「(踊はできないけれど)舞の真似が少しばかり立てますの」というお三重のことばに、女中のお千が歓喜するせりふ。この時点ではお千は、能では使われない三味線の奏者を探しているので、能の舞ではなくて地唄の舞だと勘違いしていることがわかる。舞、すなわち能のダンス、ではない。
では、そもそも、「踊や言うで明かんのじゃ。舞えるのなら立っておくれ」と言ったお千は何をもって踊と舞を区別しているのか。踊と舞とは、なにが違うのか。
これについては武智鉄二が、舞は水平方向の運動、踊は垂直方向の運動、という明快な答えを述べていたと記憶する。
▶ああ、お前さんは、鳥羽のものかい、志摩だな。◀(十八章)
作品の舞台は桑名だが、回想部分で山田、古市、鳥羽など新しい地名が出てくると、現地に暗いゆえに混乱する。
紀伊半島を伊勢湾添いに南下する順序で単純化すると、こんなふうになるのだろう。
名古屋
↓
桑名 [湊屋]
↓
↓
|――――伊勢――――――――――|―――→志摩
(外宮)―宇治 山田 二見 鳥羽
古市 [藤屋]―――(内宮)
作品の舞台は、三章以降、一貫して桑名の湊屋近辺。
また、会話内に登場する山田と古市の位置関係がわかりにくいのだが、これはわからないのが正解である。
お伊勢参りの旅客の精進落としの場として、江戸時代から栄えていたのが古市で、明治になって新地として栄えたのが宇治・山田らしい。それを鏡花は、「山田の古市に惣市と云う按摩鍼だ」(十二)など、山田のなかに古市が含まれるように書いている。これは単純に鏡花の思い違いで、実際は別の遊廓であったとのこと。(『新編 泉鏡花 第七巻』解説を参照)。
とりあえずこの小説世界内では、山田と古市を伊勢外宮の鳥居前町としてにぎわうひとまとまりの歓楽街として捉えておけばいい、ということになる。
▶晃然とあるのを押頂くよう、前髪を掛けて、扇をその、玉簪のごとく額に当てたを、そのまま折目高にきりきりと、月の出汐の波の影、静に照々と開くとともに、顔を隠して、反らした指のみ、両方親骨にちらりと白い。◀(十七章)
銀の扇を「前髪を掛けて」「額に当て」というのは、閉じた扇を前髪のあたりから額にかけての位置に構えて、仕舞の最初の型を作っている表現。
「折目高にきりきり」というのは、日用品の扇とは違って能の扇は、折り目が大きいので、折り目を一つ開くたびに、パチン、パチンと響くほど固い、という様子(そういえば小さかったころに、家にあったこれをパチン、パチンとゆっくり開いたり、それこそキリキリと勢いをつけて開いたりして、飽かずに感触を楽しんでいたことをふと思い出した)。
「両方親骨にちらりと白い」は、扇の親骨(扇を開くと左右の端に位置する太い骨)の脇から指先が見えている状態。お三重が、脇を締めて静止する姿勢が想像できる。
ここで問題なのは、扇を「きりきりと」「開く」とあることで、「海士」の仕舞、玉の段では扇を利剣(仏法の霊剣あらたかな剣)に見立てているので、扇は開かない。開くのは海女が海底に潜って、扇を宝玉に見立てるわずかな間だけである。最晩年の鏡花が目を通した脚本によって、成瀬巳喜男監督が戦時中の1943年に撮った映画『歌行燈』でも、お三重役の山田五十鈴は扇を閉じている。最初から扇を開くのは完全に鏡花のオリジナル演出ということになる。
全編を通じたキーワードである「月」の修辞を導くとともに、二老人に扇に画かれた宝生流の五雲を見せ、門附の正体を確信させる段取りも兼ねて、あえて劇的な演出をほどこしたのだろう。
▶――その時あま人申様……◀(十七章)
門附がお三重に教えたのは、「玉の段」と呼ばれる、謡曲「海士」の仕舞(能一曲のさわりの部分だけを衣装を着けずに舞う舞)なのだが、通常の「玉の段」は、引用部分の次にくる「……ひきあげたまえと約束し、一の利剣を抜持って」から始められる。だがなぜか、お三重はその以前の部分から習っている。
なぜ鏡花がそんなことをしたのか、わからないのだが、扇を開くまでの間を持たせてサスペンスを醸す、小説作法上の必要もあるのだろう。だがおそらくは(想像でしかないのだが)、「……ひきあげたまえと約束し」といきなり意味のわからない途中からはじまる仕舞の切り取り方を嫌って、子を思う母の心を述べた直前部分をつけ加えることで、ことさらに母恋の曲であることを強調したかったのではないだろうか。
▶いや、更めて、熟と、見せてもらおうじゃが、まずこっちへ寄らしゃれ。ええ、今の謡の、気組みと、その形。教えも教えた、さて、習いも習うたの。/こうまでこれを教うるものは、四国の果にも他にはあるまい。◀(十八章)
「教えも教えた、さて、習いも習うたの」は、篇中でもとりわけ印象に残る、名セリフの一つ。
「四国」は、四国地方のことだとすると意味がわからないのだが、朝田本には「四海、天下。」と注されていて、そうなれば「四国の果にも」は、「全国津々浦々探しても」という意味になってよく通る。ただ、四海を四国と言い換える例がどこかにあるのか、どういう意図でそんなことばの入れ替えをしたのかはわからない。あるいは言い換えではなく、須弥山の四方を取り巻く四大州のことなのか。
それよりも、ここで問われるべきは、お三重という唄も踊もできない少女が、たった五回の早朝の伝授で、最高峰の奏者と演者を驚嘆させる演技をなぜ身につけられたのか、という根本的な疑問である。
結論から言うと、どう考えてもフィクションの嘘であって、鏡花もまた、天狗だの天魔だのという神秘的なほのめかしによって、奇跡を正当化させようとしているかのように思える。そうだとはしても、そこが小説の小説たる妙味なのだから、むしろその妙味のつけ方について考えるべきだ。
まずいえるのは、褒めるほうは手放しで褒めているわけではなく、「謡の、気組みと、その形」を褒めていることである。朝田本によれば「形」というのは舞のことで、とすると古くからの芸の「型」に習熟しているという褒め方ではないようだ。つまり全体の完成度ではなく、「気組み」について褒めている――流派の教えによって厳しい鍛錬を重ねなければ得られないはずの、表現者として身につけるべき基本が、なぜか身についていることに驚いているのだとも受け取れる。
謡にかんしては、なにしろお三重は、(この時点では明白にされていないが)伊勢の名人、宗山の娘である。知らないうちに謡曲の素養は身につけていたのではないか。しかも謡曲は、たとえ音痴であっても唸れるようにできている。
そして舞については、お三重には、「海士」のシテ方の役柄をなぞるかのように、(自分でしたのか、他人にされたのかという違いはあるにせよ)胴を縄でくくって海の底にもぐるという、死に直面する窮状によって身にたたき込まれた感覚が備わってのである。
幕末から明治にかけての能役者が実見聞をどう演技に活かしていたのかがわかる一節を、夢野久作の『梅津只圓翁伝』から引用すると、
▶翁が能静氏の門下で修業中、名曲「融」の中入後、老人の汐汲の一段で「東からげの潮衣――オ」という引節の中で汐を汲み上げる呼吸がどうしても出来なかった。そこで能静氏から小言を云われっ放しのまま残念に思って帰郷の途中、須磨の海岸で一休みしながら同地の名物の汐汲みを眺めていたが、打ち寄せる波が長く尾を引いて、又引き返して逆巻こうとするその一刹那をガブリと担い桶に汲み込んで、そのまま波に追われながら後退して来る海士の呼吸を見てやっと能静氏の教うる「汐汲み」の呼吸がわかった。同時に「潮衣――オ――」という引節に含まれた波打際の妙趣がわかったので、感激しながら帰途に就いたという。◀
……とあって、今の演劇や映画の役作りとなんら変わることがない。これも想像でしかないのだが、明治の頃の能には、伝統の伝承を旨とする現在よりもずっと、実体験を糧に演技に説得力を加える気風がより色濃く残っていたのかもしれない。
またお三重は、「私が、あの、鳥羽の海へ投入れられた、その身の上も話しました」と、自分の体験を門附に打ち明けたことを二十章で語っている(わざわざ鏡花がつけ足して書いている)のだから、門附はその経験を活かせる指導に的を絞ったとも考えられる。
……そう考えると、鏡花は天狗のしわざに対して、充分すぎるほどの合理的な理由付けを配置しているわけで、どう考えてもフィクションの嘘だという前言も考え直したい気になってくる。
▶あの、前刻も申しましたように、不器用も通越した、調子はずれ、その上覚えが悪うござんして、長唄の宵や待ちの三味線のテンもツンも分りません。……◀(十八章)
「テンもツンも」は三味線の旋律を口で示す、口三味線の用語。「宵や待ち」は、正しくは「宵は待ち」で、小唄「明けの鐘」の通称。
お三重が、曲のタイトルもジャンルも間違えて、三味線の唄ならなんでも長唄と思ってしまうのが、初心者らしいリアルな間違え方になっている。
(もっとも、『山海評判記』(昭4)の「山帰り」(一)でも鏡花は「宵や待」と書いているので、鏡花本人が口に馴染んだ言い方だったようなのだが。)
▶こいし、こいし◀(十八章)
もし、もし、と呼びかける意味で、女郎が客引きをすることばに、「女が恋しゅうなる禁厭」を付加したのだという、鏡花の造語。
朝田本によると、『膝栗毛 五篇追加』にある、古市の女郎が「これいし」と客に声をかけることばから造られたものだという。
語調からして哀切なことばなのだが、お三重が門附のことを思うとき、同じことばが「恋し」の意味をおびて、門附と再会したときには「是喃」と呼びかけず、門附がじつは意中の相手とも気づかず無意識に「是喃」と声をかける、という仕掛けもすばらしい。
▶泣いてばかりいますから、気の荒いお船頭が、こんな泣虫を買うほどなら、伊良子崎の海鼠を蒲団で、弥島の烏賊を遊ぶって、どの船からも投出される。◀(十九章)
漁師らしく海産物に縁づけたことば遊びで、弥島の田舎女郎はイカ女郎、とでも普段から言っているような、荒くれたことばづかいが想像できる表現。
また、屋島や八島はあるけれど弥島という島はないようで、おそらくは同じ音の漢字を気軽に入れ替えて遊ぶ、意識的な江戸ぶりの感覚なのか。あるいは特定地域の悪口になるのを避ける配慮なのか。
▶人さしと、中指と、ちょっとの間を、一日に三度ずつ◀(十九章)
お三重が三味線の稽古をしている描写。
左手で棹を握って、人さし指と中指で弦を押さえているのだが、「ちょっとの間を」というのが、「人さしと、中指と」を受けているのか、「一日に三度ずつ」と並列しているのか、私にはどちらともわからない。
前者だと、「人さし指と中指が狭い部分を往き来して同じフレーズばかりを」ということになるし、後者だと「一日のうちの短い時間を三度ずつ」ということになる。「姉さん」は本業の合間を縫って稽古をつけたのだろうから、文脈から素直に考えれば後者なのだろうな、と思う。
▶……博多帯しめ、筑前絞り――◀(十九章)
ここで門附が唄っている博多節とは、文字どおり福岡博多の民謡なのだが、同じ博多節でも、明治中期に興った古調博多節と、大正十年に作られた正調博多節の二種があるのだそうで、作中で唄われているのは当然、前者。物語当時、わりと新しめの流行歌だった、ということになる。「ドッコイショ」という囃子詞が特徴らしい。今ではほどんど聞く機会がないようだ。
余談だけれど、正調博多節のように人為的に作られて、作った人や作られた経緯が明白な音楽ジャンルは珍しい。他にはボサノヴァが想い浮かぶくらい。
▶老の手捌美しく、錦に梭を、投ぐるよう、さらさらと緒を緊めて、火鉢の火に高く翳す、と……呼吸をのんで驚いたように見ていたお千は、思わず、はっと両手を支いた。◀(二十章)
捻平老人が風呂敷包みから取りだした小鼓を奏するための準備をしているくだり。鼓の緒を締める「手捌」を機織りの動作にたとえる表現もわかりにくいが、その後に「臨風榜可小楼」に次ぐ、『歌行燈』篇中第二位の難問が含まれている。
小鼓は適度な湿気を保たなければならない楽器なので、演奏前に、しかも乾燥した冬の時期に「火鉢の火に」「翳す」のは、考えられない行為なのである。ここに関してだけはさすがの朝田本も「革の張りを堅くして音をよくするため」と、間違った注釈を付している。
テレビでは画角に収まらないことが多いけれど、能の公演を何度か観れば、舞台上で小鼓奏者が楽器にほーっと息を吹きかけていたり、皮の部分に貼った和紙(調子紙)につばをつけたりしているのが目につくので、あれはなにをしているのかと、聞いたり調べたりするだろう。母方の祖父が大鼓の奏者で、高名な宝生流シテ方の伯父と深い交流を持っていた鏡花が、楽器に湿りを与えているのだと知らないわけがない。
逆に大鼓は乾燥を好む楽器で、(雅楽で使う簫と同じように)演奏前に火鉢であぶる準備が必要だから、大鼓と小鼓を混同したような誤解を招く文章である。しかし、これほどの、高い精度の写実に徹した作品でそのような過ちを犯して、しかも放置するというのはありえない話だ。
恣意がすぎる読みかたかもしれないが、一読者としては、「火鉢の火に高く翳す」という「高く」に肩入れをして、それまでずっと演奏のために指を温めていたのだが、小鼓を取りだすと、火から遠ざけるように高くかかげた、と解するしかなのではないか。
▶一調の番組を勤め済まして、あとを膝栗毛で帰る途中であった。◀(二十章)
能の演目は、一曲、あるいは一番と数えるのだが、「一調」とはなんなのだろうか。
これも朝田本によると、「太鼓、大鼓、小鼓のうち一つを、一人のうたい手に配して、謡曲の一部を演奏するもの」とある。なるほど、だから恩地源三郎の連れは、辺見雪叟一人だったのか。その番組というのだから、御前ではいくつかの演目が組みあわされて演じられたのだろう。
「膝栗毛」とはもちろん、『東海道中膝栗毛』のことなのだけれど、じつは、正篇が八篇まで刊行された膝栗毛シリーズのうち、内題(本文の先頭に書かれた題)、外題(表紙に書かれた題)ともに「東海道中膝栗毛」と題された本は(上・下巻を一篇と勘定すると)、五篇ただ一つしかない。その五篇ですら、五篇追加の巻では「膝栗毛」となっている。つまり「東海道中膝栗毛」とタイトルが統一された篇は一篇もない。そもそも享和二(1802)年に刊行された初編からして「浮世道中膝栗毛」なのである。その後タイトルをころころと変えて、結果的には外題に「東海道中膝栗毛」と書かれたものが四篇あるという程度で、全篇を貫くのは「膝栗毛」の三文字しかない。
鏡花が「膝栗毛」と言うときは、略しているわけでも一般名詞化しているわけでもなく、(おそらくは金比羅参詣篇や木曾街道篇などの「続膝栗毛」シリーズと区別するために)のちに『東海道中膝栗毛』と便宜的に呼ばれるようになった書物そのものを指している。




