破の急 十五、十六、十七
十五
「いえね、なにも私は意地悪を言っているわけじゃないんだよ」
と言った湊屋の女中が、前垂れが掛かった膝を怒りで固めながら、ふざけるんじゃないよとでも言いたげな視線を投げる先には、二十歳ほどの若い芸者の姿があった。
――女中の傍らにいる芸者は、柔らかな髪のふっさりとした島田の鬢を重たげに思わせるほどうつむいている。……襟足は白く冷たそうで、水紅色の長襦袢の肩がすべり落ちて、背筋が見えるほどの抜き衣紋になっているのがいかにも寒そうだ。なよやかにうちしおれた様子は、咲き残った薄紫の嫁菜のようで、浅葱色のように淡く見える藤色縮緬を、二枚重ねで着ている姿がいかにも寂しげである。
「このお座敷は別の芸妓に頼むから、なああんた、もうさっさと自分の置屋に帰りな。……島屋の、ええとお三重さんやったな、あんた、お三重さん、お帰り!」
と、厳しく言いつける。
「お前さんが来なさったから、上手にお客さんのご機嫌を取ってくれるだろうと、小女だけ付けて、私が入れ違いに台所へ行った間のことや。……罰あたりにも、お客さんたちがお年寄りなのが気に入らんとでもいうんか。最近山田から来たというて、桑名ごときと見くびったのか。酌をしろとおっしゃっても、嬉しそうな顔もせず、三味線を聞かせろとおっしゃれば、鼻の先で笑ったという。傍にいた喜野が見かねて、私の袖を引きに来た。
さっきから、ああだこうだと口が酸っぱくなるほど、ご機嫌取りのようなことをして、都々逸でも京唄でもいいからせめて一曲だけでも、どうぞ三味線を鳴らしておくれと、私がさんざんあなたをおだてたのに。座敷が盛りあがらなくて、お客様がお寂しそうだ、こんなんじゃ、お座敷どころか蝋燭の火まで白けてしまう、弾いて見せなさい、お願いだからと言って聞かせても、知らない、知らないと言い続ける。あなた、三味線は弾かないとでも決めているんか。下手やというて、知らぬというて、たとえ下手でもご挨拶代わりの曲さえ弾けない芸妓がどこにいる。
よう考えてみいや。どうでもいいお座敷だと、思うていいんか悪いんか、お客様方のお人柄を見ればわかるだろうに、なんであなた、そんなでお座敷を勤める気や。あんたがその気でも私の気が済まない。さ、お立ち。ええい、私が三味線を島屋に送り返してやるから」
と、いつもは優しい女中がツンケンした態度で、こうしてやるといわんばかりに、襖の傍に寝かした三味線にサッと手をかけると畳に突き立てて、そのまま持って行こうとした。
「ああれ」
お三重は畳に裳裾を摺らしながら、ハッと取りすがるように、女中の膝に遠慮がちに抱きつき、袖を引いて、三味線を引き留めた。身を崩したその姿は、芍薬の花が散るかのようで、
「堪忍してくださいまし。堪忍して、堪忍して」
と、息を切らしたその声は、しだいに涙を含んで、
「お客様にも、湊屋さんにも、なんで私が失礼なことをいたしましょうか。ほんとに、あの、ほんとに三味線は弾けないんです、姉さん」
と言うと、ことばが途絶えた。
「……先ほども、ね、他家のお座敷に出て、隅のほうに座っていました。いつもとはちがって兵隊さんの送別会です。派手に大騒ぎをしているなかで、芸のない芸者などいらん、衣服を脱いで踊るんならいいぞ、いやなら出ていけと言われて……私は一人帰されて、主人の家に戻りますと、すぐに酷いめに遭いました、ええ。
三味線も弾けず、踊もできない、座敷で衣服も脱げないと言うんなら、うちで脱げ、引っ剥がすぞと、ね。帯もなにも脱がされたうえに、台所に突き伏せられて、わざと開けた引き窓から、冷たいお月様の光が差すなかで、ああ、恥ずかしいな、乳にも胸にも柄杓で水を、立て続けにかけられましたの。
こちらから、あの、お座敷に呼んでくださいますと、それまでとは打って変わって、炬燵で暖めた襦袢を着せて、東京から来たお客だそうじゃないかと、とっておきの着物を出して、しっかりお座敷を勤めて来るんだよと言って、ご主人が自分で駒下駄まで用意するんです。
勤めるといっても、どうすればいいんでしょう……踊は立って歩くこともできませんし、三味線は……それがですね、姉さん、弦に手を当てれば誰にでも音は出せますけど、何か曲を弾いて聞かせろとおっしゃるんですもの、どうして私に、弾いたり歌ったりができましょうか。……
どこか身体が不自由だというわけでもないのに情けない。自分では、三味線の調子を合わせることすらできません。いったい何をすればお座敷に置いていただけるのだろうと思いますと、すっかり気が咎めてしまって、お話すら満足にできませんから、何が気に入らなくてそんな失礼な顔をしていると、お思いになられるのも無理はないんですよ、ねえ……。
代わりに湊屋さんでは、お台所で皿洗いのお手伝いをいたします。姉さん、ねえ、姉さん」
と、女中の袖を擦りながら、一生懸命になって、見栄も外聞もなくうるんだ目もとで女中の顔を見上げている。……すがりつかれた女中は、みるみる表情を柔らげて、突き立てていた三味線の棹も撓みそうになった。
すると、お三重は身体を回して、ふっくらとした綾織の帯を女中の袂に押しつけたままのかたちになって、今度は二人の客のほうへ向き直ると……。
十六
そして、あらためてお三重は、二人の老人に手を支いた。
「芸者を呼ぼうとお思いになって、私を呼んでくださったのだと思いますと……お役に立てないことが気恥ずかしくて、お銚子を持ちます手が震えてなりません。お傍に下女をお置きになられたとお思いになって、お休みになりますまでお使いなさってくださいませ。お背中を敲きましょう。ねえ、どうぞお肩を揉ましてくださいませ。それなら一生懸命に、きっと精一杯にお勤めいたします」
と、ためらいもなく、前髪が畳につくほどに頭を下げた。こんななかででも三つ指をついている行儀よさから、身についた品の良さがうかがえる。
膝栗毛の本を開いて、黙って道中の挿絵をじろじろと見ていた捻平が、ようやく重い口を開いて、
「子々孫々までものよい教訓じゃ。旅先で芸者を呼ぶなどということは、のう、お互いに以後は謹もう……」
と言うと、火箸に手を置いた。
退屈そうに薄目を開けて、例の臨風榜可小楼の額を正面に仰ぎ見ながら、根元近くまで灰になった巻き煙草を吸いつけると、熱っと慌てて火鉢に抛って、咽せた弥次郎兵衛は咳を一つ。
「ええと、いや、女中……後で祝儀はする。ここで出してもいいんだが、その娘が気詰まりだろうから。どこか小部屋で休憩して皆でうどんでも食べてくれ。私が奢る。それでなにか楽しい話でもして遊ばせて、そのうち頃合いを見て帰すがいい」
と、冷たくなった杯の酒を吸うと、寂しそうにぐいっと飲んだ。
そのことばを聞く前に、女中は棹を握って畳に支き立てていた三味線を、次の間の暗がりのほうへそっと押しやって、覆いかぶさるほどに摺り寄りながら、黙ったまま、燈の光を浮かべた水のように揺らいでいる、お三重の背中をさすっていた。
「島屋の亭主が、そんなひどいことをするのかい。いいわ、うちのご隠居に事情を話して、文句を言ってあげよう。安心していいんだよ。ほんにまあ、ようあんた、顔に傷もつけなかった」
と、かよわい腕を撫で下ろす。
「ああ、それも芸妓は売り物だというだけの気遣いに違いないな。……お客様にお礼を言いや。さ、そしてなにかおしゃべりでもしがてら、ご隠居の炬燵においで。切下髪に頭巾をかぶったご隠居が、ちょうどね、ようかんを切って、お茶にしていらっしゃるところや。
だけども……」
そう言って、女中は覗きこむようにして、お三重の清らかな襟もとから柔らかな鬢の毛まで視線を行き来させると、
「あんた、不運なことやな。ほんとに三味線は、ペンともシャンとも弾けぬのかい」
と言うと、慰めるような笑みをうかべて見せた。
「はい、神様に願を掛けましても、塩断ちまでしてみても、どう弾けばいいのかもわかりません。調子を合わせることさえできません。生まれつきなんだと思います」
そう答えたお三重の顔は、師走の闇夜に燈を向けられた白梅のように、蝋燭の光をまともに受けて、消え入りそうな恥じらいを浮かべている。
「踊もできないのかい」
「は……い」
その様子を見ていた弥次郎兵衛は、
「泣くな、弱虫。さあ、一つ飲まんか! 元気を出して。これからはどこかに呼ばれたときは、怯えるなよ。気の持ちようでどうにでもなる。ジャカジャカと弾き鳴らせ、糸瓜の皮で垢すりする気で引っかき回すんだ。芝居の阿古屋琴責じゃあるまいし、このうえ琴を弾け、胡弓も弾けなどとは誰も言わん。お寺の坊主みたいに銅鑼や鐃鈸を叩けばいいんだ。あるいは簫の笛をピーと吹いていれば、上手か下手かは誰にもわからん。それなら芸なしとは言われまい。踊ができなきゃ体操だ、イチ……」
と、羽織の紐が切れるかと思うほど左右に腕を広げて、思い切りよく胸を反らすと、
「ニイ、だ」
と、伸ばした二つの腕をそのまま狐拳の鉄砲に見立てて、ぬっと突き出してみせると、励ますようにカラカラと笑う。
「お前さん、それくらいのことはできるだろう。いや、それも度胸がなけりゃ無理なのか。見たところ、そんなふうに気が弱くては、何一つものにはできまい、可哀相に」
と、最後はかすれ声で言った。
「あの……私が自分から言いだすのも厚かましいことに思えますが……お恥ずかしいのでございますが、舞の真似事が少しばかりできますの。それもたった一つだけ」
そう言うと、お三重は恥ずかしそうに顔を伏せて、また手を支いた。
「舞えるのかい、舞えるのかい」
と女中は嬉しそうな声をあげて、
「おお、踊だと言うたからあかんかったのか。舞えるならすぐに舞っておくれ。こうなってしまっては、もう遠慮はいらん。待ちなはれ、地唄舞だと伴奏が要るだろう。喜野や、あそこの広間へ行ってな、うちの千がそう言ったと言って、誰でもいいから弾ける人を借りて来なさい」
と言われて、ぽかんとしていた小女の喜野が立とうとした。そこを、お千と名乗った女中は小首をかしげ、少しばかり、口を優しくへの字に曲げて、うなずくと、
「待って、待って」
十七
「今夜はいつもと違うんだった。……一度軍隊に入りなさると、日曜でなくては外出もできない。……お国のために、馴れぬ苦労もしなさるんだ。新兵さんの送別会や。たとえ女衆が大勢いても、一人抜けてもお座敷が寂しくなるものね。
いいわ、旅の恥は掻き捨てがあべこべになってしまうけど、一泊だけのお客さんの前だもの、私が三味線を掻き鳴らそう。お三重さん、何の舞を舞うの? 私が弾ける曲か弾けない曲か、なんて聞くのもあつかましくて……ちゃんと弾ける曲なんてないけれど、どうにか間に合わせにしたいわよねえ」
「あら、姉さん」
と、三味線を取りに立とうとしたお千の膝を袖で押さえ、ちょっと恥ずかしそうにした、お三重の可愛らしさ。
「三味線に合わせられるなら、皆さんと同じ踊を踊るんですけど。あのね、私のはね、お能の舞の真似事だから、三味線は要らないんです」
と、言い終わらないうちに、恥ずかしげにお千の膝に顔を伏せて、弥次郎兵衛の小父さんと捻平に背中を向けたしぐさも初々しかった。つつましやかではあるが、身をくねらせたせいで着崩れして、袖口から長々と襦袢の袖が畳に垂れた姿は媚めかしくもある。
「なに、舞というのはその舞のことかい」
と弥次郎兵衛は、一言漏らした。
捻平は膝に広げていた本をばったりと伏せて、
「さて、飲もう。手酌でいいじゃないか。ここで舞など願い下げじゃ。せめて日蓮様のお題目を唱えて太鼓でも叩きなさい。ふぁははは」
と、なぜかしわがれた高笑いを、この老人には珍しいほどにどっと天井に響かせた。
「捻平さん、捻さんよ」
「おお」
と、めんどくさそうに、ようやく応える。
「これも旅先の話の種じゃ。ちょっと見物をしようと思うぞ」
「いや、わしはご免じゃ」
「ならば、あなたは目をつぶっていなさい」
「ええい、縁起の悪いことを言いなさる。……明日にでも東京へ帰って、可愛い孫娘の顔を見るまでは、瞑目んだとしても目はつぶらんぞ」
「おやおや、また捻くれたことを言う、それ、そこが捻平なんだよ。勝手になされ。さあ、そこの娘さん、立ちなさい。この爺様に遠慮は要らぬぞ。さっきはなにも芸がないと言って、肩や腰をさすろうと卑下したが、どんな真似事でも一つやれば、芸者として立派に面目が立つ。気持ちよく祝儀も受け取れるだろうから、ぜひ見たい。が、しかし、舞うのもあなたの自由だよ。決して舞えと強いるわけではないぞ」
「あんなにおっしゃってくださるもの。さあ、どんなことをするのか、私にはわからないけれど、下手でも心配ない、心配ない。それ、支度は要らないのかい」
「あい」
と返事をして、わずかに身を起こすと、あわれなほどに窶れた、ふくよかであったろう顎を、まるで襟を噛もうとするかのように深く引いて胸もとを覗きこんだが、そこには、肌身に着けていたと思われる、濃い紫色の細い包みが、襟の合わせ目から透かし見えていた。その袱紗の縮緬の包みが解かれて、ひらりと宙にひるがえると、ああ、白魚のような指には重そうな、銀の地色の一本の舞扇が、燭台の灯りに照らされて、サッと輝いた。
きらりと光る扇を、美しい簪をかざすように、前髪から額にかけて捧げた仕舞の型を作る。そのまま堅い折り目をきりきりと、静かに輝かせながら開いていくと、扇に表れた絵柄の月が、満ち潮の波の光を誘うかのよう。顔を隠して開いた扇の両端からは、反らせた指先だけがちらりと白く見えている。
河口のほとりのこの宿から、潮の満ち引きを臨むかのように、また隣の広間の人々のざわめきが、そのときサッと静まった。
見れば、白く光った銀の地には、黄金の雲が散らされ、紺青の月がただ一つ描かれている。その扇の陰から澄んだ声で、
「――その時あま人申様、もしこのたまを取得たらば、この御子を世継の御位になしたまえと申しかば、子細あらじと領承したもう、さて我子ゆえに捨ん命、露ほども惜からじと、千尋のなわを腰につけ、もしこの玉をとり得たらば、このなわを動かすべし、その時人々ちからをそえ――」
と、謡曲「海士」で語られる、もし海底の宝玉を取ってきたら、お前の子を世継ぎにしようと言われて、腰に結んだ命綱で引き上げてくれと、自分の命と引き換えにするつもりで海に潜ろうとする海女のくだりを謡ったが、そこから調子を強めて、
「……ひきあげたまえと約束し、一の利剣を抜持って」
と、まさに海女が、海に飛びこもうとするところまで続けると、利剣に見立てた扇をきりりと構えて、袖の乱れを整える所作が、熟練の技をしのばせる。襟もとに巧まぬ品位が備わって、目線を定めたその顔つきも、若い娘とは思えない。硝子戸越しに月の光が差しこむと、霜夜の川波がその姿に光を添えているかのよう。そしていま、お三重が片膝を立てた畳にも、花びらのような燭台の光がサッと流れる。
「ああ、お待ちなさい」
と捻平が、力のこもった声をかけた。




