(破の破のあとがき)
物語は破の破ということで急転、謎めいた存在であった門附の過去が明かされはじめて、湊屋に宿泊する弥次郎兵衛との関係も察しがついてくる。門附は弥次郎兵衛の甥(妹の息子)で、芸を継ぐための養子、いわゆる芸養子になっていたらしい。
伝統芸能の世界はおおよそ世襲制で、それが現実社会の悪しき門閥の雛形になっているような批判をされることがあるのだけれど、実際のところは正反対で、極端な実力主義の世界である。見込みがなければ自分の子どもでもさっさと切りすてて、近親者から、あるいは才能を見込んだ者をスカウトして芸養子にする。なぜ、わざわざ親子関係を結ぶのかといえば理由は単純で、二十四時間体制で寝食を共にしなければ伝えきれないほど、教える情報量が多いからだ。親の仕事と接した時間が長いという意味で御曹司が有利なことは確かなのだが、物語の門附のように弟子入りをして養子関係を結ぶ例も多いわけで、ただし入門後の鍛錬は、より苛烈なのだろう。
『歌行燈』はそんな芸能の一つである能楽の芸の伝承をドラマに仕立てた小説なのだから、能のことをスルーするわけにはいかないのだけれど、困ったことに私は能楽についてはほとんど知らない。能楽堂を二、三回、覗いたことがある程度で、テレビで観ることがあっても、大抵は寝てしまう。
こんな難しくて退屈そうで、能楽堂という特別な空間に閉じこめられてしまったかのような芸能が世俗の関心を集めているらしき小説『歌行燈』の世界は、今ではまるで作り事のように思えてしまうのだけれど、そのへんの感覚が高度経済成長期を境に逆転してしまったのではないか。どうやら昭和前半までは各地方に能楽の名人がたくさんいて、庶民の普通のお習い事の一つでもあって、結婚式ともなると高砂や、を呻れるおじさんが一人や二人はいた……のだろうな、という感覚が、なんとなく残っている。というのも、私の母も若いころから能の謡を習っていて、自分が子どものころは母が小さな公民館で地謡を務めるおさらい会を見に行ったり、あとで自分も小謡を教えてもらったりしていたからで……いや、べつに、いい家に育ったという自慢ではなくて、町のピアノ教室に通って、家庭に入ってからもしばらくレッスンを続けました、と同程度の話なのだ。
そもそも能楽というのは、大衆に開かれた芸能で、音楽の音痴でも運動の音痴でも、やれば誰でもそれなりの形になる。自分の出しやすいキーで呻って、ゆっくり身体を動かしていればいい。だから信長でも秀吉でも、習えばすぐに謡ったり舞ったりできてしまった。しかしそれを極めるとなると、一生かけても極められないほど奥が深い。そんな設計の巧みさが、ほかの芸能にはない特徴になっている。
間口が広くて、その道を究めようとする者が、日々の鍛錬によって前に進むという精進のスタイルは、他の芸術よりも、むしろスポーツに近い。一方で西洋のクラシック音楽などは、遺伝子レベルの天才を中心に発展するように設計されているので、努力と才能の進歩は必ずしも比例しない。
各地の大名たちが、戦がヒマになればすぐに能に夢中になったのも、とっつきやすさに加えて、競争意識を刺戟するスポーツ的な一面があったからではないか。それに加えてみんなが能をやっていると、とても便利なことが起こる。関西、関東、九州、北陸、東北と、会話をしても互いの方言が理解できない武士同士が、能楽の歌詞のことばで手紙を書くと、間違いなく意思疎通ができる。やがてそれが、書面のルールになる。そうなると能は権力体制維持のために手放せない必需品となり、能楽師は各地で重用された。
必然的に能の没落は、武士階級の没落と軌を一にする。明治維新を境に、娯楽性も実用性も兼ね備えた芸能から保存を目的とした伝統芸能への転換が、大戦後の高度経済成長期までの長い時間をかけて、ゆっくりと進行して、それが完了して久しい時代が現在なのだ、ということになる。
ゆっくりとはいっても、初動の変化は激烈だったようで、『歌行燈』の十三章では、そのころの能楽師の苦境が、こんなふうに回想されている。
▶維新以来の世がわりに、……一時私等の稼業がすたれて、夥間が食うに困ったと思え。弓矢取っては一万石、大名株の芸人が、イヤ楊枝を削る、かるめら焼を露店で売る。……蕎麦屋の出前持になるのもあり、現在私がその小父者などは、田舎の役場に小使いをして、濁り酒のかすに酔って、田圃の畝に寝たもんです。……◀
そんな話を聞くと、一章で捻平と呼ばれることを嫌がった連れの老人に対して、弥次郎兵衛が、
▶それ、そこがそれ捻平さね。松並木で出来たと云って、何もごまのはいには限るまい。もっとも若い内は遣ったかも知れんてな。ははは◀
と切り返した、若いころは何をやってたのかわからないという軽口さえ、深刻な影をおびたことばに一変する。
夢野久作(1889(明治22) - 1936(昭和11))は小学校四年生のころに親族から「武士の子たる者が乱舞を習わぬというのは一生の恥じゃ」と威されるように言われて、福岡の能楽師、梅津只圓に弟子入りしたのだが、上と同じ時期のことを能楽評論家で漱石の弟子の一人でもあり、鏡花とも交流があった坂元雪鳥の文章を引きながら、次のように書いている(……は中略)。
▶明治十四年から同二十五年の間といえば、維新後滔天の勢を以て日本に流れ込んで来た西洋文化の洪水が急転直下の急潮を渦巻かせている時代であった。人間の魂までも舶来でなければ通用しなくなっていた時代であった。
……維新直後から能楽各流の家元は衰微の極に達し、こんなものは将来廃絶されるにきまっているというので、古物商は一寸四方何両という装束を焼いて灰にして、その灰の中から水銀法によって金分を採る。能面は刀の鍔と一緒に捨値で西洋人に買われて、西洋の応接室の壁の装飾に塗込まれるという言語道断さで、能楽はこの時に一度滅亡したと云っても過言でなかった。
……能評家の第一人者坂元雪鳥氏の記録するところを見ても思い半に過ぐるものがある。
……すべての禄に離れて、自活を余儀なくされた能役者の困惑は言語に絶するものであった。
……何とも転向の出来ない者は手内職をするとか、小商売を開くというのであったが、内職といっても団扇を貼るとか楊枝を削るとかいう程度で、それで一家を支えるなどは思いも寄らない事であった。商売といっても家財を店先に並べて古道具屋を出す位で、それも一般家庭に役立つ物は少く、已むを得ず二束三文に売り飛ばすと、あとは商品を仕入れる余裕がないから、屑屋同様になって店を仕舞うという有様であった。明治時代の大家と呼ばれた人の中に夜廻りをやって見たり、植木屋の手伝いをして見たりした人もある。芝居役者と共同の興行をやって見て、遂にその方へ這入った人もある。◀(『梅津只圓翁伝』)
上の記述から、鏡花が書いた「一時私等の稼業がすたれて」というのは、「明治十四年から同二十五年」あたりだと特定できるし、『歌行燈』は明治四十三年の作品だから、物語はそれに近い時期……門附の年齢を考えると、少なくともそれより十年以内ほどの以前で、兵士の壮行会が開かれているのだから日露戦争(明治三十七、八年)の頃だろうか。ちょうど維新後の衰退の初動を被った能楽が、さらにその反動で人気を取り戻した時期だったのだろう。武士階級の嗜みという性質の強かった能楽が、大衆にもお習い事やお国自慢の種として深く浸透するのは、むしろそんな時期であったからこそ、なのかもしれない。
『歌行燈』が書かれた翌年の作品『青鷺』では、
▶御維新前は、此爺、鷺流の狂言師だったさうで、一時火の消えたやうに成つたのが、頃日大層な勢で流行出したから……◀(明治44『青鷺』)
とあるから、能楽復興の気運は執筆当時もますます盛んだったようだ。
ネット上で閲覧できる木村洋子という研究者の「泉鏡花「歌行燈」論」という論文を読むと、喜多八という名前が能の喜多流を暗示するなど、能楽四流の対立関係を意識したプロットが作品の背後に隠されていたのではないかという話があって、鏡花のたくらみの、想像以上の深さが感じられる。
そこまで読み込むのは研究の範疇だとしても、一読者としては、冗談の種としか思えなかった弥次さん喜多さんの見立ての趣向が喜多八という名前までからめて、滑稽本の世界から能楽の世界へと転換する手並みの鮮やかさに、あるいは、
▶内宮様へ参る途中、古市の藤谷の前で、先度はいかいお世話になり申したといふ気で、略儀ながら、車の上から、お辞儀をして参りましたよ◀(後藤宙外『明治文壇囘顧錄』)
という、鏡花が実際にやらかした膝栗毛の見立てが作中の弥次郎兵衛の笑い話に流用され、さらにはその滑稽な行為が藤屋旅館で門附が起こした過去の深刻な事件を示唆することになる、まるで現実と創作の合わせ鏡のようなトリッキーな仕掛けに、あっけにとられるしかない。
後記
能楽の歌詞のことば=武士の共通語、ということについては、古典芸能評論家の小山觀翁さんが、テレビ出演時か、劇場のイヤホンガイドだったかでよく語っていたような内容ですが、読み返してみるとずいぶん乱暴に書き飛ばしてしまったようです。もちろん、実際そのような決まりがあったわけではありません。が、少なくとも、謡曲のことばは全国同じであり、文語(候文)の手本になる、という共通認識はあったようだし、能楽師を抱えることで中央(江戸)との、ことばや文化のネットワークを保っていた事情も想像できます。ただし能のことばを、話し言葉まで含めた武士階級の共通語と考えるのは、俗説というか、小話のネタになってしまいます。
参考:
武家共通語と謡曲 https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4755965/003_p063.pdf




