表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/15

序    一、二

【原文】(青空文庫)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3587_19541.html


【登場人物】(〇は主要人物)

〇『膝栗毛(ひざくりげ)』の弥次郎兵衛(やじろべえ)を気どる六十二、三の小父(おじ)さん。実は……

捻平(ねじべえ)と呼ばれる老人。実は……

〇博多節の門附(かどづけ) 二十八、九の若者。実は……

 饂飩(うどん)屋の夫婦

 お千  旅館、湊屋(みなとや)の年増の女中

 喜野(きの)  若い女中(小女(こおんな)

惣市(そういち)  伊勢(いせ)古市(ふるいち)按摩(あんま)宗山(そうざん)を名乗る(うたい)の名手

〇お三重  三味線も踊もできない芸妓(げいこ)。実は……


【目次】

序    一、二

破の序  三、四、五/六、七、八

破の破  九、十、十一/十二、十三、十四

破の急  十五、十六、十七/十八、十九、二十

急    二十一、二十二/二十三


宮重(みやしげ)大根のように壮麗(ふとし)く打ち立てた社殿の柱は、ふろふき大根のあつあつの熱田の神がお見守りくださいます伊勢湾の七里の渡しの波も(おだ)やかに、行き来する渡し船も無事に桑名(くわな)に到着した(よろこ)びのあまり……」

 と、膝栗毛(ひざくりげ)五編上の冒頭を、歌いあげるように口ずさみはじめた独り言の響く、霜月(じゅういちがつ)十日過ぎ、夜の八時。

 星が水を浴びて身を清めたような、澄みわたった空の月明かりの(もと)、踏切の渡り板を渡る影を長く()いて、ちらちらと眼下にまたたく街灯りと、すっかり裸木になった遠近(あちこち)()()ちを眺めながら、桑名の停車場(ステーション)へ下りた二人連れの旅客がいる。

 ()せた身体にはやや大きめの、月の光には似つかわしい真っ黒な外套(がいとう)をゆったりと羽織(はお)って、焦げ茶色の中折れ帽が真新しいのはいいにしても、帽子の山が突っ張って、(つば)がすっぽり耳へかぶさるほど、いかにも不慣れな具合に深々とかぶり、それどころか、風に飛ばされぬための留め紐がほどけて、しなびた頬へぶらりと下がっている。そんな様子からして、旅の頭には笠を乗せたいところを、明治の世ならばと(あきら)めたふうに見えるのは、年配六十二、三の、気ばかり若い、膝栗毛でいえば弥次郎兵衛(やじろべえ)といったところ。

 荷物もさほど重くはないようで、唐草(からくさ)模様のビロード張りの(かばん)に手提げ袋を結びつけたのを片手に提げている。もう一方の手に握った蝙蝠傘(こうもりがさ)()きながら、

「さて……(よろこ)びのあまり名物の焼きはまぐりを(さかな)に酒を酌み交わして……と膝栗毛に書いてあるのがこの場所さ。旅籠屋(はたごや)へ着く前に、停車場前の茶店かなにかで、お銚子(ちょうし)を一本傾けて参ろうかな。

『どうだ、喜多八(きだはち)』と声をかけたいところだが、あなたは年上で、若い喜多さんに見立てるわけにもいかぬ。だがね、膝栗毛でも弥次郎兵衛さんは連れの喜多八とはぐれて、とぼとぼと一人旅をしながら、藤屋という宿屋を思い出せずに、なんだか(たな)からぶら下がったような名前の宿屋はございませんかと尋ね回りながら泣きそうになった、なんて目に()っています。となるとあなたは喜多さんではなくて、道中の松並木で出会った道連れといったところだ。その道連れと、ここで一杯飲もうじゃないか。ねえ、捻平(ねじべい)さん」

「またそんなことを言う」

 と、苦々しげな顔を渋くした。連れの老人は、さらに四つ、五つ年上で、やがて七十になろうといったところか。ラッコ皮の(つば)なし古帽子を、白い(まゆ)の端まで深々とかぶり、鼠色の羅紗(らしゃ)の外出着を着て、太い股引に白足袋、雪駄(せった)()いたいでたち。色褪せた淡い黄色の風呂敷の真ん中を紐で結わえた包みを、斜めに背中に背負(しょ)って胸で結んで、連れと同じく手提げ袋を一つ、こちらは手に提げている。片手に杖を()いてはいるが、足腰はしっかりとした、人柄の良いお爺さまである。

「その捻平(ねじべい)という呼び方はよしなさい。人聞きが悪くてならん。道連れはいいけれど、道中の松並木で出会ったというと、なんとなく、あれだ、私が旅人を狙う盗人(ぬすっと)ででもあるかのように聞こえるじゃないか」

 とこぼしながら杖を一つトンと()くと、さっさと連れを追い越して、改札口を出ていった。

 弥次郎兵衛は、わざとらしくたじろいだ仕草をしてみせると、放蕩息子を叱りつけるために道を急ぐ隠居のように見える、せかせかと先を急ぐ連れの後ろ姿をじろりと見ながら、

「それ、そういうところが捻平(ねじべい)だというんだ。松並木で出会ったからといって、盗人(ぬすっと)だとは限らない。もっとも若いころは、いろいろとやっていたのかもしれんがな。ははは」

 人目を忘れて笑っていると、手に持った切符をひったくるように取られて、ハッと駅員の顔を見ると、きょとんと真顔になってしまう。

 駅員が()かしたのも道理、改札口を通るのはこの小父(おじ)さんが最後で、なにをふらふらと道草したのか、もう遠くのほうに見える汽車は、名物焼きはまぐりかと思える白い煙を、夢のように月下に吐き出しながら、真蒼(まっさお)な野道を走り去っていく。……

「やがてここを立ち()でて進みながら、旅人の唄うのを聞けば……」

 と、この小父さん、改札を出たところで、けろりとしてまた膝栗毛の続きを口ずさんで、

捻平(ねじべい)さん、この唄の文句がいいんだ。これさ……

   はまぐり時雨煮(しぐれに)みやげにしなせ

      (みや)のおかめが、……ヤレコリャ、よオしよし」

「旦那、お乗りになりませんか」

 と停車場(ステーション)前の夜の片隅に、四、五台の人力車が並んでいるのがぼんやりと見えるなかから、車夫が一人、腕組みをしてのっそりと現れた。

 これを聞いた弥次郎兵衛は、口もとをねじらせて片頬で笑いながら、

「ありがてえ、なんと膝栗毛とぴったり同じ流れで声がかかったぜ。が、そこは本文と同じセリフで『だんな方、(もど)(うま)に乗らんせんか』となぜ言わない」

「へい」

 と、そう言われた車夫は、きょとんとした顔つきで、そこに突っ立っている。




 小父さんは外套(がいとう)(そで)をふらふらさせて、酔ったような風体(ふうてい)で、

「言ってみろよ、さあ、『(もど)(うま)に乗らんせんか』と。お願いだから、芝居のセリフのつもりで言ってくれ」

「はあ、『戻り馬に乗らんせんか』と言うんでございますね。戻り馬に乗らんせんか」

 と、早口でくり返した車夫は、あくまでもきまじめである。

「はははは。法性寺入道前(ほうしょうじのにゅうどうさきの)関白(かんぱく)太政大臣(だじょうだいじん)と言ったら大きにお腹をお立ちなされた法性寺入道前関白太政大臣様といったところだな」

 などと、古い早口ことばでふざけながら、またアハハと笑い出す。

「さあ、お乗りになってください」

 と、もう乗るものと決めてしまった車夫はそんな軽口を相手にせず、梶棒(かじぼう)を握って車をこちらに向けた。

 小父さんは、わざと芝居がかった身構えでにらみつけて、

「ヤレコリャ車なんぞ、よオしよし」

「いや、よしではない」

 と、それまでは一人手持ち無沙汰に、添え竹に支えられた霜枯れの菊のような(たたず)まいで夜空の月を見ながら、旅情に感じ入っていた連れの老人は、

「早く車を雇いなされ。手荷物もあるというのに、勝手のわからない町のなかを何を頼りにぶらつこうというのだ」

 と、なかば文句をつけるようにつぶやいた。

「いや、とりあえず、まず『よオしよし』と言っておかないと、膝栗毛(ひざくりげ)の本文に合わないんだよ。そこへ喜多八が口をはさんで『六十四文で乗るべいか』、すると馬方が『そんなら、ようせよせ』と言うんだ。馬がヒイン、ヒインといななく」

「若い人、その人に構わんでいい。車を早く。川口の湊屋(みなとや)という旅館へ行くのじゃ」

「ええ、二台でござりますね」

「何でも構わん。(わし)は急ぐんじゃから……」

 と、人力車の肘掛けを後ろ手でつかみ、雪駄(せった)を爪先立てながら足台に置いた鞄をまたいで乗りこむと、首に掛けた風呂敷包みを外しもしないでぶら下げている。

「死なばもろとも、どこまでも付いていくぞ、待ちな、捻平(ねじべえ)

 などと、また芝居がかったセリフを吐くと、小父さんはくすくす笑いながらも、しっかりともう一台の車中に腰を下ろす。……

「同じく湊屋までだよ」

「おいよ」

 そうして二台は、月夜に提灯の黄色い灯りを揺らしながら、駅前広場の端へと駈けこんで……石ころだらけの道をがたがたと、板塀(いたべい)の続く小路、土塀のある四つ角を通り抜け、寂しい場所を何度も曲がっていくのは、近道を()って行くからだと思われる。やがて花柳街(かりゅうがい)にさしかかったと見えて二階屋が建ち並ぶようになり、道幅も糸のように細くなる。月の光が(ひさし)(おお)われ、暗くなった両側の軒端(のきば)に、掛け行燈(あんどん)の白い灯りがぽつりぽつりと点って、冬枯れの柳の枝の間には星明かりがしきりにちらついて見える。蒼い壁をいくつか通りすぎて、長い通りの突き当たりに、遠山(とおやま)の重なる(すそ)にたなびく霧を破り抜くように火の見(やぐら)梯子(はしご)がそびえるのを見れば、半鐘の黒い影は妖怪めいて見えはしないか。火の用心なさいませと、金棒(かなぼう)を引き鳴らしながらふれあるく声ばかり聞こえるのも、いかにも夜更けの田舎町の風物である。霜枯れの時節ながら、月が妓楼(ぎろう)の格子先を覗きこむ風情のもとでも、桑名(くわな)の遊女たちは寝静まっているかのようだ。そんな寂しい(くるわ)の並ぶ通りにさしかかった。

 車輪の下を流れる道は、細い水銀の川の流れのようで、家々の黒い柱が通りすぎるのを見ていると、あたかも(かわうそ)が獲物の魚を川原に並べたかのようでもあり、白張(しらは)りの地口行燈(じぐちあんどん)を掛け連ねた鉄橋を渡っているかのようでもある。

 先を走っていた老人の乗った車が、不意に止まった。

 そのとき聞こえたのは……一条(ひとすじ)だけに廓が並ぶひっそりとした通りに、あちこちの棟瓦(むねがわら)に反響してころがるような、思わず車を止めさせてしまうほどの美声である。遠い玄界灘(げんかいなだ)の波音のようなその唄は、千里の川をさかのぼり、水脈を辿(たど)ってこの地の揖斐川(いびがわ)に、筑前の沖の月光を白銀(しらがね)の糸でたぐり寄せたかのような、星にきらめく声を響かせる。

    博多帯しめ、筑前(ちくぜん)(しぼ)

     田舎の人とは思われぬ、

    歩く姿が、柳町(やなぎまち)

 と、博多節(はかたぶし)を唄い歩いている。……白地の手拭いで頬被りをして、すらりとした()せぎすの男の姿が、つい目の前の軒陰(のきかげ)に……。その軒の、(べに)でうどんと書いた看板の前で横顔をうつむかせた姿が影法師になって(たたず)んでいた。

 捻平(ねじべえ)はふと車の上から、背中に背負った風呂敷包みごとふり向いて、後ろを走る弥次郎兵衛に何か声をかけた。……それに合わせて弥次郎兵衛の車も、ちょうど二台の車が、その町中の唄声をはさむような位置で、がくんと止まった。しかし話の意味が伝わらないうちに、そのまま捻平の車が動き出してしまい……後の車も続いて駈けだした。そのうちに二台は横並びになるほどに近づいて何やら会話が交わされたようだが、すぐに元の通り、後先(あとさき)になる。流れるような月夜の車。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ