序 一、二
【原文】(青空文庫)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3587_19541.html
【登場人物】(〇は主要人物)
〇『膝栗毛』の弥次郎兵衛を気どる六十二、三の小父さん。実は……
〇捻平と呼ばれる老人。実は……
〇博多節の門附 二十八、九の若者。実は……
饂飩屋の夫婦
お千 旅館、湊屋の年増の女中
喜野 若い女中(小女)
〇惣市 伊勢古市の按摩。宗山を名乗る謡の名手
〇お三重 三味線も踊もできない芸妓。実は……
【目次】
序 一、二
破の序 三、四、五/六、七、八
破の破 九、十、十一/十二、十三、十四
破の急 十五、十六、十七/十八、十九、二十
急 二十一、二十二/二十三
一
「宮重大根のように壮麗く打ち立てた社殿の柱は、ふろふき大根のあつあつの熱田の神がお見守りくださいます伊勢湾の七里の渡しの波も穏やかに、行き来する渡し船も無事に桑名に到着した悦びのあまり……」
と、膝栗毛五編上の冒頭を、歌いあげるように口ずさみはじめた独り言の響く、霜月十日過ぎ、夜の八時。
星が水を浴びて身を清めたような、澄みわたった空の月明かりの下、踏切の渡り板を渡る影を長く曳いて、ちらちらと眼下にまたたく街灯りと、すっかり裸木になった遠近の樹立ちを眺めながら、桑名の停車場へ下りた二人連れの旅客がいる。
痩せた身体にはやや大きめの、月の光には似つかわしい真っ黒な外套をゆったりと羽織って、焦げ茶色の中折れ帽が真新しいのはいいにしても、帽子の山が突っ張って、鍔がすっぽり耳へかぶさるほど、いかにも不慣れな具合に深々とかぶり、それどころか、風に飛ばされぬための留め紐がほどけて、しなびた頬へぶらりと下がっている。そんな様子からして、旅の頭には笠を乗せたいところを、明治の世ならばと諦めたふうに見えるのは、年配六十二、三の、気ばかり若い、膝栗毛でいえば弥次郎兵衛といったところ。
荷物もさほど重くはないようで、唐草模様のビロード張りの鞄に手提げ袋を結びつけたのを片手に提げている。もう一方の手に握った蝙蝠傘を支きながら、
「さて……悦びのあまり名物の焼きはまぐりを肴に酒を酌み交わして……と膝栗毛に書いてあるのがこの場所さ。旅籠屋へ着く前に、停車場前の茶店かなにかで、お銚子を一本傾けて参ろうかな。
『どうだ、喜多八』と声をかけたいところだが、あなたは年上で、若い喜多さんに見立てるわけにもいかぬ。だがね、膝栗毛でも弥次郎兵衛さんは連れの喜多八とはぐれて、とぼとぼと一人旅をしながら、藤屋という宿屋を思い出せずに、なんだか棚からぶら下がったような名前の宿屋はございませんかと尋ね回りながら泣きそうになった、なんて目に遭っています。となるとあなたは喜多さんではなくて、道中の松並木で出会った道連れといったところだ。その道連れと、ここで一杯飲もうじゃないか。ねえ、捻平さん」
「またそんなことを言う」
と、苦々しげな顔を渋くした。連れの老人は、さらに四つ、五つ年上で、やがて七十になろうといったところか。ラッコ皮の鍔なし古帽子を、白い眉の端まで深々とかぶり、鼠色の羅紗の外出着を着て、太い股引に白足袋、雪駄を履いたいでたち。色褪せた淡い黄色の風呂敷の真ん中を紐で結わえた包みを、斜めに背中に背負って胸で結んで、連れと同じく手提げ袋を一つ、こちらは手に提げている。片手に杖を支いてはいるが、足腰はしっかりとした、人柄の良いお爺さまである。
「その捻平という呼び方はよしなさい。人聞きが悪くてならん。道連れはいいけれど、道中の松並木で出会ったというと、なんとなく、あれだ、私が旅人を狙う盗人ででもあるかのように聞こえるじゃないか」
とこぼしながら杖を一つトンと支くと、さっさと連れを追い越して、改札口を出ていった。
弥次郎兵衛は、わざとらしくたじろいだ仕草をしてみせると、放蕩息子を叱りつけるために道を急ぐ隠居のように見える、せかせかと先を急ぐ連れの後ろ姿をじろりと見ながら、
「それ、そういうところが捻平だというんだ。松並木で出会ったからといって、盗人だとは限らない。もっとも若いころは、いろいろとやっていたのかもしれんがな。ははは」
人目を忘れて笑っていると、手に持った切符をひったくるように取られて、ハッと駅員の顔を見ると、きょとんと真顔になってしまう。
駅員が急かしたのも道理、改札口を通るのはこの小父さんが最後で、なにをふらふらと道草したのか、もう遠くのほうに見える汽車は、名物焼きはまぐりかと思える白い煙を、夢のように月下に吐き出しながら、真蒼な野道を走り去っていく。……
「やがてここを立ち出でて進みながら、旅人の唄うのを聞けば……」
と、この小父さん、改札を出たところで、けろりとしてまた膝栗毛の続きを口ずさんで、
「捻平さん、この唄の文句がいいんだ。これさ……
はまぐり時雨煮みやげにしなせ
宮のおかめが、……ヤレコリャ、よオしよし」
「旦那、お乗りになりませんか」
と停車場前の夜の片隅に、四、五台の人力車が並んでいるのがぼんやりと見えるなかから、車夫が一人、腕組みをしてのっそりと現れた。
これを聞いた弥次郎兵衛は、口もとをねじらせて片頬で笑いながら、
「ありがてえ、なんと膝栗毛とぴったり同じ流れで声がかかったぜ。が、そこは本文と同じセリフで『だんな方、戻り馬に乗らんせんか』となぜ言わない」
「へい」
と、そう言われた車夫は、きょとんとした顔つきで、そこに突っ立っている。
二
小父さんは外套の袖をふらふらさせて、酔ったような風体で、
「言ってみろよ、さあ、『戻り馬に乗らんせんか』と。お願いだから、芝居のセリフのつもりで言ってくれ」
「はあ、『戻り馬に乗らんせんか』と言うんでございますね。戻り馬に乗らんせんか」
と、早口でくり返した車夫は、あくまでもきまじめである。
「はははは。法性寺入道前関白太政大臣と言ったら大きにお腹をお立ちなされた法性寺入道前関白太政大臣様といったところだな」
などと、古い早口ことばでふざけながら、またアハハと笑い出す。
「さあ、お乗りになってください」
と、もう乗るものと決めてしまった車夫はそんな軽口を相手にせず、梶棒を握って車をこちらに向けた。
小父さんは、わざと芝居がかった身構えでにらみつけて、
「ヤレコリャ車なんぞ、よオしよし」
「いや、よしではない」
と、それまでは一人手持ち無沙汰に、添え竹に支えられた霜枯れの菊のような佇まいで夜空の月を見ながら、旅情に感じ入っていた連れの老人は、
「早く車を雇いなされ。手荷物もあるというのに、勝手のわからない町のなかを何を頼りにぶらつこうというのだ」
と、なかば文句をつけるようにつぶやいた。
「いや、とりあえず、まず『よオしよし』と言っておかないと、膝栗毛の本文に合わないんだよ。そこへ喜多八が口をはさんで『六十四文で乗るべいか』、すると馬方が『そんなら、ようせよせ』と言うんだ。馬がヒイン、ヒインといななく」
「若い人、その人に構わんでいい。車を早く。川口の湊屋という旅館へ行くのじゃ」
「ええ、二台でござりますね」
「何でも構わん。私は急ぐんじゃから……」
と、人力車の肘掛けを後ろ手でつかみ、雪駄を爪先立てながら足台に置いた鞄をまたいで乗りこむと、首に掛けた風呂敷包みを外しもしないでぶら下げている。
「死なばもろとも、どこまでも付いていくぞ、待ちな、捻平」
などと、また芝居がかったセリフを吐くと、小父さんはくすくす笑いながらも、しっかりともう一台の車中に腰を下ろす。……
「同じく湊屋までだよ」
「おいよ」
そうして二台は、月夜に提灯の黄色い灯りを揺らしながら、駅前広場の端へと駈けこんで……石ころだらけの道をがたがたと、板塀の続く小路、土塀のある四つ角を通り抜け、寂しい場所を何度も曲がっていくのは、近道を縫って行くからだと思われる。やがて花柳街にさしかかったと見えて二階屋が建ち並ぶようになり、道幅も糸のように細くなる。月の光が廂で覆われ、暗くなった両側の軒端に、掛け行燈の白い灯りがぽつりぽつりと点って、冬枯れの柳の枝の間には星明かりがしきりにちらついて見える。蒼い壁をいくつか通りすぎて、長い通りの突き当たりに、遠山の重なる裾にたなびく霧を破り抜くように火の見櫓の梯子がそびえるのを見れば、半鐘の黒い影は妖怪めいて見えはしないか。火の用心なさいませと、金棒を引き鳴らしながらふれあるく声ばかり聞こえるのも、いかにも夜更けの田舎町の風物である。霜枯れの時節ながら、月が妓楼の格子先を覗きこむ風情のもとでも、桑名の遊女たちは寝静まっているかのようだ。そんな寂しい廓の並ぶ通りにさしかかった。
車輪の下を流れる道は、細い水銀の川の流れのようで、家々の黒い柱が通りすぎるのを見ていると、あたかも獺が獲物の魚を川原に並べたかのようでもあり、白張りの地口行燈を掛け連ねた鉄橋を渡っているかのようでもある。
先を走っていた老人の乗った車が、不意に止まった。
そのとき聞こえたのは……一条だけに廓が並ぶひっそりとした通りに、あちこちの棟瓦に反響してころがるような、思わず車を止めさせてしまうほどの美声である。遠い玄界灘の波音のようなその唄は、千里の川をさかのぼり、水脈を辿ってこの地の揖斐川に、筑前の沖の月光を白銀の糸でたぐり寄せたかのような、星にきらめく声を響かせる。
博多帯しめ、筑前絞り
田舎の人とは思われぬ、
歩く姿が、柳町
と、博多節を唄い歩いている。……白地の手拭いで頬被りをして、すらりとした痩せぎすの男の姿が、つい目の前の軒陰に……。その軒の、紅でうどんと書いた看板の前で横顔をうつむかせた姿が影法師になって佇んでいた。
捻平はふと車の上から、背中に背負った風呂敷包みごとふり向いて、後ろを走る弥次郎兵衛に何か声をかけた。……それに合わせて弥次郎兵衛の車も、ちょうど二台の車が、その町中の唄声をはさむような位置で、がくんと止まった。しかし話の意味が伝わらないうちに、そのまま捻平の車が動き出してしまい……後の車も続いて駈けだした。そのうちに二台は横並びになるほどに近づいて何やら会話が交わされたようだが、すぐに元の通り、後先になる。流れるような月夜の車。