義兄とは結婚できないので、せめて役に立ちたかったのですが「死んでくれ」と言われました。
この国ではたとえ血の繋がりがなく戸籍上だけの義理の兄妹であっても、一度でも同じ戸籍に入ったものは血の繋がりのある兄妹と同等に扱われ、結婚できない。
私は結婚の許されない関係の兄に恋をした。
不毛な恋だとわかっていた。そして愛する兄に言われた。
「メイ、死んでくれ……」
死んで欲しいほど私のことを疎ましく思っていたなんて知らなかった。
◇
私はヴィルケル伯爵家の一人娘メイベル。
「お前が男だったら……」
幼い頃から父によく言われていた。それを言われると母は「すみません」と頭を下げる。
だから私もなんとなく「ごめんなさい」と謝るようになった。
父は子どもは男の子が欲しかった。だが、我が家は私しか子どもが出来なかった。
我が国の法で、女の私では伯爵家を継ぐことが出来ないため、父は遠縁から男の子を養子にとった。
十歳の頃、五つ歳上の義理の兄が出来た。父方の再従兄妹にあたる関係らしい。
遠縁の準男爵家の次男だったジョシュア様は私の兄になった。この国の法に倣うとジョシュア様は義兄とは言わず兄と呼ばなければならない。
「君が私の妹になるメイベル? かわいいね。メイと呼んで良い?」
出会ったのは春だった。
金髪に若草色の瞳をした兄は美しい顔でにこりと微笑んだ。
箱入りで引っ込み思案、母に付いてお茶会に参加することすら極力避けていた私は男子という存在に不慣れだった。私は年上の美しい青年に一目で恋に落ちた。
準男爵家の出身でも十五歳のジョシュアお兄様は貴族令息として完璧だった。見目も頭も良く話術も巧みで、所作も完璧だった。
父も母も、ヴィルケル伯爵家の人間は皆、兄が伯爵家にやってきた、その日のうちに兄の虜になった。
もともと男の子の欲しかった父は完璧な義理の息子を大層可愛がった。まるで血の繋がりのある我が子のように。
反対に不出来な私は血の繋がりのある実の娘だというのに父の目には徐々に映らなくなっていく。
仕方がないことだと思った。だって私の目にもいつもジョシュアお兄様はキラキラとして見えたから。
「ジョシュアお兄様! 私お兄様のことが好きです。大好きです」
兄が来てから割とすぐに私は自分の気持ちを抑えきれずに兄に告白をした。
結婚したいとかそういう想いではなく、ただ私はこんなにもお兄様のことが好きなんだということを伝えたかっただけだった。
「ありがとう。私も好きだよ、メイ」
兄は私に優しく微笑む。幸せなやり取りだった。
そして兄が我が家に来てから三年が経ったとき。
「メイベル。お前に第一王子殿下の茶会への招待状が来ている」
私と同い年の第一王子の結婚相手を探すための茶会が開かれるという。
伯爵家以上の同年代の令嬢がいる家には平等に招待状が届いているらしい。
第一王子はいずれ立太子して王太子となる。ここで第一王子に見初められれば、未来の王太子妃となる。引っ込み思案な私には正直荷が重い。
「なんとしても王子殿下のお心を掴んでくるんだぞ」
そう父に言われ、嫌とは言えなかった。
自信なさげに「頑張ります」と応えると父は「まあ、お前には無理か」と早々に諦めた顔をしてため息を吐いた。
期待をされていない。そんなことは兄が来た時から分かりきっていたことだ。
父は兄には何度も「期待しているぞ」と声をかける。優秀な兄はもちろんその期待に応え、学園でも良い成績を収め、伯爵家の領地経営の手伝いだって父のするべき仕事をすでに半分ほど請け負っているらしい。
「お前も兄を見習え」
「お前が男だったら」と言われなくなったと思えば、そう言われるようになった。そして兄のように上手くできない私は相変わらず「ごめんなさい」と返事をする。
◇
十三歳の私は今日のために上質な可愛いドレスを用意してもらい、それに袖を通してドキドキしながら初めての王宮を歩いていた。
「メイ、君は失敗するといけないから、隅の方で大人しくしているんだよ」
「わかりました。お兄様」
本来であれば父が付き添うはずだった王太子殿下のお茶会には兄が付き添ってくれた。
どうやら兄が領地経営の執務をしていた際に後々問題に発展しそうな火種を見つけたらしく、すぐに領地へ戻って対応した方が良いと、父は慌てて領地へ帰った。
十八歳の兄は次期ヴィルケル伯爵としてすでに社交界へ何度も顔を出していたので、父は兄に王子殿下のお茶会への付き添いを任せた。
王宮の庭園。私は兄と顔を見合わせて一番隅の席に座る。
少しすると王妃殿下が挨拶をしてお茶会が始まった。まだ王子殿下が現れていないのに。
不思議なお茶会だな、と首を傾げた。
「あの! ヴィルケル伯爵家のジョシュア様でいらっしゃいますよね。お話良いでしょうか?」
隣に座っていた兄にお茶会に招待されていた令嬢が話しかけた。
「なんでしょう? 私は妹の付き添いなので御用でしたら手短に……」
兄はそう言ったが、一人令嬢が話しかけるとわらわらと人が集まり兄はあっという間に令嬢たちに囲まれた。
王子殿下が現れないので令嬢たちはお兄様を狙い始めたようだった。
――私のお兄様なのに……!
そう思ってすぐにハッとする。
違う……! 私のお兄様だから、私には関係のないことなんだ。だって私がお兄様のことをどう思っていても、どうすることもできない。
同じ戸籍内にいる私たちはどうあっても結婚することはできない。一度でも同じ戸籍に入ってしまった私はたとえどこかに養女に出されたとしても兄と結婚することは叶わない。
この国の法はそういうものだ。
少し前に家庭教師からそう教えられた。
兄の結婚に私の意思は関係ない。父と兄が決めることだ。
私は兄に好きだと伝えて、兄も私を好きだと言ってくれた。あのときは両想いだと嬉しく思ったが、兄の好きはそんなものではない。妹として好きなだけだ。
いや、あれから月日が経って不出来な私のことなど呆れてしまって、妹に対する愛すらないかもしれない。
私はズキズキとする胸の痛みを堪えて邪魔をしてはいけないとその場から離れることにした。
ふらふらと噴水のそばのベンチに腰掛け、ぼうっと水の噴き出る噴水を眺めていた。
「君はヴィルケル伯爵令息のところへはいかないの?」
侍従のような格好をした少年に話しかけられた。やたらと美しい顔をしている。小姓が被るような帽子を被っている。どこかの貴族の小姓で主人に付き添ってきた子だろうか。
小姓にしては貴族令嬢への声掛けが馴れ馴れしい。違和感を覚えながらも私は返事をした。
「私はジョシュアお兄様の妹だから……」
「なるほどね」
彼はすぐに納得して私の隣に腰掛けた。
「君は王太子妃になりたいの?」
「私に王太子妃が務まるとは……。でも……王太子妃になることでお兄様の手助けになるのなら……」
私は令嬢たちに囲まれた兄を眺める。
兄とはどうあっても結婚できない。であればせめて兄の役に立てる存在でありたい。
妹が王太子妃であれば兄は王家と強いパイプを持つことができる。それはいずれヴィルケル伯爵家の当主となる兄にとってメリットが大きいと思う。
「私は王太子妃になりたい。なんの取り柄のもない私だけど、頑張りたいわ」
私は強い意志を示すように彼の目をまっすぐに見つめた。
「ははっ、良い目だね!」
彼は笑って言ったが、その目は笑っていなかった。どこかぞくりとしたような綺麗な紫の視線で私を射抜く。
その瞬間、突風が吹いて彼の被っていた帽子が飛ばされた。
「あっ……!」
たった今頑張りたいと言ったばかりなのに、不出来な私は咄嗟にしてはいけないことをしてしまう。
気が付けば、帽子を追いかけ噴水の中に入り込んでしまっていた。追いかけた帽子は間に合わず濡れてしまっていたし、私のドレスもベタベタに濡れていた。
貴族令嬢の振る舞いではない。しかも彼が小姓なら彼自身が取りに行くのが普通だ。
私は衝動的に行動してしまう。こういうところがダメなんだ。
噴水のそばまで寄ってきた彼に私は濡れた帽子を渡す。
「ごめんね。濡れちゃった……」
「い、いや……ありがとう」
ほら、彼もまさか貴族令嬢の私が噴水に飛び込んで帽子を取りに行くなんて思っていなかったのだろう。すごく驚いた顔をしている。
私は羞恥から顔を赤くして彼のことを見て、今度は顔を青くした。
――鮮やかな銀髪……!
帽子で隠れていて気付かなかった。
「おうじ……でんか……!?」
「ははっ、嫌だなぁ。君にはステファンって呼んでもらいたいな」
ステファンとは第一王子のお名前だ。珍しい紫の瞳と思ったが、銀髪は王家の証。
目の前にいる小姓のような少年は決して小姓ではなかった。
「王子殿下。私の妹が大変失礼いたしました」
殿下の後ろからやってきて頭を下げて謝罪しているのはジョシュアお兄様。
兄の台詞で確定だ。彼は正真正銘、第一王子殿下だった。
完全に小姓だと思って会話をしていた。馴れ馴れしく話していたのは彼ではなく私の方だ。
私は両手で口元を押さえてカタカタと震えた。
私は大変な不敬をした。兄の役に立ちたいと思ったそばから足を引っ張るなんて。
どの口が王太子妃になりたいなんて言うのか。
「いや、騙していたみたいなものだから、僕の方こそごめんね」
そう言いながらステファン王子は私に手を差し伸ばす。噴水の中から出る手助けをしてくれようとしてくれているのだろう。
手を差し伸ばされればその手は取らなければならない。
だが、すぐにざぶんと私が立てたものではない水音がしてビクリとする。
「おにい……さま……っ!」
兄は足が濡れることも厭わず、噴水の中に入り込んで、私を横抱きに抱き上げて噴水から出る。
「殿下が濡れてしまってはいけませんので」
私のせいで兄まで濡れてしまった。
「すみません。このような状況ですので、申し訳ございませんが、本日はこれで失礼させていただきます。謝罪は改めてさせていただきます」
兄が私を抱き上げたまま頭を下げる。
「いや、こちらこそすまなかったね。ジョシュア殿からの謝罪はいらないから、またメイベル嬢と会う機会がほしいな」
「……父よりご連絡させていただきます」
兄は少し間を空けてからそう返事をした。ステファン王子は「わかったよ」と言って庭園から王宮へ繋がる廊下へ向かって歩いていった。
「お兄様……私、殿下に大変な不敬を……! どうしましょう……」
私は兄の腕の中でまだカタカタと震えていた。
「メイ、君は心配しなくて良い。私がなんとかするから」
兄はそう言って優しく微笑む。
兄の優しい顔に泣きそうになる。
「ごめんなさい……お兄様。私……殿下に向かって敬語も使わず、馴れ馴れしく会話をして、王太子妃になりたいなんて言ってしまいました」
「っ……!」
兄は目を見開いて息を呑む。
不出来な妹に呆れているのかも。私はもう一度兄に「ごめんなさい」と言った。
そして兄は私を抱きかかえたまま無言で伯爵家の馬車に乗り込んだ。
馬車に乗ると私の肩に兄は着ていたフロックコートを脱いでかけてくれた。
「冷えるだろう?」
「ありがとう……ございます……」
兄はこんな私にも優しい。
そして優しく問われる。
「メイは王太子妃になりたかったの?」
私は兄の問いかけにコクリと頷いた。
「でも……今日大失敗をしてしまったから、もうなれません……」
泣きそうな顔でそう言った。
「そうだね。メイは王太子妃にはなれないよ」
わかっていたが、兄の言葉は私の心を抉る。
優しい兄なら、今から頑張れば大丈夫だよ、と励ましの言葉をかけてくれるような気がしたから。
きっと変に希望を持たせる方が酷だと判断したのだろう。兄の言葉に私の王太子妃にはなりたいという気持ちはポッキリ折れた。それくらい現実的な言葉だった。
それから十日後のことだった。領地へ行っていた父も戻ってきて、私は父に呼び出された。父の執務室にはすでに兄がいた。
「メイベル、お前にまた第一王子殿下の茶会への招待状が届いている。しかも今度は先日のような大多数での茶会ではなく二人だけのようだ」
「えっ……」
私は父に渡され招待状を確認した。確かに二人と書かれている。
もしかしてまだ可能性があるのだろうか。
パァァと明るい顔で兄の顔を見てみると兄は難しい顔をしていた。
「父上、先日ご報告したとおり、メイは王子殿下に粗相をしました」
「ああ」
事実だ。その話題を出されて私は下を向く。
兄は先日のお茶会の様子を父にしっかりと報告していた。
そのことで父から叱られることはなかったので、兄は私が叱られないよう上手に話をしてくれたのだろう。
「ジョシュアから聞いてすぐに王家に謝罪文は出した。子どものことだし、王子も変装をしていたのだからとお咎めはなしだったはずだが?」
「それなんですが……そのとき私が殿下に謝罪をしたら、殿下は私からの謝罪はいらない、とおっしゃっていました。もしかしたら、直接メイに謝罪を求めるつもりかもしれません」
「っ……!」
私は目を見開いて顔を青くした。
「お、お父様……、申し訳ございません……!」
「父上、あの場は私が付いていながらあのようなことになってしまいました。全ては私の責任でございます!」
兄は私が父に叱られないように庇ってくれる。
「ジョシュア、それは何度も聞いた。だが、王子からの誘いを断るわけには……」
父は招待状を手に頭を悩ませた。
「父上、ここは王子殿下に反省の態度を見せるのが良いかと。メイベルは王子への粗相に気を病み、領地で療養しているとしてお断りしましょう。王子へは私が面会をお願いして再度謝罪しておきます」
兄の助言により私は領地へ引き篭もることになった。
◇
「メイ」
領地の屋敷の玄関の方から私の大好きな声がする。
「お兄様っ! お忙しいのにまた来てくださったのですか?」
「ああ、今日は王都で流行りの焼き菓子を買ってきたから一緒に食べよう」
あれから五年が経ち私は十八歳に、兄は二十三歳になった。
兄は腕を広げて私を抱擁しようとした。一瞬躊躇う私だが「メイ?」と綺麗な顔で首を傾げられ、私はその胸の中に飛び込んだ。
兄はギュッと私を抱きしめる。ふわっと兄の良い香りがして、私の胸がキュッと締め付けられる。
こんなに大好きなのに、兄はいずれ私以外の女性と結ばれる。そんなことを想像して私も兄にギュッと抱きついた。
もう十八歳。兄に抱く恋心は諦めなければならないとわかっている。いくら兄妹でも大人になってまでこんなふうに抱き合うことはよくない。
だけど私は、今だけだから……兄に結婚相手ができるまで……、そう神様に懺悔して兄に抱きつく。
「メイ? 領地で不自由はないかい?」
「平気ですわ。家庭教師の先生もとても優しくて、私マナーも教養もしっかり学べましたの。そろそろ王都でデビューしても、以前のようにお兄様の足を引っ張ることはありませんわ」
「そうかい。それは頼もしい」
兄の買ってきてくれた焼き菓子でお茶をする。
「でもね、メイ。人前が苦手な君が無理をすることはない」
領地での生活は心地よかった。私を見てため息を吐く父は一年のほとんどを王都で過ごす。出来ない私を叱り飛ばす家庭教師も王都にいて、兄がもっと優しい家庭教師を手配してくれた。
兄に毎日会えないことは不満だけど、兄は社交シーズン以外は長期で領地に滞在してくれる。社交シーズンでも領地の視察も兼ねて月に一回以上は泊まりで会いに来て一緒に領地を見て回ることができるから我慢できる。
何より、ここに居れば無理してお茶会に参加しなくても良いし、夜会にだって出なくても良い。
本来であれば十六歳で社交界デビューを済ませるところだが、父は人前で失態を晒すくらいならと療養を言い訳に私を領地から出すことはなかった。
引きこもり生活は快適で、引っ込み思案の私にはピッタリな生活だったけど、このままでは兄の役に立つ妹にはなれないとせめて勉強だけは頑張った。
王都で父が付けてくれていた家庭教師は厳しいばかりで常に怒られていたけど、領地に来てから兄の手配してくれた家庭教師は教え上手で優しくて、私はそれなりに出来る妹になれたと思う。
それでもやはり兄は私を王都へ連れて行こうとはしない。
兄は無理をしなくて良いと言うが、完璧な兄に私という不出来な妹が付いて回るのが恥ずかしいのだろう。
それなら病弱で深窓の令嬢として領地に引きこもっている方が兄の迷惑にならずに済むのだろう。
いつまでもこのままでいられるわけではないのはわかっていた。
「ついにジョシュア様に縁談ですって!」
「わっ、今度はどちらの令嬢かしら?」
メイドたちが噂をしているのが耳に入る。
つい先週兄に会ったばかりだが、兄は何も言っていなかった。私には関係のないことだから教えてもらえなかったのか。
兄は結婚できる年齢になると見た目の良さのせいか縁談が次々舞い込んだ。だが、兄はどの縁談も断って二十三歳になった今も独身で婚約者の一人もいない。
また今回も兄は断るのかな。
そんな軽い気持ちでメイドたちの会話に聞き耳を立てた。
「今度の縁談はジョシュア様から申し入れした縁談らしいわよ!?」
えっ…………?
――お兄様から縁談を……?
「てことは、その令嬢と結婚したかったからずっと縁談断っていたってことね!」
メイドたちはワクワクしながら会話をしていた。私は急いでその場から逃げ自室へ駆け込む。
寝台に飛び込み兄を想う。
今までは私だけのお兄様だった。だけどお兄様は他の人のものとなる。
胸が痛くて張り裂けそう。
「うっ……ふうっ……、ううっ……おにい、さま……」
涙が止まらない。
ずっと覚悟してたことだと自分に言い聞かせる。
次期伯爵の兄はいつまでも独身ではいられない。遠縁であろうと伯爵家の血を引く兄は伯爵家の血を繋いでいかなければならない。
そしてそのとき兄の隣に立つのは私ではない。
五年前のあのお茶会でそれを自覚してから、ずっといつか来るこの時を恐れていた。
私はこの日一晩中泣き明かし、涙の枯れた翌日は体が重く、鼻の奥がツンと痛かった。
もうこんなふうに泣きたくない。
兄が結婚するところなど見たくない。
私は王都にいる父へ手紙を書いた。
その後メイドの会話で兄の縁談の相手はトイフェル伯爵家のご令嬢で私と同じ十八歳のメアリー様だということがわかった。
彼女は私と違って本物の深窓の令嬢で社交界には出ておらずデビューのないまま兄と結婚することになるらしい。
どうやら縁談は順調に進み無事に婚約も結ばれたらしい。
そんな話をメイドの噂話で聞く。
その後も兄はいつも通り領地へやってくる。でも兄はいつ結婚するのか、お相手がどんな方なのか、何一つ話してはくれなかった。
兄の口からそれを聞くのは辛かったので私からも聞かなかった。
父から手紙の返事が来た。
私はそれを見てホッと息を吐く。これで兄の結婚式を見ずに済む。
兄は結婚の話をしないので、兄が来たときは私も自分の話は避ける。
そうして月日が流れて私が領地を離れる時が来た。
「お母様……お父様とお兄様は?」
さすがに最後の別れくらいはしたいと思い、兄には手紙を書いた。
「あの人は全ての手続きは済ませたから後は任せるって……。ジョシュアは王都でやらなければならない仕事があるから、見送りには来られないそうよ」
「そうですか……」
会えない方が別れの決心が鈍らずに済んで良いのかもしれない。
お父様が用意してくださった縁談で私は辺境の地へ嫁ぐ。
辺境へ嫁いでしまえば、遠方を理由に兄の結婚式への参列を断ることができる。そうすれば私は兄と兄の伴侶が幸せそうに微笑み合う姿を見ずに済む。
父の用意した縁談は辺境にある男爵家当主の後妻になるというものだった。男爵家当主の年齢は五十歳。私より十歳年上の息子がいるらしい。
社交界デビューをしていない私ができる結婚はそんなものだと思う。ただ、男爵家当主の後妻といっても財力のある男爵家らしいので、兄にとってはメリットのある結婚にはなったかな、と私は思う。
「お母様……今までありがとうございました」
「メイベル。私のせいでずっと肩身の狭い思いをさせてごめんなさいね」
母は女であることを理由に父から疎まれる私を見て度々辛そうな顔で見ていた。女に生まれたことは母のせいではない。
「幸せに……なってね……」
母はギュッと私を抱きしめてから、たくさんの荷物の積んである馬車へと私を送り出す。
馬車の窓を開けて領地を眺める。もうきっと帰ってくることはないのだろう。
ここで過ごした五年間は幸せなものだった。
涙で視界がぼやける。
「さようなら……おにいさま……」
◇
二時間くらい馬車に揺られて、涙もすっかり乾いた頃だった。
突然馬車がガタンと強く揺れて停車する。
御者から伝えられていた休憩の時間はまだ先のはずだ。不思議に思い御者に「どうしたの?」と声をかけるが返事がない。
先日嫁入り道具を載せた馬車が破落戸に襲われるという事件があったことを思い出す。
領地からは遠く離れた場所だったので他人事のように聞いていたが、もしかして……と私は震えた。
急いで馬車の鍵をかける。そして座席の下に隠してある短剣を取り出した。
馬車の扉がガタガタと音を立てる。
やめて。こわい。お兄様……!
私は馬車の中で祈りながら、扱ったことのない短剣を構えた。
馬車の扉の鍵はカチャンと簡単に開いてしまう。
そして扉を開けた人物を見て私は驚きに目を見開いた。
「おにい、さま……!!?」
馬車を止めたのは破落戸ではなく兄だった。
「メイ……どこへ行くの? だめだよ。勝手にどこかへ行こうとするなんて……」
「え……?」
「私の計画ではこうするのはもう少し後のつもりだったのだけど仕方ないよね」
計画……?
「なんの……話でしょうか……?」
兄が見たこともない狂気を孕んだ目で私を見る。
笑っているけど、目が笑っていない。
「メイ、死んでくれ……」
死んでくれ?
私、死んで欲しいと思われるほど疎ましく思われていたの……?
そんなふうに思ってすぐに兄に湿った手巾で鼻と口を塞がれて、鼻を強く刺激する薬品を吸い込んでしまい、私の意識は途切れた。
◇
「ここは……?」
気が付くと豪華な寝台の上で眠っていた。
どこだろうか。起きあがろうとして足を動かすとガシャンと金属音がした。
「えっ……?」
私の足首には足枷が付いていて長い鎖に繋がれていた。
どういうこと?
「あ、起きた?」
湯気の立つスープとパンを持った兄が現れる。
「お兄様……ここは……?」
「うちの領の外れにある別邸だよ」
こんな別邸初めて見た。屋敷の中全てが真新しい感じがする。
「私っ……キルステン男爵のところへ行かないと……!」
こんなところでゆっくりしている場合ではない。
「行く必要ないよ」
「えっ?」
「メイは馬車の事故で死んだんだよ」
兄の言う言葉の意味がわからない。
「わ、私……生きてます……」
これから死ぬのかな。私は顔を青くして震え出す。
「ああ、ごめん。怖がらせるつもりはないんだ。本当に死なせたりなんてしないから安心して……」
兄はそう言って私のことを優しく抱きしめる。兄の温もりを感じて落ち着いてくる。
「ねえ、メイ? 君は私のことが好きだって言ってたよね? それなのになんで他の男のもとへ行こうとするの?」
「え……? だって……」
私がどれだけお兄様のことが好きでもそれは不毛な恋だから。私たちが結婚して結ばれることは決してあり得ない。
だからせめて兄の役に立ちたかった。
「もう私のことは嫌いになった?」
「嫌いになんてっ!」
なるはずない。何があってもいつまでもお兄様のことが好き。この気持ちは変わらない。
「私のこと好き?」
好きです。出会った頃に軽々しく口にしてしまった言葉だけど、大人になった今はそんな簡単に口にできない。
「…………」
私はキュッと唇を噛み締めて下を向く。
「メイは素直じゃないね。素直になるようにしてあげよう」
兄はそう言うと、片手で私の顎を掬って顔を兄の方へ向かせ、すぐに顔を近づけてきた。
えっ……!?
私が驚いていると兄の形の良い唇が私の唇に重なる。
私は目を見開いて固まった。
兄はそっと目を閉じ、私に十数秒口づけてゆっくりと離れていく。
そしてうっとりとした表情を浮かべて「メイ、好きだよ」と口にする。
「メイは? 私のこと好き……?」
私の心臓は痛いほどにバクバクと鳴り響く。
「す、すきです……」
私は耐えられず想いを口にする。
私の顔は真っ赤になっていると思う。ずっと好きだった兄と口づけできるなんて。
どういう状況か全くわからない。でも嬉しい。
「ああ良かった。私の勘違いでここまでしちゃってたら取り返しがつかないからね」
そう言って兄はもう一度私に口づける。
こんなわけのわからない状況でも、ずっと好きだった兄と口づけしていることが嬉しくて私の胸は熱くなる。
「まぁ、勘違いだったとしても、することは変わらないんだけどね」とぼそりと呟く兄の顔はなんだか仄暗い感じがしたが、言っている意味がよくわからなかったのでスルーした。
「ごめんね。これからメイの葬儀で忙しくなるからすぐに領地に戻らないといけないんだ。ここにはメイドもいて不便はないようになっているけど、こっちの準備が整うまでは絶対に屋敷からでちゃダメだよ」
優しく兄に言われたはずだが、なぜか妙に逆らえない圧を感じる。
「あ、は、はい……」
私の葬儀? ちょっとよくわからないけど、とりあえず今日からはここで引きこもり生活をすれば良いらしい。
ふた月ほどこの別邸で生活をした。
「なんで足枷を……?」
私の足には足枷が付いているから行動できる範囲が限られている。
この部屋と隣接しているトイレとお風呂までは自由に動き回れるが、それ以上は出られない。
「ごめんね、メイ。君に不便をかけるつもりはないのだけど、今、君の存在を知られると面倒なことになるから、ここから出られないように念のためね」
食事は三食メイドが運んでくれるし、本棚には私の好きな小説などもたくさんあるからこの生活に不便はない。
驚いたのは領地での生活と変わらず家庭教師が来てくれてマナーと教養を教えてくれている。先生は私を見て驚いた顔をして涙ぐんでいたが、良かった、良かった、と言って、前より少し厳しくもうワンランク上のマナーや教養を教えてくれるようになった。
どうやら私は馬車の落下事故で亡くなったことになっているらしい。
伯爵家の紋章の付いた馬車は崖に引っかかり残っていたが、扉が大きく開いた状態で私は谷の底に落ちたことになっているらしい。
婚約を結んでおいて婚約者が死ぬなど縁起が悪く、キルステン男爵に謝罪しなければと焦ったが、兄がちゃんと良いようにしてくれていた。事情はあるものの婚約解消となった慰謝料は兄が手続きを済ませ、キルステン男爵へはお金に困って男爵と縁続きになりたがっていた貴族令嬢を紹介したらしい。
「彼女、枯れ専だから喜んでもらえたよ」と兄がよくわからないことを言っていたが、その令嬢とキルステン男爵が幸せになれるのであれば何よりだ。
父と母は私が死んだと聞いてどう思っただろうか。
辺境の地へ嫁ぐことになり、父と母、兄には二度と会わない覚悟で馬車へ乗り込んだ。だから、私が父と母に会えないことは我慢できるが、不出来な娘が死んだと聞いて少しでも悲しんでくれていたら良いな、と思う。
私は自分自身について考える。
私は存在してはいけない人間になってしまった。これから私はどうなるのだろうか。
先々を考え不安に思う。
兄は忙しい合間を縫って私に会いに来てくれる。少し口づけるだけで帰っていくこともあるけど、二人でいる間は甘い時間を過ごしている。
本当はこんなふうに兄に甘えることもいけないことだとはわかっている。
でも兄から甘く「好きだよ」と言われてしまうと自分の気持ちに抗うことなどできない。
「メイ! ようやく君の受け入れ準備が整った。これからまた別の場所に移動するよ」
外へ出られるらしい。
屋敷内でも不便はなかったけど、やっぱり外の空気も吸いたい。
「お兄様、どこへ行くのでしょうか?」
「トイフェル伯爵家へ行くんだよ」
トイフェル伯爵家…………。
「メアリー様のいる……?」
「ああ、メアリー嬢のこと知ってた? メイとは良い友達になれると思うんだ!」
いやだ。二人が一緒にいるところなど見たくない。兄の伴侶と仲良くなんてしたくない。
だけど私はそんなことも言えず良い妹になりきろうとした。
「そうですか。お会いできるのが楽しみです」
◇
「あなたがメイベル様? とても可愛らしいお嬢様ね!」
「メイ、彼女がメアリー嬢だ」
「え、あなたが……?」
トイフェル伯爵家に着き、執事に通された応接室で紹介されたメアリー様は貴族令嬢の装いではなかった。どう見てもただの町娘で平民の装いをしている。
後からトイフェル伯爵夫妻が部屋にやってくる。
「君がこれから私たちの娘になってくれるメイベル嬢だね! 悪いがメイベル嬢は亡くなったと聞いている。君はメアリーという名で過ごしてくれ」
「えっ……?」
どういうことだろうか。
私は隣に立つ兄の顔を見上げた。
「トイフェル伯爵、メイベルに細かい事情を説明しても良いでしょうか?」
「なんだ。まだ説明していなかったのかい?」
「ちゃんと許可をいただいてからと思いまして……」
「あっ、すまない。手紙の返事を出し忘れていたかもしれない。もちろん、説明してあげてくれ。ここまで来たらみんな後には引けないからね」
発端はメアリー様のお兄様であるマイケル様からの相談事だったらしい。
マイケル様がジョシュアお兄様へ相談した内容はこうだ。
妹が使用人の庭師と恋をしている。自分も両親も妹が幸せになれるのであれば、その恋を叶えてあげたいが、この国では貴賤結婚は認められていない。どうしよう。というものだったらしい。
多いのが、平民の庭師をどこかの貴族へ養子にやって身分差をなくし、結婚できるようにするということだが、その庭師、すごく人柄が良くトイフェル伯爵夫妻の信頼も厚いのだが、すでに四十という歳の差恋愛で、今さらどこかの貴族の養子になれるような歳でもなく貴族らしいマナーや教養が身につくとも思えなかった。
そこでジョシュアお兄様はメアリー様を平民にすることを提案する。
絶縁してメアリー様を平民に落とす手段もあるが、それではトイフェル伯爵家に平民との恋に落ちた娘がいたという醜聞が付いて回る。
なので今後は私がメアリー嬢としてここで過ごすらしい。
え? そんなのあり?
「で、でも……私もメアリー様もお顔が全然違います……」
「メイ、社交界で今の君の顔を知っている人ってどれだけいる?」
私は考えた。
五年前の茶会以来ずっと引きこもっていた私には社交界での知り合いはいなかった。強いて言うなら父と母くらいだろうか。
「メイベル様。私もずっと深窓のお嬢様なフリをしていて社交界には知り合いはいないのよ。私たちの入れ替わりを知るものは領地の人間くらいしかいないわ」
領民たちは自分たちの平穏な暮らしが守られるのであれば、領主の細かい事情など気にしないだろう。
「えっ、ちょっと待ってください……!」
「ん?」
「メアリー様とジョシュアお兄様は結婚するのですよね? もう婚約も結ばれたと……!」
トイフェル夫妻は顔を見合わせて優しく笑って私を見た。
「婚約解消するには慰謝料が発生するし、醜聞にも繋がるから、メイベル嬢がメアリーになりきって婚約を続けてほしい」
予想していなかった展開に、私の目に涙が溜まる。
「いいので、しょうか……?」
「メイベル嬢に断られると私たちが困るんだ」
私が戸惑っていると兄が私の前で跪き、私の左手を取って手の甲に口づける。
「メイ、君のことが好きなんだ。私はメイと結婚したい。お願いだ。私と結婚してくれ」
乞うようにこちらを見上げて、熱い眼差しを私に向ける。
絶対に聞くことのできない言葉だと思っていた。
それが兄の口から私へ向かって紡がれて、私の目に溜まっていた涙がこぼれ落ちていく。
「よろしく……おねがいします……!」
嗚咽を堪えて、精一杯の返事をした。
兄はその返事を聞いて、ポケットの中から指輪を一つ取り出して、手に取ったままだった私の左手の薬指に嵌めた。
「メイ、愛してる」
「わ、わたしも……」
愛しています。声が詰まって上手く言葉にできない。
それでも兄は私の想いをちゃんと汲み取ってくれてギュッと私を抱きしめた。
私も嬉しくて兄の背中に手を回す。
「メイ……」
兄は愛おしいと言わんばかりの目を私に向ける。
このまま口づけをするのかな……そう思ったところでトイフェル伯爵の咳払いが聞こえて私は慌てて兄から離れる。
「続きは二人きりのときにしてくれるかな?」
「ははっ、ごめんね。メイ」
「す、すみません……!」
兄は全然動じていなかったが、私は顔を真っ赤にして謝った。
メアリー様はこのトイフェル家の屋敷のそばに小さな家を用意してもらったので、そこで庭師と一緒に暮らしていくらしい。
ひとまず来月、領内の小さな教会で二人の式が挙げられるらしい。
二人は幸せそうに腕を組んで二人の家に帰っていった。
メアリー様のご両親は私をメアリーと呼び「本当の父と母として接してほしい」と言われ戸惑った。
まずはお父様、お母様と呼んでみようと思ったが、緊張で声が上擦って失敗した。
私が「ごめんなさい」と謝ると、夫人も伯爵も慌てなくて良い、ゆっくりで良いと優しく微笑んだ。
私はこのトイフェル家の家族からはメイと呼ばれている。メアリー様の愛称はポリーらしいが、メイでもおかしくないので、本物のメアリー様と区別するため私はメイと呼ばれることになった。
メアリー様は平民の戸籍を手に入れ、ポリーという名で過ごしていくらしい。
ヴィルケル伯爵領にいた頃からお世話になっていた家庭教師は兄が手配しトイフェル家にも来てくれて私はトイフェル家で伯爵夫人になるべく教養を勉強している。
トイフェル家の歴史についてもトイフェル家の母がしっかりと教えてくれる。
「メイは勉強家でえらいわね! ポリーったら庭師のジョンと結婚するからこんな勉強はいらないってマナーすら勉強してこなかったのよ」
マナーの勉強を怠っていたメアリー様を社交界へ連れ出すことは憚られ、メアリー様は深窓の令嬢という体でトイフェル家に引きこもっていたらしい。
そう言われて、私はメアリー様のように振る舞えていないのだとハッとして「メアリー様のように出来なくて、ごめんなさい」と謝った。
「違うわよ。メイはポリーを見習ったりしなくて良いのよ。メイはメイらしく過ごして良いのよ」
私は私らしく……その言葉は実の父に「男だったら」「兄のように」と言われ続けて荒んだ心を優しく包み込む。
私は少しづつ自分に自信を持てるようになり、メアリー・トイフェルとして母について茶会などにも参加するようになった。
◇
「メイに父と母に会ってもらおうと思う」
とうとう来た。兄と結婚するのであれば避けては通れない道。
私と兄の結婚はメイベルの喪が明けてからになるので、あと半年先のことではあるが、いつまで経っても婚約者が相手の両親に顔を見せないのはおかしい。そして私自身も兄と結婚したら伯爵家の夫人となる。
私はトイフェル家の両親に用意してもらった質の良いドレスに身を包み、迎えに来た兄と一緒にヴィルケル家へ向かった。
「初めまして、メアリー・トイフェルです」
父は私が死んだことで厄介払いが出来てせいせいしているかもしれない。だから、私の顔を見て罵倒するかもしれない。なんで戻ってきたんだ、と怒るかもしれない。
何を言われても前を向いていよう。兄の隣に立っても恥ずかしくないように、凛とした態度を貫こう。そう決心したはずなのに、やはりヴィルケル家へ向かう馬車の中で私は震えてしまっていた。
兄は優しく私の手を取る。
「大丈夫。私がひどいことなんて言わせないから」
兄の温かく大きな手に包まれ、私は兄の目を見て頷いた。頑張ろう。
そして半年ぶりに会った父と母の前で初めましてと名を名乗る。
「メイベルっ……!」
母は死んだ私の名を呼び涙を浮かべる。
「っ……! お前……生きて……」
いたのか? 父の発した台詞の語尾は声にならず、これでもかというくらいに目を見開いて私を見ていた。
「父上、母上、半年後に私と結婚する予定の伯爵家のメアリー・トイフェル嬢です」
「はい。私はメアリー・トイフェルです」
兄と私であなたたちの目の前にいる人間はメイベルではなくメアリーなのだと念を押す。
父が私たちの発言を聞いて、顔を真っ赤にして口をパクパクさせた。
私は飛んでくる罵倒を覚悟した。
だけど聞こえてきたのは小さな声。
「そうか……! 良かった……」
母はわんわん泣きながら私を抱きしめた。父の目にも薄らと涙が滲んでいるように見えた。
その様子を見て私は両親から嫌われていたわけではなかったのだとホッとする。
「よかった。私はここにいるメアリー嬢と結婚するつもりですけど、異論はありませんよね」
兄がにっこりと父に話しかけると父は焦ったように声を上げる。
「ま、待て……、トイフェル伯爵家の令嬢と聞いて婚約は了承したが、メアリー嬢がメイベルであるというのなら──」
父は認めてくれないのだろうか。そんなニュアンスの声が聞こえてきて、兄は被せるように声を上げる。
「ああ! 良かった! メイが戻ってきたことに罵倒でもしようものなら、父上と母上には速攻で隠居してもらうところでしたが、そこまでせずとも良さそうですね!」
兄はにっこりと不穏な発言をした。
「ジョ、ジョシュア……? お前にそんな権限は……」
「ありますよ? だって父上、今やヴィルケル伯爵としての仕事など名前を書くこと以外何もしていないではありませんか。屋敷の使用人の信頼も領民の信頼も社交界での信頼もあなたにはなく、全て私のものですよ」
「えっ……?」
兄は一枚の紙を取り出して父に見せつける。
「父上が何も考えずにサインしたこちら。私へ伯爵位を移す、爵位継承の手続き書類です」
「い、いつの間に……!?」
「父上、全然書類に目を通さないんですもん。私を見習ってちゃんと全ての書類に目を通していればこんなことにはならなかったのに……」
兄を見習って……父に言われ続けたその言葉を兄が父に言う様子を見て、私の胸はスッとする。
「こんな不出来な方が実父だなんてメイが可哀想だ」
不出来な娘。私が父に貼られたレッテルだった。
父がわなわなと震える様子が少し面白く思えてくる。
「まあ、あなた方がちゃんとメイを受け入れるのであれば、これを提出するのはもう少し先にしますよ。そうでないのであればこれをさっさと提出して、領地の外れにある別邸に隠居してもらいますけど」
領地の外れにある別邸と聞いて、私はふた月ほど過ごしたあの屋敷を思い出す。
このために用意していた屋敷だったのかと、私は兄の狂気を見た気がした。
「み、認めるさ……! メイベルが戻ってきてくれて嬉しいよ!」
父の顔は引き攣っていたが、私と兄の結婚は無事に認められた。
◇
私は家庭教師の淑女教育を卒業した。トイフェル家で自尊心をたっぷり満たしてもらい、自信を持って兄の隣に立てるようになった。
今ではメアリー・トイフェルとして夜会にも参加する。
「殿下、ご紹介いたします。来月、私と結婚する予定のトイフェル伯爵家のご令嬢、メアリーです」
兄の紹介を受けて私は淑女の礼を取る。
「王太子殿下にご挨拶を。お初にお目にかかります。私、トイフェル伯爵家、長女のメアリー・トイフェルと申します。以後お見知り置きを」
王太子殿下は私をじっと見つめた。
「メアリー……? 君って……ジョシュア殿の妹のメイベル・ヴィルケル嬢じゃなかった?」
王太子殿下は五年も前に一度会っただけの少女の顔を覚えていた。
圧を感じるような目で見られて怯みそうになるが、もう私は動じない。
「いいえ。私はメアリー・トイフェルでございます」
「殿下、私の妹のメイベルは一年前に亡くなりまして……」
王太子殿下は少し考え呟いた。
「ははっ、なるほどね。僕が王になったら、まず一番にこの国の結婚に関する法の整備からするべきかな。こうやってややこしいことをする人間を出さないためにもね……! ああ、ごめん、来月の君たちの結婚式には王家からお祝いの品を贈るようにするよ。結婚おめでとう」
私も兄も前半の話は聞かなかったことにして「ありがとうございます」と頭を下げた。
一通りの挨拶を終えると私たちは中庭に出た。
「メイ……! マナーもダンスも、会話の受け応えも完璧だったね」
「良かったです。今まで頑張ってきた甲斐がありました」
自分でもそれなりに出来たと思う。
「お兄様……王太子殿下は私のこと覚えていらっしゃいましたね」
でもあの様子であれば私たちの真実をわざわざ探って明るみにするつもりはなさそうだ。
そして兄が言いづらそうに口を開く。
「メイ……ごめんね。君に謝らないといけないことが……」
なんのことだろうか。
「六年前、君が殿下のお茶会に招待されて、君は王太子妃になりたかったって言ってただろう。そのとき私は、メイは王太子妃にはなれないよ、と言った」
そういえばそんなこともあったと思い出す。
「君はあのとき明らかに殿下から見初められていた。だけど、私が君を王太子妃にしたくなくて、ああ言ったんだ。私は君の想いを傷つけた。それだけではなく、その後の殿下からのお茶会の招待すら、父上に適当な話をして行かせなかった」
驚いた。あのお茶会では殿下の前で失態をしたから、見初められていたとは思わなかった。
「そうだったんですね」
「私は卑怯な男だろ。他の男に君を奪われるのが許せなかったんだ……」
兄が綺麗な顔をくしゃりと歪ませ下を向く。だから私は兄の頬に両手を当てて前を向かせた。
「お兄様? 私が王太子妃になりたいと言ったのはお兄様と結婚できないのであれば、せめてお兄様のお役に立ちたいと思い、そう言ったのです。お兄様と結婚できるのであれば、そんなことはどうでも良いです」
兄が目を見開いて私を見たので私は兄ににこりと微笑んだ。
「メイ……!」
兄が目元を赤くして私をガバッと抱きしめた。
「お兄様……」
「メイ、好きだ。愛してる」
「私も……お兄様を愛しています」
以前は声が詰まって言葉にならなかったが、今日はちゃんと想いを伝えられた。
「メイ……」
「おにいさま……」
私たちはお互いを呼び甘く視線を合わせる。兄は片手で私の顎を掬った。
「メイ……そろそろ二人きりのときもお兄様と呼ぶのはやめようか……?」
私は兄との関係を疑われないよう人前ではジョシュア様と呼んでいたが、二人きりの時はついお兄様と呼んでしまっていた。
兄の熱い視線にドキドキする。
「っ……! ジョシュアさま……」
私躊躇いながらも彼の名を口にした。
それを聞きジョシュア様は満足そうに笑みを浮かべる。
もう私がお兄様と呼ぶことはない。
こうして私たちの兄妹の関係は終わった。
そして、私たちは夫婦という関係を始める。
拙い文章でしたがお読みいただきありがとうございました。
評価、感想いただけると嬉しいです。
そしてそして、兄の執着はいつからなのか……!
本編には盛り込めなかったので後書きに失礼します。
出番のなかったメアリーの兄マイケル視点、1000字程度のSSでいきます!
―――――――――――――
「はぁぁぁ……」
めちゃくちゃな妹に振り回されて俺は深いため息を吐く。
両親は妹に甘く、碌に淑女教育をしてこなかった妹のメアリーを叱ることもなく、無理やり社交界へ連れ出し荒療治をすることもなく、とうとう妹は庭師のジョンと結婚したいと言い出した。
ジョンは確かに良い奴だ。だが、我が国では貴賤結婚は認められていない。伯爵令嬢と平民の庭師では身分差がありすぎて結婚できない。
妹に甘い両親は気軽にこっそり二人で住めば良いじゃないか、などと言った。
社交界に出たことのない妹はあれでも貴族令嬢だ。断れない相手から縁談が来たら厄介だと両親に伝えれば呑気な両親は慌て出した。
そして俺が相談した相手は学友だったヴィルケル伯爵令息、ジョシュア・ヴィルケル。学園一のモテ男だったが、どんな令嬢にも一切靡かない鉄仮面男だった。
そしてジョシュアの案でジョシュアの妹のメイベル嬢が俺の妹になった。
「いいか、マイケル! どんなにメイが可愛くても絶対に惚れるなよ! 同じ屋敷で生活するからと言っても指一本触れるなよ!」
「わかったし、もう聞き飽きたよ」
顔の良い鉄仮面男は大層な剣幕で同じ言葉を繰り返した。
義理とはいえ妹を死んだことにしてまで結婚しようとするこの男の執着はすごいと思う。
「ところでジョシュアはいつからメイベル嬢のことが好きなの?」
軽く聞いたことが失敗だった。
「え? そうだなぁ、多分メイが私のことを好きだと告白してくれたときからかなぁ」
「へぇ」
告白されて自分も恋心を自覚したとかそういうものかな?
「みんな私に告白する女性は、結婚したいとか、下心が透けて見えるのに、メイからは一切感じられなかったんだ……!」
「へぇ……」
「きっとメイは何にも考えずに無邪気に好きな気持ちを伝えただけなんだと思う。兄に告白して、後々気まずくなるとか、結婚もできないのに、とかそういうことは何にも考えていなかったんだ」
「う、うん……」
ジョシュアが悦に入って話している。
「そんな真っ白でピュアな彼女を私の手で染めたいと思ったら……──」
「ス、ストップ!!」
俺は喋り途中のジョシュアの話に割り込んだ。
「真っ白でピュアって……それってメイベル嬢がいくつのときの話……?」
「出会ったばかりの頃だから、メイベルが十歳のときかな……」
まだ十歳ならそりゃあ結婚なんて考えていないのも納得できる。
ん? メイベル嬢が十歳ならジョシュアはもう十五歳だ。
十五で十歳の少女に恋をするとか……ロリ……
俺はそこで話をやめ、それ以上ジョシュアの恋について聞くことはしなかった。