宵闇の宴
小さな駅舎からの人の流れが、ひとり、また一人と減っていき、最後は自分だけになった。
なだらかな上り坂が続く深夜の住宅街は静まりかえり、路上には自分の足音だけが響く。記録的な猛暑の七月が終わり、月がかわって八月に入ってもそれは続いた。昼間の熱を放出しきれないアスファルトから立ち昇る淀んだ空気に嫌悪を感じ、日原絵未は数度、目の前の視界が歪み足元がぐらりと回転するような錯覚をおぼえた。
道の右側に法面のブロックが迫る一角に来ると、左側にある小さな公園から、何やら笑い声が聞こえた。見ればベンチとブランコに囲まれた砂地の上で、四人の男が缶ビール片手に談笑している。こんな夜中に近所迷惑ではないのだろうかと思い、ふと視線をそちらにやった瞬間、男たちは絵未に気づいて、会話を止めた。
四つの顔がこちらを向いたまま静止している。自分の表情が怒っているように見えたのではと思い、とっさに絵未は笑顔を作って会釈し、その場を離れようとした。
「よかったらこっちへ来て一緒にやりませんか?」
四人のうち、絵未に背中を向けて座っていた男が体を捻り、声をかけてきた。男たちはシートの上に胡坐をかき、ビールだけではなく、何種類かのつまみや他の酒類も置いていた。
「こんなときだ。若い女の子がいると、それだけで楽しいさ。」
男は別の缶ビールを手に取り、こちらに差し出してくる。自分で近づいた記憶はないのに、気がつくと、それは絵未から手の届く位置にあった。
ビールは冷えていて、掌の感覚が無くなる程だった。
「あの…皆さんは、どのようなご関係で…。」
シートの上で脚を崩し、一口飲んでから絵未は尋ねた。
お盆でね、と絵未の正面に座っていた男が言った。神津と名乗るその男は四人の中で最年長なのだという。
「でも、この中で一番年数が長いのは俺なんですけど。」
今度は絵未の左側にいた曽我部という男が言葉を挟んできた。四人の中で最も若いこの男が言う年数というのは一体何のことだろうと絵未が聞こうとすると、最初に声をかけ缶ビールを渡してくれた佐戸という男が、ちなみに一番の新入りは俺で、と酔って少し怪しげな口調で言う。
地元の知り合いか何かで、お盆の時期に帰省して毎年会っているのだろうかと絵未は想像する。だが今は八月の第一週。ここ東京では一般的な新盆の七月半ばとも、旧盆の八月中旬とも時期がずれている。
「この地域はな、ちょっと特殊なんだ。」
最後まで黙っていた竹元という男がそう教えてくれた。もともと盆が行われていた旧暦の七月は、現在使われている新暦でいう八月にあたる。全国の多くの地域では旧暦と実質変わらない新暦の八月中旬に盆の時期を移したが、東京などの一部だけが日付を移さず新暦の七月半ばに盆を行うようになった。その東京の中でもさらに一部の地域に、農繁期から半月だけずらして盆を行うという習慣が定着し、今に至っているらしい。
「お姉さん、いけるね。もう一本どう?」
佐戸がどこからかビールをもう一本取りだす。今度もキンキンに冷えている。絵未はそれを渡されるがまま受け取り、タブを上げると一気に喉に流し込む。本当はここに来る前にも飲んでいた。かなり酔っていたと思うのだが、いつのまにかその感覚も失われてしまっているのだろうか。
「なかなかの飲みっぷりじゃないか。たぶん佐戸さんよりも強いよ。」
神津が少し驚いて、そう言う。
佐戸さんは酒好きなのに、からきし弱いんだもんなあ、と曽我部がからかう。それに酒癖が悪い、と神津が付け加える。この人は気をつけた方がいいのかな、と絵未は思うが、隣で嬉しそうにビールを飲み乾きものを頬張る佐戸を見ていると、なんだか警戒心も無くなるような気がしてくる。
「大丈夫、この人女の子には優しいから。」
優しすぎて失敗ばかりしているけど、と曽我部が突っ込む。キャバクラ嬢に入れ込んで多額の借金を背負いこんだエピソードを公開されそうになると、赤い顔をさらに赤くしてそれは黙ってて、と即座に制止する。
「だから二日酔いの翌朝に草野球の試合なんかに出て、あんなことになったんだ。」
神津のその言葉に、みんなから頼まれたら断れないだろうが、と佐戸が大声を出す。深夜の公園にその声は響き渡るが、近所の家から文句を言う者は誰もいない。
「あんなことって?」
絵未が佐戸に問いかける。彼女を見る佐戸の目が、すでに座っていると感じる。警戒心を解いてしまっていた絵未だが、その視線にとある記憶がよみがえり、一瞬素面に戻りそうになる。
口ごもった佐戸に代わって曽我部が説明を引き取る。
「サードを守っていて、突然ぶっ倒れて救急車で運ばれたんだ。そしてそれっきり。」
それっきりって…?
絵未は四人の顔を見回す。四人は一様に、仕方がない、という表情になって顔を見合わせた。
「俺はツーリング中に事故って。もう十二年前になる。」
曽我部が下を向いたまま、そう呟く。当時交際していた女性がいて、彼がバイクに乗って出かけるたびに心配そうな表情で見送ってくれたという。
「ホント…彼女にはすまないっていうか、もう一度チャンスがあったら、あんなに飛ばしたりしないと思う…。」
三十五歳の時だったそうだ。
「私は肺ガン。ヘビースモーカーで、いずれはそうなるかもと思っていたけど、六十そこそこで、そんなことになるとは思ってなかった。」
神津がそう言いながら煙をくゆらせている。まあ今は好きなだけ吸えるけど、と少しだけ寂しそうな笑顔を見せた。
「私は自宅で倒れて。」
と、最後に竹元。経営していた畳店が赤字続きで金策にストレスをため込んだ挙句に脳出血で、と沈痛な表情で語った。
「皆、この町の古くからの知り合い。今年は新しく佐戸さんが加わるので、迎えに来たというわけだ。」
神津が皆の言葉を継いで、最年長らしく絵未に伝えた。
「ただ、まだ葬儀が終わっていない。」
竹元が言葉を継ぐ。佐戸が亡くなったのが今から五日前、お盆を挟んでしまったのでそれが終わり次第、葬儀を執り行い、たまたまこの世に帰って来ていた仲間三人が向こうの世界へ連れて行くのだという。
「通夜がね、明日の晩…。告別式が明後日だから、ここでみんなで飲めるのは…今夜しかないんだよ…。」
佐戸がさらに酩酊した口調で話す。通夜を抜け出してくるんじゃないぞ、と竹元がくぎを刺す。本当は面倒くさいからそうしたいんです、と佐戸が言うと、最後くらいはちゃんとしろと他の三人から速攻で突っ込みが入った。
「だってよ…、俺ひとりもんで、たぶん誰も悲しんでくれない。職場のみんなにも、あいつはどうしようもないって思われているからさ、通夜の場にいたって気まずいだけだよ…。」
そういうもんじゃないだろうが、と神津が説教口調で諭す。キャバクラの姉ちゃんが来てくれるかもしれませんよ、と曽我部が茶々を入れると、あそこは出禁になった、と寂しいことを言う。
定まらない視線を、不意に佐戸は絵未の方に向け、それからろれつの回らないまま、その台詞を口にした。
「俺さ、お姉さんのこと、なんだか好きになったよ。よかったら一緒に来てくれねえか?」
佐戸はいつの間にか絵未の手を握っている。不可思議な展開に言葉を失っていた絵未は、佐戸の行動に頭がついていかず、動くことが出来ない。
「私は…。」
何か言葉にしようと思うのだが、出てこない。もし佐戸の望みを受け入れたなら、それは何を意味するのかは理解しているつもりなのに、なぜか明確に拒否することが出来ないでいる。
絵未はもう一度口を開く。佐戸さん、私は…。
「駄目だ、佐戸さん。」
その時、神津がそれまでには無い厳しい口調で叱責した。
「この人はまだ連れて行っちゃいけない…。」
その目には有無を言わせぬ意志が感じられた。神津は佐戸をしばし睨みつけ、それから視線を絵未の方に移し、鋭い視線のまま無言のメッセージをよこした。
あんたはここに残りなさい。簡単について来ちゃいけない…。
「そろそろお開きにしますか。日付も変わったことだし。」
曽我部がつとめて明るい口調で、誰にともなく宣言をする。三人が立ち上がるが、佐戸は未練がましく、その場を動こうとしない。
「佐戸さん、二軒目行くよ。」
曽我部がそう言って佐戸の腕を取って立ち上がらせようとする。顔を伏せていた佐戸の顔を見ると、涙を流していることに気づいた。
「俺、未練だらけだよ…。ここで幸せになりたかったよ。お姉さんみたいな優しくてかわいい人と一緒になって、金なんか少しだけあればいいから…そんな人生を送りたかったよ…。」
四十九年の俺の人生、どうして上手くいかないことばっかりだったんだろうなって…。
すると他の三人が佐戸の肩をたたき、優しく慰める。あとはこっちでやっておくから…曽我部が絵未に目配せをし、短い時間だったけど楽しかった、ありがとう…と言う。それから四人は公園から住宅街のさらに奥へと続く道へ歩き出し、あっという間に闇に紛れて見えなくなった。
辺りに静寂が訪れる。
どのくらいの時間が経過しただろうか。絵未が足元に視線をやる。すると彼らが放置していったはずの酒も、つまみも、シートすらどこにも残っていなかった。
※※※
「気が付かれましたか…。」
病院のベッドの上で、絵未は目を覚ました。
仕事にも交際相手との関係にも追い詰められ、冷静な思考を失っていたのだと思う。立ち寄ったバーで飲んだ後、ふらつく足取りで駅のホームへ向かった後の記憶が無い。
「助かったのは奇跡だと思ってください。」
医者からはそう言われた。しっかりリハビリをすれば後遺症は無いと思うと告げられ、自分は一体どんな状況で運ばれたのかと、思い出すのが怖くなる。
ふと病室の離れた壁に目をやると、そこに四人の男が立っているのが見えた。
大丈夫、あなたはまだ、長くて楽しいこともある人生を続けられます…。
一番左端に立っていた曽我部がそう言って笑う。神津と竹元がその言葉に頷く。
二人に挟まれた佐戸は一人寂しそうな表情でこちらを見て、じゃあねお姉さん、と呟いたのが、かすかに聞こえた。