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・angélus【アンジェラス】:お告げの祈り、またはその時刻を知らせる鐘のこと。アンジェラスの鐘。
・chère amie【シェール アミ/シェラミ】:親愛なる友人
あれから数時間が経つ。時刻は間もなく、正午を迎えようとしている。
アンジェの家へ走っていくジルの姿は、鐘塔の上からもよく見えていた。
二人はちゃんと出会えたのだろうか。ジルは、積年の想いを打ち明けることができたのか。
アンジェの出立の時が近くなり、街中はわずかに賑いだした。どうやら、若き花嫁を一目見ようと、近隣の住民たちが彼女の家を囲んでいるらしい。
盛り上がる人山を眺めていると、アンジェたちが蔑まれていた過去があるなど、まるで嘘のように思えた。
「さあて、あたしは仕事をしなきゃな」
正午ぴったりに鐘を鳴らせば、きっとアンジェにも聞こえるだろう。
別れを直接告げられないのは寂しくもあったが、ここで頑張ることが、唯一シェラミにできる、彼女への餞別のように思えた。
……はずだったのに。
「嘘だろ。なんでこんなに重たいんだ!?」
ジルが軽々と引いていたはずの綱は、両腕に力を込めたところで、びくともしない。
「ジルは簡単そうに動かしてたのに、なんでなんだよ……って、いってぇー!」
拳で鐘を殴ると、自分の腕に鈍い痛みが走っただけで、鐘撞きの代わりにはなりそうにもなかった。
「ほら。やっぱり僕がいないと駄目じゃないか」
「確かに、今回はお前の言ってたことが正しかったよ、ジル」
「そこを代わってくれ、シェラミ」
「ああ。……って、はぁ!? なんで戻ってきてるんだよ!」
シェラミのすぐ後ろには、汗だくのジルが、肩を上下に揺らしながら立っていた。
「帰るって言っただろ、僕」
ジルは水分をとり、手早く仕事の準備を進めていく。
「そりゃそうだけどさ! ここはアンジェを連れて、駆け落ちするところだろう!?」
「お前はまた、突拍子もないことを」
ジルは苦笑いを浮かべつつ、台の上に立った。
「まさか、アンジェに会えなかったのか?」
「いいや、ちゃんと会ったよ。それで、言いたいことは全部、あの子に伝えてきた。だからもういいんだよ」
その時、わあっという歓声が耳に届く。街に目を向けると、婚礼衣装に身を包んだアンジェが姿を現した。そのかたわらには、結婚相手であろう、長身の男性も寄り添っている。
「そっか。でもこれで、きっぱり諦めがついたろ。長い間お疲れさまだったな」
労わるようにしみじみ語りかけると、ジルは怪訝な顔をした。
「は? なにを言ってるんだ、シェラミ」
「だって、ほら。ようやくあの子に振られたんだろ?」
そう言って、幸せそうに手を繋ぐ若者たちを指差すと、ジルはぽかんと口を開ける。
「だから、そういうのじゃないって、何度も言ってるだろ!?」
「じゃあ、なんだってんだよ!?」
「色々と誤解があるようだから、後で詳しく説明するさ」
ジルは綱を軽く握りしめながら、困惑の表情を浮かべたシェラミを見下ろす。
「やっぱり、あたしには分かんねえよ、色恋ってのは!」
悲痛な叫びをあげた少女を見て、ジルは台の上でかがみ、目線を合わせてきた。
「もう、僕はお役御免なんだよ。それに、今はあの子よりも、もっと手のかかる女の子がいるからね」
そう言うと、顔をほころばせつつ、こちらの頭をぐしゃぐしゃとなでてくる。
「ばっ、ばば、馬鹿ジル! 子ども扱いするんじゃねーよ!」
シェラミは慌てて背中を向けた。一気に体が熱くなる。
なんだよ、これ!? 慣れない感覚に、すっかり戸惑ってしまう。
きっと、あれだ。こいつがあたしを甘やかすなんて、相当珍しいもんだから、ビビっちまったんだな、うん。
こそばゆい感情に、一人で焦るシェラミの背に向けて、ジルは声を上げる。
「とにかく今、僕たちにできるのは、あの子の幸せを願って祈りを捧げることだけだよ、シェラミ」
そうして、青年は破顔一笑で鐘を鳴らし始めた。
街の住民たちは、いつまでも鳴り響く『アンジェラスの鐘』に、不思議そうな表情を浮かべている。
「いつもより、ずいぶんと『祈り』の時間が長くないか?」
「きっと鐘撞きにも、美しい花嫁が見えたんだろう。祝いの鐘音だよ」
純白のドレスに身を包んだ娘は、母親と抱きしめ合い、大粒の涙を流している。
「ねえ。これって最高の贈り物よね、母さん」
そう呟くと、母も深く頷いた。
「ええ、その通りよ。それにしても、アンジェリーヌはなぜ分かったの? あの人が、その」
母親が口ごもると、アンジェは自分の唇に人差し指を押し当てて、それから母の耳元に囁く。
「分かるに決まってるじゃない! 顔つきは違っていても、目を細めながら私を見てくる癖は、ちっとも変わってないんだもん! それに」
アンジェは涙を拭い、塔に向かって大きく手を振った。
「父さんのそばには、いまも“アンジュ”がいるからね」
娘の変わった発言に、母は首を傾ける。
塔の中には、全力で鐘を鳴らしている、先夫の姿しかなかったからだ。
花嫁が見えなくなるまで、天使の鐘は街中に響き続けた。
軽快で、それでいて荘厳な音色は、街の人々を優しく包みこみ、最後は静かに消えていった。
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