5
アンジェは帰り際に、不思議な話を残していった。
『鐘塔には、願いを叶えてくれる天使様がいるのよ。だから毎日、父親の幸せを祈ってきました』
『優しい天使様なら、私のこれからの人生にも、少しぐらい幸せを分けてくれるわよね?』
晴れやかな笑顔で、そんなことを話していたと思う。
シェラミはガリガリと頭をかく。
ここに天使がいるなんて、聞いたこともない。それに、そんな夢物語は、到底信じられなかった。
だって、ここを見守る天使がいるなら、真っ先にジルの願いを叶えるだろうから。
朝の一仕事を終えた鐘は、先ほどまでの騒がしさが嘘のように、無言を貫いている。
汚れた手をぬぐい終えたジルは、そばにやってきた女性を見て、わずかに目尻を下げた。
「ずいぶんと久しぶりだな、シェラミ」
「ああ。あんたもすっかり、おっさんくさくなったもんだね。ジル」
彼は静かに踏み台から降りると、苦笑いを浮かべながら額の汗を拭き取った。
「そりゃそうだよ。君と僕が出会ってから、どれほど経ったと思ってるんだい」
そしてジルは、静かにこちらを見つめた。長い間、接触を避けていたシェラミが姿を見せるほどには、差し迫った要件があると察してくれているようだ。
「あのさ、これだけは教えてやるよ。今日の正午、アンジェはこの街を出るんだ」
シェラミの言葉に、ジルは戸惑いの表情を見せた。
「なんの冗談だ?」
その短い呟きには、疑いの色が隠れている。
「いや、本当だってば! 本人に教えてもらったんだ。別の街に嫁ぐって!」
必死の訴えを受け止めたジルは、床の上へ腰を下ろした。
落ち込むのも無理はない。どのように声をかけるべきか、考えのまとまらないまま彼に近づいていくと、なぜかジルがくつくつと笑いだす。
「お、おい? 大丈夫か?」
呆気に取られるシェラミをよそに、ジルはひとしきり笑い転げたあと、潤んだ瞳を擦りながらこぼした。
「結婚? ははっ、そうか。めでたい話じゃないか。僕はてっきり、彼女の身になにか悪いことでも起こったのかと」
「なに呑気なこと言ってんだ、ジル。これでいいのかよ! 何年もずっと見守ってきて、なにも言わずにお別れだなんて、寂しすぎるだろ!」
シェラミの噛みつきに、彼は首を傾げる。
「お前こそなにを言ってるんだ? あの子が幸せを手に入れたなら、それでいいじゃないか」
「違うよ! アンジェが言ってたんだ、この結婚には事情があるんだって」
「事情?」
それまで、にこにこと明るい顔を見せていたジルが、笑ったまま、その目を大きく見開いた。
「ああ。自分の父親は犯罪者で、母子家庭になってから、生活が苦しくなったところを、相手の家に助けてもらった恩がある。だから結婚話を呑むしかなかった……そんなところさ。あの子は、優しい子だから」
「本当に、彼女がそう言ったのか」
言葉を選ぶように、ゆっくりとジルは呟いた。もはやその表情からは、笑みが消え去っている。
「あたしが嘘をつく必要があるかよ!? なあ、あんたなら、相手の出自なんか気にしないだろ。あの子の親がどれだけ悪いやつだとしても、まるごと受け入れるぐらいの気合いはあるよな!?」
詰め寄られたジルは、しばらく悩んでいたが、伏せた目を上げることなく、言葉を漏らした。
「……僕には仕事があるんだ。正午ぴったりに鐘を鳴らすのが、ここでの決まりだから」
「この馬鹿ジル! 鐘撞きなんて、あたしにだってできるんだよ。さっさと行って、あんたの気持ち、全部伝えてこい!」
叫びながら踏み台を登ったシェラミに、ジルは小さく首を振る。
「お前には無理だよ、シェラミ」
「やってみなきゃわかんねーだろ! あんたも同じだ。どうせもうすぐ、離ればなれになるんだ。せめて、最後ぐらいは直接ぶつかってみろ」
それから大きく息を吸い、なおも逡巡している相手に向かって吠えた。
「諦めるな、ジル!」
「……すぐに戻る!」
きびすを返したジルは、あっという間に石段を駆け降りていった。