表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

1

 今日も長い一日が始まる。


 シェラミは石造りの螺旋階段らせんかいだんを登りながら、豪快ごうかいにあくびをした。


 側窓がわまどから差し込む朝陽あさひによって、塔の中はぼんやりと、オレンジ色にいろどられていく。


 鐘塔しょうとうのふもとに広がる白壁の家々も、ここと同じように、熟したみかんクレモンティーヌの色に染まっている。

 この景色を楽しむことのできる、ほんのわずかな朝のひとときを、シェラミは好ましく感じていた。


 石段を登りきると、鐘のそばにはすでに人影がある。


 彼の名はジル。日に三度、『お告げの祈り』の鐘を鳴らすことを生業なりわいとしている。

 シェラミの暮らすこの塔で、数年前から働き始めた青年だった。

 

 ジルは袖をまくり、仕事のための下準備をしているらしい。

 華奢きゃしゃな体つきから考えると、意外なほどにたくましい腕が、古びた木柱に伸びていく。それから、硬くなり始めた手のひらを使っての、点検作業が始まった。


 シェラミはこれまでも、何人かの鐘撞きと出会ってきたが、ジルはまだまだ歴が浅い。


 彼がここへきたころは、あまりに不器用なものだから、歳を理由に引退した先代が戻ってこないかと願ったものだが、ようやくさまになりだしたようだ。


 そうこうしているうちに、鐘を鳴らす時刻が近づいてきた。ジルは両手に吐いた唾を伸ばし、目の前に下がる綱を引き寄せる。すると、腕の振りに合わせて、軽やかな鐘の音が響き渡っていく。


 それを合図に、街中の人間がさわさわと動き始めた。パン屋は軒先に立て看板を置き、花売りは手押し車に商品を移動させる。


 見慣れた光景を、シェラミはぼんやりと眺めていた。

 いつもと変わらない日常は、この鐘塔しょうとうから生み出されていくのだ。


 心地よい風が吹き抜ける。けれども、ジルのひたいには、栗色の髪がぺたりと張りついていた。


 鐘撞かねつきの仕事は、案外あんがい体を使う。もしかすると、したたる汗をぬぐいながら、こんな朝早くから働く者は、ジル以外にはいないのかもしれない。


 祈りの時間は、あっという間に終わった。


 ジルは踏み台から飛び降りると、柱の裏に身を隠す。それからゆっくりと呼吸を整えて、忍びやかに教会のふもとをのぞき込んだ。


「なにコソコソしてるんだよ、ジル」

「わあっ!」


 腰を抜かしたジルの頭上へ、続けざまに声をかける。


「また『あの子』を見るんだろ。堂々とすりゃいいじゃないか」


 シェラミはざんばら髪を適当にかきあげながら、鐘塔の外へ身を乗り出した。


 目線の先には、石畳に膝をつき、祈りを捧げる少女の姿がある。長い髪が風に揺られて、さやさやとなびいていた。


「脅かすのはやめてくれ、シェラミ。心臓が止まるかと思っただろ?」


 ジルの言葉を無視して、シェラミは続ける。


「ほら、今日もやってるよ。飽きないもんだねえ。それにしても、あんたはずいぶんと若い子が好みなんだな。歳はいくつぐらい違うんだ?」


「ちょっと黙っててくれないか。そんなんじゃないから」


 ジルは頬を染めながらも、一点をまっすぐに見つめていた。やがて少女は祈りを終え、ドレスについた汚れを払い落とすと、自宅へ駆けていく。


「なあ。あんたの姿を見せなきゃ、いつまで経ってもあっちに気づいてもらえないよ。それでいいのかい?」


 シェラミは声を上げたが、ジルは一瞥いちべつを投げただけで、すぐに背中を向けてしまう。


「それがいいんだ。あの子だって、神との対話を覗かれていると知れば、いい気はしないだろうから」


 早足で階段を降りていく青年を、シェラミは半ば呆れながら見守った。


「馬鹿みてえ。あんなにずっと見ているくせに、なにをビビってるんだか」


 どっかり腰をおろすと、膝を抱えて街に目を向ける。


「“恋”ってのは、ずいぶんと難しいものなのかね……」


 シェラミには、恋とか愛といった感情がまるで理解できなかった。


 マルシェに店を構える主人は、奥方に尻を叩かれながら働いているが、あの二人の間にも愛はあるという。

 腕を組んで広場を歩いている恋人たちにも、彼らだけの知るひとときがあるのかもしれない。


 生まれてからずっとこの塔で暮らしてきただけあって、シェラミはそこらの人間たちよりも、多くの人を見てきた自信がある。けれども、彼らの抱く気持ちを知れたことは、ついぞなかった。


 ジルが少女を見守り始めて幾年いくとせか経ったが、彼は終始あの調子で、いっこうに彼女の前へ姿を現そうとはしない。


「片思いなんて、報われないだけだろうに」


 そうぽそりと漏らすと、耳元で元気な声が弾けた。


「おねえさん、片思いしてるの?」

「うわあっ!?」


 とっさに後ずさると、声の主は目を丸くして、それからころころと笑う。


「ごめんなさい、盗み聞きをするつもりはなかったのだけれども。驚かせてしまったかしら?」


 シェラミはそばに立つ少女を、穴が空くほど見つめた。ブルーアッシュの長い髪には、見覚えしかない。

 そう。毎日のようにここから眺めていた相手──いつもはうつむいて、祈りを捧げているだけの少女──が、まさに今、目の前であふれんばかりの笑みをたたえているのだ。


「初めまして、ではないわね。いつも、私のことを見ていたでしょう?」


 図星を指されたシェラミは、彼女の悪戯気いたずらっけな表情に身を固くした。


「気づいてたのかよ」

「もちろんよ。あなたと一緒にいるおじさんのことも知っているわ」


 ああ、残念だったな、ジル。

 あんたの偏狂へんきょうなところは、すっかりこの子に見抜かれちまってるみたいだぜ。


 しかも、まだ十分若いってのに、中年扱いされてるぞ。シェラミが鼻で笑うと、目の前の少女は不思議そうに小首をかしげた。


「で、なんだ。こんな所にのこのこやってきて。まさか、あたしに物申そうってのかい!?」


 強気で返すと、彼女はさやかに微笑む。


「いいえ! そんなつもりはなかったわ。私はただ、あなたたちのことを教えてほしいだけなの」


 それから静かに右腕を伸ばし、有無を言わせずシェラミの手を取る。


「私の名前はアンジェリーヌ! みんなからはアンジェって呼ばれているわ。よろしくね、おねえさん」


 それがシェラミとアンジェの交わした、初めての会話であった。

・Angeline【アンジェリーヌ】:人名。天使のような。

・ange【アンジュ】:天使。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ