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今日も長い一日が始まる。
シェラミは石造りの螺旋階段を登りながら、豪快にあくびをした。
側窓から差し込む朝陽によって、塔の中はぼんやりと、オレンジ色に彩られていく。
鐘塔のふもとに広がる白壁の家々も、ここと同じように、熟したみかんの色に染まっている。
この景色を楽しむことのできる、ほんのわずかな朝のひとときを、シェラミは好ましく感じていた。
石段を登りきると、鐘のそばにはすでに人影がある。
彼の名はジル。日に三度、『お告げの祈り』の鐘を鳴らすことを生業としている。
シェラミの暮らすこの塔で、数年前から働き始めた青年だった。
ジルは袖をまくり、仕事のための下準備をしているらしい。
華奢な体つきから考えると、意外なほどに逞しい腕が、古びた木柱に伸びていく。それから、硬くなり始めた手のひらを使っての、点検作業が始まった。
シェラミはこれまでも、何人かの鐘撞きと出会ってきたが、ジルはまだまだ歴が浅い。
彼がここへきたころは、あまりに不器用なものだから、歳を理由に引退した先代が戻ってこないかと願ったものだが、ようやく様になりだしたようだ。
そうこうしているうちに、鐘を鳴らす時刻が近づいてきた。ジルは両手に吐いた唾を伸ばし、目の前に下がる綱を引き寄せる。すると、腕の振りに合わせて、軽やかな鐘の音が響き渡っていく。
それを合図に、街中の人間がさわさわと動き始めた。パン屋は軒先に立て看板を置き、花売りは手押し車に商品を移動させる。
見慣れた光景を、シェラミはぼんやりと眺めていた。
いつもと変わらない日常は、この鐘塔から生み出されていくのだ。
心地よい風が吹き抜ける。けれども、ジルの額には、栗色の髪がぺたりと張りついていた。
鐘撞きの仕事は、案外体を使う。もしかすると、滴る汗を拭いながら、こんな朝早くから働く者は、ジル以外にはいないのかもしれない。
祈りの時間は、あっという間に終わった。
ジルは踏み台から飛び降りると、柱の裏に身を隠す。それからゆっくりと呼吸を整えて、忍びやかに教会のふもとをのぞき込んだ。
「なにコソコソしてるんだよ、ジル」
「わあっ!」
腰を抜かしたジルの頭上へ、続けざまに声をかける。
「また『あの子』を見るんだろ。堂々とすりゃいいじゃないか」
シェラミはざんばら髪を適当にかきあげながら、鐘塔の外へ身を乗り出した。
目線の先には、石畳に膝をつき、祈りを捧げる少女の姿がある。長い髪が風に揺られて、さやさやとなびいていた。
「脅かすのはやめてくれ、シェラミ。心臓が止まるかと思っただろ?」
ジルの言葉を無視して、シェラミは続ける。
「ほら、今日もやってるよ。飽きないもんだねえ。それにしても、あんたはずいぶんと若い子が好みなんだな。歳はいくつぐらい違うんだ?」
「ちょっと黙っててくれないか。そんなんじゃないから」
ジルは頬を染めながらも、一点をまっすぐに見つめていた。やがて少女は祈りを終え、ドレスについた汚れを払い落とすと、自宅へ駆けていく。
「なあ。あんたの姿を見せなきゃ、いつまで経ってもあっちに気づいてもらえないよ。それでいいのかい?」
シェラミは声を上げたが、ジルは一瞥を投げただけで、すぐに背中を向けてしまう。
「それがいいんだ。あの子だって、神との対話を覗かれていると知れば、いい気はしないだろうから」
早足で階段を降りていく青年を、シェラミは半ば呆れながら見守った。
「馬鹿みてえ。あんなにずっと見ているくせに、なにをビビってるんだか」
どっかり腰をおろすと、膝を抱えて街に目を向ける。
「“恋”ってのは、ずいぶんと難しいものなのかね……」
シェラミには、恋とか愛といった感情がまるで理解できなかった。
マルシェに店を構える主人は、奥方に尻を叩かれながら働いているが、あの二人の間にも愛はあるという。
腕を組んで広場を歩いている恋人たちにも、彼らだけの知るひとときがあるのかもしれない。
生まれてからずっとこの塔で暮らしてきただけあって、シェラミはそこらの人間たちよりも、多くの人を見てきた自信がある。けれども、彼らの抱く気持ちを知れたことは、ついぞなかった。
ジルが少女を見守り始めて幾年か経ったが、彼は終始あの調子で、いっこうに彼女の前へ姿を現そうとはしない。
「片思いなんて、報われないだけだろうに」
そうぽそりと漏らすと、耳元で元気な声が弾けた。
「おねえさん、片思いしてるの?」
「うわあっ!?」
とっさに後ずさると、声の主は目を丸くして、それからころころと笑う。
「ごめんなさい、盗み聞きをするつもりはなかったのだけれども。驚かせてしまったかしら?」
シェラミはそばに立つ少女を、穴が空くほど見つめた。ブルーアッシュの長い髪には、見覚えしかない。
そう。毎日のようにここから眺めていた相手──いつもはうつむいて、祈りを捧げているだけの少女──が、まさに今、目の前であふれんばかりの笑みを湛えているのだ。
「初めまして、ではないわね。いつも、私のことを見ていたでしょう?」
図星を指されたシェラミは、彼女の悪戯気な表情に身を固くした。
「気づいてたのかよ」
「もちろんよ。あなたと一緒にいるおじさんのことも知っているわ」
ああ、残念だったな、ジル。
あんたの偏狂なところは、すっかりこの子に見抜かれちまってるみたいだぜ。
しかも、まだ十分若いってのに、中年扱いされてるぞ。シェラミが鼻で笑うと、目の前の少女は不思議そうに小首を傾げた。
「で、なんだ。こんな所にのこのこやってきて。まさか、あたしに物申そうってのかい!?」
強気で返すと、彼女は爽かに微笑む。
「いいえ! そんなつもりはなかったわ。私はただ、あなたたちのことを教えてほしいだけなの」
それから静かに右腕を伸ばし、有無を言わせずシェラミの手を取る。
「私の名前はアンジェリーヌ! みんなからはアンジェって呼ばれているわ。よろしくね、おねえさん」
それがシェラミとアンジェの交わした、初めての会話であった。
・Angeline【アンジェリーヌ】:人名。天使のような。
・ange【アンジュ】:天使。