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34/45

一、

 九月の重陽(ちょうよう)を終えた、九月十日のこと。


 昨日、千世はいつも通り商いに精を出していた。その合間に、千世とみつとで皆の(ひとえ)を綿を入れて縫い直す。みつは手が速いのであっという間だった。


 蓮二は誰かいい人に縫ってもらうのか、同じ長屋の女手に頼むのか、千世たちに頼んできたことはない。

 迅之介の分はここ数年は千世が縫っていたが、着物どころか当の本人がいないのだから縫う必要もない。


 せっかくの節句だったから栗飯を炊いたけれど、結局余って次の日まで食べるはめになった。迅之介がいればたくさん食べただろう。

 そう思うと虚しくなるので、千世はかぶりを振って迅之介を頭から追い出そうとした。


 店先で頭を振っている千世に、羽織を着込んだ雪奴が声をかける。


「あんたさ、迅之介さんはまだ帰らねぇの?」

「まだっていうよりも、もう帰らないと思うわ」


 千世のところに帰るというのがそもそも間違っている。迅之介は家に帰ったのであり、ここには居ついていただけなのだから。


 千世が答えると、雪奴は白魚のような美しい手で、グッと千世の頬を引っ張った。


「その腑抜けた顔、やめな」


 にっこりと笑いながら言葉がひどい。ようやく手を放してくれたけれど、頬が痛かった。三味線で鍛えられた指は力強い。


「雪さんがひどい」

「あんたが馬鹿やってるからだ」


 ぴしゃりと叱られた。しかし、それ以上は言わなかった。

 代わりに言ったのは、意外なことである。


「そういやあんた、前に文芝堂の若旦那のことを訊いてきただろ? その若旦那が嫁をもらうそうじゃねぇか」


 さすがに早耳である。千世は軽くうなずいた。


「ええ、そうよ。若旦那が見初めた娘さんなの」

「身寄りのねぇ娘だってな」


 そんなことまで噂になっているのか。


「そうだけど、とても優しい娘さんよ」

「そうかい。ま、あの若旦那がそれでしっかりするならいいんだけどよ」


 などと言って雪奴は笑っていた。かと思うと、ふと真剣な目をして遠くを見た。

 雪奴はぼそりとつぶやく。


「あのお店ってさ――」

「え?」


 千世が声を上げると、雪奴は何を言いたかったのか、苦笑した。


「いや、やっぱなんでもねぇ」

「なんでもないって、何よ。気になるわ」

「余計なことは言わねぇ方がいいや。その娘にも幸せになってもらいてぇし。本当に、大したことじゃねぇんだ」


 一体なんだったのか気になるものの、雪奴が素直に教えてくれるとも思えない。大したことではないと言うのなら、気にしない方がいいのだろうか。

 雪奴は急に千世の肩にしな垂れかかる。


「それで、他所さまのことはいいとして、あんたはどうなのさ。素直になれねぇなんて、そんなネンネのまま、この深川で女主としてやっていけるのかねぇ」

「それとこれとは別でしょ」


 男女の機微には疎いかもしれない。そもそも、武家の娘は町娘のように気ままな恋をするわけではない。決まった相手と添うだけである。急に町娘になった千世がそれに馴染めているわけではなかった。

 武家などこりごりだと思っていたくせに、身に染みついているのが悲しい。


「別でもなんでもいいけど、迅之介さんがいなくなったら、誰があんたのこと守ってくれるのさ? あの番頭や丁稚じゃ無理だろ。蓮二なんてろくに居つきもしねぇし」


 厳しいことを言うのは、雪奴なりに千世を心配してくれているからなのだ。それがわかるから、明け透けな物言いをされても腹は立たない。


「この町の人たちは親切な人が多いから。私はこの町の人たちの役に立って、そうして時には助けてもらって過ごしていけたらそれでいいの」


 すると、雪奴は綺麗な顔を子供のように歪めた。


「あんたって、しっかりしてるんだか抜けてるんだかわかんねぇや。でも、困ったらちゃんと言いな。あたしが力になれることだってあるんだから」

「ありがとう、雪さん」


 この雪奴も含め、この町の人々は優しいと思う。ここにいることに後悔はない。



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