6 皇太子
パソコンかスマホが欲しい。ネットや表計算ソフトがあれば、パパっと終わらすことが出来るのに。
某CMネタが今は痛いほど胸に刺さる。紙でのやり取りはとにかく作業効率が悪いのだ。仕事を一つ片づけ終える頃には三つ四つと仕事が増えている。エナジードリンクもないし、ほとんど生ける屍にでもなった気分だった。
広大な王宮の敷地には、大臣たちの居住区と役所のような建物がある。私は書類の束を提出先の会計課へと移送中であるが、この時間が一番無駄だと思う。
本来ならば大臣の仕事で、秘書が仕事を持ってきたり提出するのが正しいのだ。だが、大臣は浮気相手の秘書と遊びに行ってしまっていた。
「お前が巫女として無能だから、優しいワシが仕事を与えてやっているのだ。今日もワシに感謝して、黙って働くんだぞ」
「大臣様は本当に優しいわ。仕事がなければ、この人は路頭に迷うしかないんだもの」
「その通りだ。そしてブスは幸せになれないことも常識だ。君のように美しい女性こそ、いい男も宝石も全て得られるのさ」
「ふふ、そこまで言っては可哀想ですわ。でも、そうやってお話しするお姿は本当に素敵。大臣様に愛される私は、世界で一番幸せですわ」
そんな戯言を零しながら大臣と秘書は高価なアクセサリー類を身につけつつ、お忍びスタイルでイチャイチャしながら出かけていったのだ。いつものことながら、腸が煮えくり返りそう。人前で転んで、大恥をかけばいいのに。
誰もいないから一人で仕事をして、その仕事を提出した帰りに仕事を取ってくる。ちなみに、会計課の人たちは私のことを大臣の新しい秘書だと思っていた。巫女の仕事がないなんてどんな目で見られるか分からないし、その方が私としても都合がいいけど。
私は、何をやってるんだろう。元の世界に帰れないし、かといって異世界での役割がある訳でもない。こんな仕事なんて投げ出してしまいが、行く場所がある訳でもないし。結局は最低な環境を維持するしかないのだ。大変な仕事しかないなら、メイドの仕事をしていた時の方が良かったんじゃないかと鬱々する私の耳に大声が飛び込んできた。
「早くドリンクを持って行って!追加の料理もすぐだから!」
使用人たちが忙しなく働いてるのを見て、やはり肉体労働よりマシかもしれないと思いなおす。ビリーバーズ王国では、毎日のようにパーティーを開いている。使用人たちは準備や配膳や後片付けに加えて、通常業務までこなさなければならない。まさに強靭な精神と体力勝負だ。
会場の方を見ると、眩い明りと微かに音楽が聞こえてくる。きっと、見目鮮やかな熱々美味しい料理がたくさん並んでいるんだろう。
熱々の料理、お肉や乳製品のことを考えると涎が出そうになる。残念ながら私は、いつか城を出る時のことを考えて収入のほとんどは貯蓄に回している。どうせ王宮の外には出られないし、使用人用の食堂で比較的安い野菜をメインにした生活だった。まあ、そんなヘルシーな食事をしていても、孤児院にいた時よりは太ったけど。
いいなぁ、食べたいなぁ。ひもじい気分になって、私は溜め息をはきつつ目を逸らした。さっさと書類を提出して、今日はもう寝よう。そう思って、足を速める。だがガサッと草がこすれる音がして、足を止めたことを私は心底後悔した。
「んんー?女がいるじゃないか、ははは」
着崩れた衣装をした茶髪の青年が、ヘラヘラと笑いながら近づいてくる。何か見覚えがあるような気がするが、どう見てもパーティー会場から抜け出てきた酔っ払いだ。
関わったら、絶対に面倒なことになる。脱兎のごとく逃げ出そうとするが、酔っ払いの癖に素早い動きで腕を掴まれた。振り払う暇もなくそのまま強引に引き寄せられ、足元がふらつく酔っ払いのせいで一緒に倒れそうになる。
「は、離してください!」
掴まれた腕を離させようと藻掻くが、酔っ払いの容赦のない力に骨が軋むだけに終わる。くっそ、こんな所で絡まれるなんて。会場からはだいぶ離れてるのに、何でこんな所にいるのか。
「皇太子の俺に触れられて、嬉しくて震えてるのか?可愛い女だなぁ。どれ、顔を良く見せてみろ」
どうりで見覚えがあると思った。皇太子は、儀式の時に一度遠くから見たことがある。
顎を掴まれて、酒臭い息がかかるほど顔を寄せられた。この酔っ払い!痛いし、臭いし、気持ち悪い。私が嫌がって暴れても、ひょろい割に鍛えているのかびくともしない。こんなことになるなら、睡眠時間を削ってでも筋トレしておくべきだった。皇太子はキッと睨みつける私の顔をまじまじと見て、ニヤリと笑った。
「ほぉぉ。なかなか美人じゃないか、気に入った!」
美人だと言われても、こんな泥酔皇太子なんかに気に入られたくはない。不快さを前面に押し出して、振り払おうと必死に暴れる。
「やめてくださいって、言ってるじゃないですか!」
皇太子がお尻を撫でてきて、私は相手を倒す勢いで力いっぱいに体を押した。ドンっと思いっきり押したおかげで、何とか抜け出ることには成功したが。少したたらを踏んだだけなので、皇太子は余裕そうに笑っていた。尻もちでもつけばその間に逃げようと思ったのだが、酔っ払いの癖に何でこんなに逞しいのか。ちょっと、おかしい気がする。
「はは、そう恥ずかしがるな。お前に一夜の慰めを命じてやる。嬉しいだろう?」
欲望に染まった厭らしい笑みに、ぞぞぞと怖気が湧く。お断りだ、馬鹿野郎!そう叫びたいのを必死で堪える。酔っ払い相手にまともに返しても意味はないし、大声で誰かにこの場を目撃されるのも都合が悪い。
「安心しろ、父上も母上も遊んでいるんだ。俺のすることは、何でも許される」
今にも飛びかかってきそうな皇太子に背中を見せることも出来ず、少しずつ近づいてくる皇太子から距離を取るため後ずさる。
「人を殺すのが大好きな騎士がいるんだ。お前が身ごもっても、今までの女たちのようにちゃんと殺してやるからな。それまで楽しもう!」
……は?
こいつ、本当にクズだ。冗談だとしても性質が悪いし、本当だとしたらそれこそ許せない。一瞬で沸点に達した私は、カッとなって皇太子に殴り掛かった。固く拳を握りしめる。メリケンサックがあれば良かったのだが、顎に当てれば何とかなるはず。
だが、皇太子に私の拳がめり込む前に体がふわりと浮いた。動物を持ち上げるように脇に手を差し込まれて、足がブラブラと揺れる。
「オレの巫女が、こんな汚いものに触ろうとするんじゃない」
「ナルキス様…?」
いつもの呑気さとは打って変わって、険しい表情をするナルキスはまるで別人のようだ。ナルキスが怒るなんて珍しいと、先ほどまでの怒りを忘れてポカンと口が開く。
「脳に異常が出すぎて、効きが悪いようだな」
ナルキスはそう呟き、皇太子を蔑むような目で見ている。そういえば、先ほどから皇太子が静かだ。
ナルキスに抱えられたまま横目で見ると、皇太子は恍惚とした表情で熱心にナルキスを見つめている。美しい、と呟きながら魅入られている姿は今にも魂が抜け落ちそうだ。
目が完全にイってしまっている皇太子がふらふらと近づいてくるのに、私はビクリと震えた。何をするか分からない異常者は怖い。すると突然浮いていた足が地面についた。丁寧に地面に下ろされ、ナルキスが私と皇太子の間に入り込む。そして、皇太子を思い切り蹴飛ばした。
え…?
皇太子の体は小石のように簡単に吹き飛び、そのまま動かなくなった。ゴリラかな?いや、そうじゃなく!
「な、ナルキス様…ま、まさか…?」
殺してしまったのではと怯える私に、ナルキスは輝かしい笑顔を向けた。
「問題ない。かなり酔っていたようだからな、どうせ次に気がついた時には何も覚えていないさ」
「そうだといいのですが…もう、色々とビックリしすぎて疲れました」
「なら、さっさと部屋に帰ろう。俺の巫女が気に病むことなど、何もないから安心して寝るといい」
「そうしたい所ですが、書類を提出しないといけないので片づけてきます」
ナルキスは呆れたように肩を竦めた。
「…真面目だな。そんなもの、明日でもいいだろうに」
「後の面倒を考えたら、今済ませておく方がマシなんです」
落ちた書類をかき集め、順番を揃えて抱えなおす。強がって意地を張る私を、ナルキスはさり気なく浄化魔法を使いつつ困った子供を見るような目で見つめていた。
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翌日、兵士が詰めかけてくるのではないかと私はビクビクと布団の中で震えていた。
皇太子に対する狼藉は、死罪になるのではないだろうか。酔った皇太子にセクハラをされたのだと訴えたとしても、被害届を出すことはおろか裁判で負けるだろう。皇太子と一般市民ならば、どちらの言葉が重く受け止められるかなど火を見るより明らかだった。
だというのに、ナルキスは通常運転。私は食事ものどを通らないほどなのに、きっちりと朝食を平らげて漫画を読んでいる。一応、私の傍にはいてくれるようだけど。何も心配していない呑気な姿を見ると、本当に私を助けてくれるのか不安になってきた。
だが、朝から昼になっても私の部屋の扉は沈黙を貫いていた。本当に昨日のことは忘れてしまっているのだろうか。怪我をしているはずだが、酔って転んだことになっているとか。
「大丈夫…来るなら、朝一に来ていたはずだもの」
そう自分に言い聞かせて恐怖を抑え込み、私は仕事をするために執務室へと向かった。重役出勤となったので、大臣が怒っているのではないかと別の心配が湧く。だが、執務室には誰もいなかった。ただ、私が昨夜持ってきた書類がデスクの上に積まれているだけである。
ホッと息をついて、仕事にとりかかった。私の心配は、全て杞憂で済んだのだ。良かった、本当に良かった!もう二度と皇太子とは遭遇しないように、これからは慎重に行動しようと心に決める。
安心すると、途端にお腹が空いてきた。ぐぅぅ、と腹の虫が声を上げる。昼食の時間は過ぎているため、食堂は閉まっているだろう。夕食まで我慢か、と切ないお腹を抱える。
「ずいぶんと大きな音がしてるなぁ」
私と一緒に執務室へと移動して、ソファの上で漫画の続きを読んでいたナルキスが笑いながら言った。昨日のことは正直とても助かったが、心配事の原因でもある。からかってくるナルキスに私は内心でムッとしつつ、表面上は恥ずかしそうに後ろ頭を掻いた。
「煩くして申し訳ございません。その内、勝手に泣き止むのでご容赦ください」
「流石にそれは可哀想だからな。しょうがないから、オレの秘蔵の品を分けてやろう」
ナルキスは、何もない所からポンッとお菓子を取り出した。そして浮かせたまま移動させ、来客用テーブルの上に並べていく。ケーキにスコーン、フィナンシェやシュークリームなどの甘いお菓子がテーブルの上を埋め尽くした。
「え!凄いですね、ナルキスさま。このお菓子は魔法で出したのですか?」
「まあ、そうだな。元々この菓子は皇太子用に用意された物らしいが、慰謝料として頂いてきた」
へえ、そうなんだ。そう流そうとして、失敗する。皇太子のために用意されたお菓子を奪ってきたという衝撃的な話に、私は悲鳴を上げそうになった。昨日のことが無かったことになっても、これは絶対にバレるだろう。朝からずっと一緒にいたはずなのだが、一体いつの間にそんなことをしていたのだろうか。
「そう心配するな。それよりも面白い話を聞いたぞ」
ナルキスは、使用人たちが隠れて話していたという内容を教えてくれた。
どうやら、皇太子は今寝込んでいるとのこと。二日酔いかな、と思ったが違うという。なんでも、急にあらぬ所が腫れて高熱に魘されているらしい。きっと日頃の行いが祟ったのだろう。
「高熱のせいで何も食べれない状態だから、無駄にならぬよう頂いてきたわけさ」
「まあ、食べ物を粗末にするのは駄目ですからね」
誰も食べる人がいないなら、仕方がない。私は輝いて見えるお菓子に言い訳をしつつ、目を光らせた。真っ白でふわふわな生クリームや甘い香りに、頭がクラクラとする。そっと指先を伸ばし、フォークを手にした。いただきますと手を合わせ、まずは弾力のあるスポンジを一口大に切って口に運んだ。
「んん~、美味しい~!」
一口食べると、体も心も幸せで溢れた。こんな美味しいものを食べたのは、何年ぶりだろうか。満面の笑みで身もだえる私を、ナルキスが微笑みながら見守っている。
「巫女は痩せすぎだからな。もっと食べて、肉をつけた方がいい」
「そんなお父さんみたいなこと言わないでください。私を含め、世の女性たちを敵に回しますよ」
「はは!お父さんみたい、か。そう言われるためならば、むしろ大歓迎だ」
ナルキスは鼻歌混じりに、自身の髪をくるくると指先に巻き付けた。何がそんなに嬉しいのだろう。よく分からないが、私はお菓子を頬張ることに忙しかった。
美味しいものを食べて、気の置けない人と過ごす。今だけは、色んなことを忘れて楽しい気持ちでいられた。久方ぶりの穏やかな時間は、幸せだった。
次回、ビリーバーズ帝国の崩壊。