1 新しい生活
私の名前は、霧岬 命。女子高生になったばかりの十五歳だった。スラム街生活は約一年ほど経ったと思うので、おそらく今は十六歳。家族構成は、父・母・弟の四人家族。親友はいないが、友人はそこそこいた方だと思う。これだけは自分のことを忘れてしまわぬように、毎日のように心の中で唱える。
本当に、何故こんなことになってしまったのだろう。周囲では明らかに日本語ではない言葉が飛び交っている。幸運なことに言っていることが分かるし、私も日本語ではない言葉を話せる。これが異世界転移という物語なら、チート能力だとかそういうものを発揮したのだろう。お情けを乞う時、役に立ちはした。
そんな突然始まった異世界生活は、いつ切れるか分からない蜘蛛の糸にぶら下がっているようなものだった。けれど、生きてさえいれば転機は訪れる。
「私と一緒に行きましょう」
いつ死んでもおかしくなかった私を救ってくれたのは、孤児院を経営している院長先生である。彼女は汚れきった私を見つけた瞬間、ホッとしたような穏やかな笑みを浮かべた。そして戸惑うことなく、私に手を伸ばしてくれたのだ。そしてスラムと町を隔てる門を潜り抜け、孤児院に住み込みで働かせてもらえることになった。
それから三年間、孤児院での生活は続いた。
毎日、固いパンと冷めたスープを頂くために働きづくめの毎日。不健康な痩せっぽちではあるが、一応見た目だけは大人と変わらない。だから大人として、掃除洗濯炊事に加えて子供たちのお世話に勤しんだ。手荒れは酷いし、筋肉痛が慢性化。ストレスや栄養不足からか片頭痛も起こるようになって、まさに満身創痍である。それでも耐えられたのは、働くもの食うべからず、郷に入らば郷に従えという日本人精神が生きていた。
ちなみに、初めて鏡を見た時に私は悲鳴を上げた。顔立ちこそ変わらなかったが、色白の金髪碧眼の少女になっていたからだ。そこに美、という言葉がつかないのは残念無念なことではあったけど。余裕がなくて気ににもとめなかったが、そういえば髪が解けたときに見えたのは金髪だったな。
私の悲鳴を聞いた子供たちが、なんだなんだと集まってくる。慌てて何でもないと誤魔化して、解散させた。摩訶不思議現象だが、今までも変なことしかなかったのだからと答えを探すことを諦める。かつては怒りが湧いた先生の言葉を思い返し、なるほどこうして大人になっていくのかと空笑いが漏れた。
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そして、ある冬の日。この日も雪が降っていた。
私を迎えに来たという、これみよがしに勲章をつけた騎士は、院長先生に小さいながらもずっしりと重そうな袋を手渡した。売られたんだと、すぐに分かった。この日のために、私は拾われたのだ。
どうやら私は、聖力が強いらしい。霊力に近いものらしいが、私は生まれてこのかた幽霊など見たことないけど。自分に第六感的な能力があるなど信じられず、疑わしいなと思う。だが、騎士が持ってきた水晶玉に触れると光を放ったので間違いはないらしい。
私を買ったのは国で、理由は神を召喚するために必要な聖力が一定数あるから。当てはまる人間は意外と多くはなく、該当人物を引き渡せば謝礼金が渡されるという。指名手配犯?賞金首?能力者は犯罪者かと叫びたい。
まあ、お金で買われても奴隷になる訳ではないらしい。実態はどうであれ、発見者に渡されるのはあくまで協力金。能力者は国宝だか財産になるらしいが。あれ、人扱いされてない?
「安心してくれ。怖いことなんてないから」
騎士の話によると、何の問題もなく神を召喚して契約する人間がほとんどらしい。もし失敗したとしても、そのまま放り出されるだけだとか。ちなみに神を召喚できれば公務員のような役職になれるし、失敗してもお金を返す必要もないから不安に思わなくてもいいと説明された。
まあ、雇ってもらえなくても私としては三年間である程度この世界について知識もついている。売られた以上はここに戻るという選択は取りたくないし、失敗したら住み込みの仕事を探そうかなと考えた。
だが、騎士の目がチェシャネコのように細められたのを見て考えを改める。眼球は暗く淀んでいて、血の匂いもした。直感的に、騎士の言葉は色々と嘘なんだろうなと思った。たぶん失敗すれば、言葉通り放り出されるだけでは済まないかもしれない。
「ごめんなさい……」
院長先生が震える手で袋を握りしめながら、申し訳なさそうな様子で言葉を紡ぐ。孤児院の開業資金のために借りた場所が悪徳金融で、借金がとてつもなく膨れ上がっているということ。全員が餓死するしかないような状況まで追い込まれているが、私が国に身を売ればその借金を返すことが出来るという。
元々私を拾ったのだって、旅の占い師が幸運の卵がスラム街にあると話したからだ。特徴が完全に一致していて、これぞ神のお導きだと思ったのだとか。そう説明され、私は嫌だという言葉を呑み込んだ。それは茨のように刺々しく、喉を傷つけた。
三年という月日は、短いようで長い。中学や高校でいえば入学から卒業までの期間であるし、そこで出会った友人と一生の付き合いになるかもしれない。毎日顔を合わせて、同じ釜の飯を食べてきたのだ。情が湧くなど、当然のことだろう。
たぶん、院長先生は私が生きて戻ることがないと思っている。それはきっと正しく見た未来なのかもしれない。死にたくはない。生きてまた家族や友人たちに会いたいという願いが、私にもある。
だが、駄目だった。深く頭を下げる院長先生の願いを叶えてあげたいと思ってしまった。それが私を殺すかもしれないものでも、脳裏をよぎるのは辛くも楽しい日々だったから。
だから院長先生を恨まないし、憎まない。だけど、決して許すことはないだろう。罪悪感からか小さくなる院長先生の姿を、目を閉じて逸らす。そして、笑顔であるのに恐ろしい雰囲気を纏う騎士と目を合わせた。
「分かりました。一緒に行きます」
了承した私の声は震えていた。白い息が出そうなくらい、それは小さく凍えた声だった。
騎士の背を追い、孤児院を出る私の元へと子供たちが走り寄ってきた。「どこに行くの?」「すぐに帰ってくる?」と不安そうに口々にする子供たちの頭を、優しく撫でてあげる。
可愛い子供たち。私は元々子供が好きだったし、保母さんになることも夢見たことがある。ある意味その夢を叶えられたのだと思えば、やはりここでの生活は悪いものではなかったといえる。
「これからは、きっと幸せが増えるよ」
借金が無くなって、これから新しいスタートを始められるのだ。それに、慈善事業に興味のある支援者もできそうだという話もあったらしいし。きっと、みんなお腹いっぱいにご飯が食べられるようになるだろう。
院長先生は、私の言葉に泣き崩れて地面に座り込んでしまった。私は子供たちに院長先生を慰めてあげて、とお願いする。子供たちが院長先生の元へ駆け寄っていく姿に、心の中で「ばいばい、幸せになってね」と言葉を送った。