17 安息(シヴァ)
シヴァは魔方陣の中央に剣を立て、力を注いでいた。
血に狂った騎士によって積み上げられた死体は全て片付けられ、明日になれば埋葬される。だが部屋中に飛び散った血液だけは簡単に取り去ることはできない。派手にやってくれたものだと、シヴァは嘆息する。
一定の空間に敷かれた守護方陣は他者の侵入を拒み、中にいる人間へ癒しの効果を発揮する。それなりに大掛かりな魔法であった。通常であれば複数人体制で行うものだが、聖力とは異なる魔力が人並み外れて備わっているシヴァにとっては、こなせないものではない。意識が常に向けられている守護方陣が機能する部屋は、清廉な空気と穏やかさが保たれていた。
こんなことで、許されるはずもないが。今夜のことはシヴァの後悔として、一生拭いされることはない。罪を受け入れ、罰が与えられるのをひたすらに待っていた。
城には元々、外敵を弾く結界が施されている。その上でミコトが使用している部屋にはもう一重の結界がかけられていた。虫の一匹も通さず、何者もミコトに手出しできないようにするためのものだ。
実は結界が壊されたのは、今回のことで二度目のことであった。一度目は術者と護衛がいる部屋に、眠りを誘う魔術道具が使用された。二度目はないと警戒を強化したが、今度は外の警備や部屋にいた人間が皆殺しにされた。
今夜の騒動を起こした犯人の一人である、アズル・クレセント卿は百年に一人の逸材だと謳われた剣の天才だった。人格が破綻していることを知る者は少なく、好青年として人気もあった人物である。排除しきれていなかった国の膿で、調べによると使徒候補たちの中で神に選ばれなかった者たちを連れ去り殺害していたという報告もあった。そして、そのことは前皇帝の暗黙の了解のもとに行われていたという。
シヴァは吐き気がするほど下衆な人間が、ミコトに近づいたという事実が許せない。ナルキス神によって、今までアズルが手にかけてきた人々の恨みの残留思念が実体化して嬲り殺しにされたが気は収まらなかった。この手で始末をつけれなかったことは、シヴァの心に暗い炎を宿す。僅かに残されたアズルの骸は、火葬されず神の祝福を授かることもなく、静かに底なし沼へと沈められた。
そして聖女キィラは、神罰を告げられた証である呪いの痣が全身に広がった。呪いの痣については教会もハッキリと悪魔を現わす印として、一般市民でも知るほど有名な教義である。
──この世の悪から生まれた、七人の大悪魔。
彼らの身体は原初の神によって封じられたが、人の心の闇を媒介にして世界を混沌に陥れようと常に機会を窺っている。大悪魔に乗っ取られた人間は、人を悪しき道へと引きずり込んで世界を地獄と化すため暗躍するのだ。世界を守るために、原初の神は五大神将に堕落した魂を討伐する役目を与えた。五大神将によって罰を受けた魂は、全身に呪いの痣が現れて死後消滅することが確定する。
聖女キィラは、大悪魔に乗っ取られ魂を堕落させられた存在であったということだ。教会は彼女の存在を認めることは決してないだろう。彼女の存在は、教会からなかったものとして扱われるのだ。もちろん、それで終わらす気は毛頭ないが。シヴァはキィラと共にミコトを傷つけようとした教会を、許すつもりはなかった。
「へえ、人間にしては少しはやるようだな」
「大いなる天の神、ナルキス様にご挨拶を申し上げます」
「そういう固いのは別にいい。少しばかり、お前に言っておくことがあってな」
「寛大なるご配慮に感謝いたします。何でもお申し付けください」
集中している状態ではあるが、無礼にならぬようにとシヴァは膝をついて首を垂れる。一国の王であるのに、臣下の礼を尽くすシヴァの姿にはナルキスも口を閉口させるしかなかった。
「敬虔な教徒のふりか?何でも、などと神の前でよく言えたものだな」
シヴァが神を信じていないことは、心を読まずとも分かる。だが信じぬ相手、しかも神に対して「何でもする」と同義の言葉を吐くことの危険性を知らない訳ではないだろうにと、ナルキスは呆れた様に肩を竦めて見せた。
「ナルキス様は、曲解されないでしょう」
「ふん。言いたいことは言え、叶えるかは別だという無礼な物言いを認めるのか」
「私に出来ることなど、あくまで人の括りでしかございませんので」
分を弁えたかのように言っているが、否定しないのかとナルキスの口の端がヒクッと引き攣る。
「ならば国を滅ぼせといえば、お前はするのか?」
「たとえお望みだったとしても、ミコトさまの意に添わぬことは決してなされぬでしょう」
「腹黒め…なんでよりにもよってミコトの運命とやらが、お前のように面倒な男なんだろうな」
嫌味であるにも関わらずシヴァが嬉しそうに微笑む姿が、ナルキスには小憎らしい。運命という言葉とナルキスに認められたという脳内お花畑状態であることも、そうでありながら顔面崩壊しない表情筋も何もかもが気に入らない。だが、こうして無駄話をしても仕方がない。ナルキスは気を落ち着けるため、不満などの感情を溜め息と共に吐き出した。
「他の神々とは違う偉大なるオレだが、下界ではほとんどの力を使うことが出来ない。巫女の協力が必要だという点に関しては他の神との差異もない」
シヴァは神妙な顔つきで、ナルキスの言葉に聞き入った。
「巫女は長い間、力を行使しなかった。莫大な聖力があるが、そのほとんどが休眠状態だ。無理に引き出せば、巫女の身体に負担がかかる。少しずつ使わせて容量を増やしていってはいるがな」
制御や調整については、ナルキスが全てを担っていた。特に認識阻害についての権能は人を廃人にすることも容易いため常に気を配っていたということは言われずともシヴァには察しがついた。神とはいえ、今は受肉した状態であるからには疲労などは避けられない。
「巫女に手を出すような愚か者に、生きる資格などない。そう驕った故に、オレは巫女を泣かせてしまった。結果が同じであったとしても、お前のように人間の法で処罰する方向で動く方が正しかったのかもしれない。納得はできないがな。…まあ、なんだ。オレが言いたいのは、巫女にとって酷な光景を目隠ししてくれて助かった」
だが、それとこれは別だとナルキスは言う。笑みが一瞬で消え失せると、美しすぎる人間味のない表情は神の圧倒的な存在感を増大させる。
「人間は己が一番大事であるという。だが他者を思う時こそ、己の限界を超えた力を発揮することがある」
ナルキスは絶対者として、人間であるシヴァを見下ろした。
「オレの巫女は優しいだろう?あんな怖い目に合っても、体が動かなかった、神がすることだからと何一つ言い訳をしない。あの子は、全てを投げ出してでも誰かを救える強い子だ」
「…人が積む徳として、自己犠牲は尊いものとされます。ですが神の御意志には反しているのでしょう」
ミコトが命を投げ出すこと、失われることを神は認めない。下手をすれば世界の法則を破り、蘇らせたり時間を巻き戻すことすらも簡単にやってのけるだろう。神の寵愛というには逸脱した愛情に、シヴァはミコトならば当然のことと受け止める。
「はは、お前も大概壊れてるな」
ナルキスは少しも表情を変えぬまま、声音だけで面白がって見せた。
「だからこそ、巫女を利用しようとしたり縛り付けようとする者は万死に値する。お前もそう思うよな?」
見透かされていると、シヴァは更に頭が下がる思いだった。ミコトの自由を奪う気など毛頭ないが、自分の傍にずっと居て欲しいと願う気持ちも確かに存在している。それがただのエゴでしかないことも、シヴァは分かっていたが。ナルキスが牽制するのも仕方がないと思えるほど、シヴァはミコトに依存していた。
「…はい。肝に銘じさせていただきます」
「その言葉、忘れるなよ。じゃないと、大変なことになるかもしれないからな」
言外に、運命だろうが何だろうが容赦はしないと殺意が滲み出ていたことをシヴァは正確に感じ取っていた。シヴァがしっかりと頷いたのを見届け、ナルキスは言いたいことは言い終えたと軽く手を振りながら一瞬でその姿を消した。
「ミコトさまが、この世界にいて下さるのならば私は満足です」
残されたシヴァは、静かに目を閉じて祈る。ミコトの幸福と安息を。