16 襲撃
軽く書いていますが、気持ち悪い表現や残酷表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
「まさか、こんな事をするなんて…」
私はがっくりと肩を落とした。シャワーを浴びてタオルで髪を拭きながら部屋に戻ると、鏡に黒い汚れがついていたいたのだ。王宮で生活するにあたり、私が仮住まいとしている客室に備え付けられた立派なドレッサーに。
寝起きの髪を整えたり、仲が良かったメイドから買い取らせてもらったスキンケアや化粧品を使う時に重宝していたのだ。けれど今や、ドレッサーの鏡には黒い液体がべったりついて見るも無惨な姿に変えられてしまった。
ついたばかりペンキのように、黒い液体は重力に従って流れていく。誰かが部屋に来て、わざと鏡を汚していったのだろう。盗むようなものがないから、せめてもの嫌がらせといった所だろうか。知らない間に部屋に侵入された事実は気分が悪い。
聖女を虐げ、皇帝に取り入る悪女。そう王宮内で囁かれているらしく、私を嫌う人は着実に増えていっているようだ。王宮でこれならば、町ではどんな風に噂されているか考えるだけでも怖い。まあ、客観的に見ればそれもしょうがないこととは思う。皇帝の客人でもなければ、貴族ですらない人間が王宮で悠々と暮らしている。一応、立場的には食客という形になっているが、単純に言えば居候だ。私が第三者的立場であれば「何だコイツ」と、絶対に思うし。
目を逸らしていた鏡に、もう一度目を向ける。何度見ても汚れが消えることはなく、ため息が出た。一体何の汚れなのかは分からないが、匂いがしないのが唯一の救いか。臭いものの代表格であるシュールストレミングの汁だったら、今頃私は卒倒していただろう。
「…まずは綺麗にしないと、だね」
この部屋は借り物で、この部屋にある物ももれなく借り物である。すなわち、破損すれば賠償責任が発生するということだ。流石王宮といった所で、大きなドレッサーは意匠を凝らされた彫り物もあって素人目から見ても素晴らしい。とんでもない弁償額が請求されるような、高価な物であることは間違いない。
元の世界に帰りたいのに帰れないし、聖女に命を狙われるだけでなく嫌がらせまで受けるとは。私の人生は呪われているのかもしれない。家族から引き離され、青春を奪われ、苦行を強いられた恨みを一体どこにぶつければいいのか。力こそ全て。やはり鍛えるしかないか、物理的にキィラを静めるために。
「諦めなければ何とかなる。とりあえず、面倒だけど掃除掃除っと」
私は自分にそう言い聞かせ、チェストに駆け寄った。引き出しを開けてタオルを二枚取り出して、一枚は水で濡らし、もう一枚は乾拭き用にする。
汚れを拭い去ろうと、まずは水拭きする。だが、不思議なことに汚れはこびり付いた頑固な焦げのように落ちない。乾いていないのに取れないだなんて、一体何の液体なのか。
額に浮かんだ汗を腕で拭う。…これは不味いかもしれない。あまり強くこすると鏡面に傷がつくだろうし、むしろ拭くことで逆に汚れの範囲を広げてしまった気がする。弁償という文字が頭に圧し掛かり、私は項垂れた。
「だめだ…どうやっても落ちてくれない」
こうなってしまった以上は、素直に謝るしかないだろう。弁償も、頑張ってする。ぐっと胸の前でこぶしを握り、私は無駄に「よしっ!」と掛け声をあげてベルを鳴らした。チリンチリンと軽やかな音が響くが、誰も来てくれる気配がない。え、完全無視?誰か探しに行った方がいいかな、と思いつつもう一度だけベルを揺らす。
すると、どこからか「無駄よ」と笑う少女の声がして、私は反射的に振り返った。少し目を離しただけなのに、いつの間にか鏡は真っ黒に塗りつぶされていた。何も映さない黒一色の、鏡だったもの。そこから女の白い手がぬっと伸びてきて、私は短い悲鳴を上げながら尻餅をついて倒れ込んだ。
ゆっくりと人の体が鏡から抜け出てくる姿は、まさにホラーだった。貞〇などのホラー映画を見た時も不安と恐怖に襲われたが、我が身に起こるとその比ではないくらい恐ろしい。鏡から出てきた女の正気ではない澱んだ目が、私を見つめる。つり上がった赤い唇が私を嘲笑った。
「せ、聖女様…?」
黒髪黒目で、ふんわりとしたボブカットの綿菓子のような女性。フードのない顔を見たのは初めてだったが、彼女が聖女キィラであると直感的に分かった。だが、こんなにもおどろおどろしい雰囲気なんてしていなかったに。なんで、どうして。そんな疑問に支配される私に、ひんやりとした声が向けられる。
「あなたって、本当に邪魔ね」
鏡であった物から抜け出してきたキィラは、立ち上がれない私の前にしゃがみ込む。見られているだけで怖気が這い上がり、全身に鳥肌が立った。
「あなたは殺されて当然の人、そうみんなに教えてあげたのにね。なかなか死なないから、来ちゃった」
明るく、友人にでも会いに来たような軽さでキィラは言う。
「足を潰されたアリや、塩をかけられたナメクジのようにもっと哀れで見苦しい姿を見たかったのに。あなたの周りには、私の力があまり効かなくなるみたい。みんなの殺意を煽り切れなかったなんて、私もまだまだなんだって落ち込んじゃったのよ」
明確な殺意を向けられて、ぞわっと悪寒が背筋を駆け上っていった。しかも質の悪いことに、自分の手は汚さないタイプだ。煽るとか言っていたから、殺人教唆だけして高みの見物を決め込んでいたということだとサスペンス脳が答えを導き出す。声も出せない私に、キィラは目を見開いたまま微笑んだ。
「酷い人。物語を台無しにして楽しんでるのよね?せめて貴女の人生をぐちゃぐちゃに踏みつぶしてあげたかったのに、全然そんなことにならないから最高にムカついたわ」
キィラは言葉とは裏腹に、満面の笑みを浮かべながらくるくると回って見せた。
「私って凄く可愛いのよ。それに、とても可哀想なの。か弱い美少女が虐められてるなんて、男の英雄願望を刺激しちゃうでしょ?しばらくは楽しかったんだけど、いい加減あなたを殺さなくちゃ気が済まなくなってね。汚らしいゴミのくせにチヤホヤされて楽しかった?私は貴女のせいで嫌な思いをしたのにね。最後ぐらい、無様な声で鳴いて死んでちょうだい」
私に伸ばされる、赤いネイルの指先に私は声を絞り出す。勝手なことばかり言って、ムカつくのは私の方だ。今の平穏を手に入れるまで、どれだけ私が大変な思いをしたと思っているのか。だんだんと胸の内が熱く燃え滾ってくる。
「馬っ鹿じゃないの。自意識過剰で、恥ずかしい人」
キィラは、一瞬何を言われたか分からず笑顔のまま固まった。数拍の間をおいて言葉が呑み込めたのか、怒りと羞恥でカァァっと顔を赤くして大きく手を振り上げる。チャンス、と私は足に力を入れた。この隙を狙っていた私は無防備な胴体に体当たりし、キィラは衝撃を堪えることが出来ず背中から倒れ込んだ。
こんな人に殺されるなんて、絶対に嫌。私は立ち上がり、廊下へと続くドアへと駆け寄る。勢いよく扉を開けて、廊下へと飛び出す。どこに逃げよう。どこかの部屋に隠れるか、それともシヴァを探すか。瞬時に思考をめぐらせ、とりあえず走るのみと駆けだそうとした足はたたらを踏んだ。
「こんばんは、巫女さま。いい夜ですね」
目の前には壁、ではなく男性の体が立ちはだかっていた。騎士服を赤く染め、鞘から抜かれたレイピアからは血が滴り落ちている。体の中を侵食してくるような濃密な血の香りに、えずく。
貧血のようにふらつく体を、私の腕を掴んで騎士が引き留める。この赤髪の騎士は、孤児院から王宮までの案内人を務めてくれた人だ。血と死の匂いを纏った、恐ろしい雰囲気の人。いつも微笑んでいるように見えて、心の伴わぬ人形のように作られた歪な狂人。
慌てて掴まれていた腕を払いのける。男は容易く私の腕を放したが、距離が近い。元々私のパーソナルスペースは広く、特にこの男の場合では数百キロ単位でのソーシャルディスタンスを保って欲しいぐらいだ。
「最悪極まりない来訪者が続けてくるなんて、最低な夜ですよ」
「アハッ、貴女は本当に可愛らしい方だ。元から特別な存在とやらを殺めるのが趣味でしたが、これから本物を手にかけることが出来るなんて最高ですね」
「騎士の癖に狂った殺人鬼だなんて、何の面白みもないです」
私の憎まれ口に、男は可笑しそうに笑い声をあげる。前門にはイカれた騎士、後門には同じくイカれた聖女。何とか隙を見て騎士を突破したいところだが、残念ながら想像の中での私は背中を切りつけられていた。
「さあ、素敵な騎士様。どこから痛みをあげるの?勿体ぶらずに、早く見せてちょうだい」
愉悦に浸る二人の表情は本当に楽しそうで、私は心の中で「くそったれめ」と悪態をつく。家族に看取られて老衰する私の夢を、こんな二人に奪われるなんて許せない。けれど今の私は本当に無力で。振り上げられた剣に、私は硬直した体を抱えてぎゅっと目を閉じた。
だが、痛みはこなかった。ガキンッという音がして、そのまま周囲は無音になっていた。
恐る恐る目を開けてみると、呆然とした男の姿があった。手に握られていた剣は、中央からポッキリと折れてしまっている。もしかしてナルキスが助けに来てくれたのでは、と思ったがナルキスの姿は見えない。
というか、この緊急事態にあの神様は一体どこをほっつき歩いているのだ。私がお風呂に入る前「散歩に行って来る。心配しなくてもいいぞ」と言って、部屋を出てからそのままだ。巫女だなんだと言っておきながら、実際は奴隷のようにこき使って捨てるんだ。
「それはあまりに酷い勘違いだ!」
頭上から声がして、バッと上を向くと建物の梁に跨るナルキスの姿が見えた。暗くてよく見えないが、存在が光っているようなものなので見間違いではない。
「そこで何をしてらっしゃるんです…?ドン引きです」
「君を見守っていたんだ!そんな冷たい目を向けないでくれ、心が痛い!」
ナルキスが泣きそうな声を上げた瞬間に、ガンッという音がする。目を向けてみると、男が顔を赤くしながら折れた剣で私を攻撃しようとしていた。だが、それは私に触れる前に弾かれてしまっている。
「これはナルキス様が?」
疑問を投げかけると、ナルキスは「よっと」と言いながら軽快に地面へ着地した。猫のような動きだった。
「いいや、君が受けた祝福の効果だ。それよりも殺される寸前まで相手を許そうだなんて、私の巫女は優しすぎる!」
相変わらず意味の分からないことを言うナルキスに、何を言っているんだかと白けた目になる。とりあえず今の状態はナルキスと初めて会った時に祝福と呪いが混在してると言っていたから、そのおかげで私は殺されずに済んでいるらしい。得体のしれないものだが、今回に限っては有難いことだ。
「俺が巫女のために力を振るうのはこれからだ。私の勇姿をよーく見てるんだぞ!」
ナルキスの言葉に合わせて、周囲が明るくなる。昼間のような明るさに、影は濃く長く伸びていく。急すぎることに私が目を白黒させていると、男が悲鳴を上げた。
「私の巫女の命を狙うなど、万死に値する。だが私の巫女は優しいゆえに、お前を強く思う残留思念たちに裁きを任せよう」
いつの間にか多くの人の影が男を取り囲んでいる。その影の中には、血まみれの使用人たちの姿もあった。影たちは一つの大きな化け物になって、男に向かって口を開く。
あ、嫌だ。見たら正気でいられなくなる。だってパニックホラーとかでよくある展開だ。男がどうなるかなんて、考えるまでもない。見たくない、見ちゃいけない。なのに私の目は閉じることを忘れた様に、目の前の光景に釘付けになっていた。
「ミコトさま…っ!」
恐ろしいそれを遮ったのは、息を乱したシヴァだった。異常に気がつき駆けつけてくれたようだが、今の私は頭が回らない。ただ、ぎゅっと抱きしめられて目も耳も塞がれた。なにかシヴァが言った気がするが、何も聞こえなかった。
男の絶叫がいつまでも頭に残る。はっはっ、と荒々しい自分の呼気が五月蠅い。離して欲しいとシヴァの体を押すと、頭に上着がかけられた。
「さて、次は君だ。君は因果応報が相応しいだろう。私の巫女を傷つけたこと、何百回と死ぬ中で深く反省しろ」
ナルキスが判決を下し、青ざめて震えるキィラへと手を向けようとするのを私は必死でとめた。見なくていいとかけられた上着が落ちるのを気ににも留めず、ナルキスの腕にしがみ付く。
「やめ…!やめて下さい!殺さないで、お願いします…!」
許すまじと怒っていたのは本当だ。けれど死んでしまえだなんて思っていない。何よりあんな恐ろしいことの発端が自分だなんて耐えられそうになかった。弱虫だとか、チキンだとかどう言ったって構わない。偽善者でも卑怯者と呼ばれたっていいのだ。
ナルキスは呆気にとられた顔をしていた。私のためを思っての行動なのだと分かっているから、それを真っ向から否定してしまうのは心苦しい。でも、あの騎士のように目の前で死なせたくなかった。ナルキスは伸ばしていた手を静かに下ろした。
「…悪かった。君はこの女も、怖がらせたオレのことも思いやってくれているんだな」
そうじゃない。ただ、自分を守るためだ。どうしてこの神様は、私を頭のおかしい聖人にしたがるのか。ブンブンと首を横に振ると、滲んだ涙が散った。
「君の表面は自罰的というか、悪者にしたがるのが欠点だな。オレは君の心を読めるんだぞ」
「ナルキス様の言うことは納得できません!私を理由にして誰かを罰するなんて、ありがた迷惑だって言っているんです!」
「ツンデレは萌え。よく分かんだね」
「本から変な知識を吸収しないでください!」
ナルキスは、褒めるように私の頭を撫でる。少なくとも今は聖女を攻撃する意思を引いてくれたようだ。ホッと息をつき、私はキィラはと目を向けた。
「…聖女さま…?」
キィラは、ぼうっと中空を見上げたまま脱力していた。魂が抜けてしまったような空虚な姿に、私は慌ててキィラに近づく。
「間に合わなくて一回だけ幻想の中へ意識を放り込んだんだ。まさかそれくらいで自失するとは、どれだけ恐ろしいことを考えていたんだか」
「ど、どういうことですか?聖女様は大丈夫なんですか?」
「この女が、君を害そうと考えていた内容を精神だけで体験させただけだ。生きてはいるから、とりあえず安心するといい」
ナルキスの言葉に、私は安堵に胸をなでおろした。後から助けなくて良かったのではと思うかもしれないけれど、今はただ良かったと思う。とにかく、どこかで休ませてあげないと。
彼女の体を抱えようと近づこうとすると、シヴァが私を止めた。目で合図を送り、シヴァと一緒に来ていた一人の騎士が進み出た。あの狂人だった男は赤髪だったのに対し、柔らかな茶髪の男性だ。全く違う人間であるというのに、私は自分で制御できずガクガクと震えてしまう。
それを見たシヴァが、すぐに震える私の体を抱きしめてくれた。そして茶髪の騎士へ指先の動きだけで指示を出す。「脱げ」といったようで、騎士は素早く鎧を脱いで軽装になった。なんか、申し訳ない。
そして、茶髪の騎士がキィラを小脇に抱える。気絶している人にその持ち方はどうかと思わなくもない。だが不快そうにぎゅっと眉間に皺を寄せている顔を見ると、抱えてあげて欲しいとお願いするのも可哀想な気がする。運んでもらえるのには変わりないのだから感謝こそすれ、恨まれる筋合いはないだろう。私は見ないふりを決め込んだ。
「新しい部屋へご案内します」
国王様自らが案内してくれるなんて、この上ない贅沢というか畏れ多い。かといって断る勇気もなく、ただ黙ってついていく。ナルキスはいつ用意したのか、反省してますと書かれたプレートを首から下げて私の三歩後ろを歩いた。
「どうぞ、こちらの部屋をお使いください」
別の部屋は、私が使っていた部屋よりもさらに豪華な感じだった。隣はシヴァの私室だということで、もう何者も決して近づけませんと安全を保障してくれた。国王の隣の部屋で、豪華な客室よりも上品な部屋。深く考えてはいけないと、私は何も気づいていないように笑ってお礼を言った。