プロローグ 異世界転移
目の前には、父だと名乗る神様がいた。
鮮やかな赤い目が私を見下ろし、人ならざる美しさと凍えるような威圧感を吹きかけてくる。生き別れの家族だと言われても、そんな言葉を信じられるはずもない。だが、喉がカラカラに乾いて反論どころか言葉を一つも発することができなかった。ただのひ弱な人間でしかない私は、ただただ嵐が過ぎ去るのを身を縮めて待つしかない。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。元々私は、日本で暮らす新人女子高生だった。気づいたら異世界転移をしていて、特別な能力があると国に買われた被害者である。徐々に私の周囲に増えていく神々。彼らは一癖も二癖もある方々である。そんな彼らを筆頭に、何故か私は神々から好意を向けられているらしい。全くもって意味が分からない。
「ミコトと言ったな。望みを言え」
血も涙もないという皇国の皇帝。実は神様で、私の父でもあるという。頭がおかしいとしか思えないが、そんなことを正直に言えば首が飛ぶだろう。望みなどを口に出せば、代償として命を奪われそうだ。ブルブルと震える私に、押しかけ女房ならぬ五大神将と謳われる神々が口を挟んでくる。
「確か美食巡りがしたいって言ってたよね」
「仕事なんかせず、寝ていたいとも言っていたぞ」
「面白いゲームがしたいとも仰っていました」
「そんなことよりも、まずはミコトちゃんを害する悪を滅ぼすべきよ」
「同意です。虫けらごときがミコト様の慈悲を賜るなど図々しい。やはり爆散させましょう」
私の本当の望みを知っているくせに、わざとはぐらかす言葉の数々にじわっと殺意が湧いてくる。どうして神々は私のことをお気に入りだという癖に、たった一つの願いすらかなえてくれないのか。
「この世界は全てミコトのものだ。ならば、まずは全てを無に帰そうか」
その後で好きなように作ればいいと、簡単なことのように口にする。滅びの後に再生があるという言葉はよく聞くけれど、自分のためだけに世界を作り替えるなど私を魔王にでもする気なのか。冷や汗はダラダラ、足元はガクガク、今にも私はブラックアウトしかけだった。どうしてこうなるの?神の悪戯にしても、質が悪すぎる。
「さあ、教えてくれ。私が何でも叶えてあげよう」
「元の世界に…」
「やはりこの世界が気に入らないのだな」
「いえ、そうではなく…」
「やはり、この世界は無駄に存続し過ぎたのだ。なに、新しい世界を作ることを不安に思う必要はない。私が傍で教えてやろう」
何でも願いを叶えてくれるって言ったのに、全然話を聞いてくれないじゃん!
頭に血が上ったことで、極度に強いられていた緊張の糸がプツンと切れる。目の前が暗くなっていって、体は重力に沿って地面へと引き寄せられる。薄れゆく意識の中で叫ぶ。
──私はただ、元の世界に戻りたいだけなのに!
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冬は好きだった。
入ったら抜け出せなくなる炬燵に、沢山の野菜や肉が入ったお鍋。目を奪われるイルミネーションの明かりに、クリスマスイベント。寒くて辛い季節は、大切な家族や友人たちがいたからこそ楽しくて暖かかった。
いつもと同じ、変わり映えのない日常。
工事現場の鉄骨が落ちて来たり、お祭りの時に大爆発に巻き込まれそうになったり、交通事故や、雷に打たれるといった即死不可避のオンパレードな日常だったけど。もう本当に信じられないような、何で生きてるのと不思議がられるような不幸体質ではあったけど。沢山遊んで、時々勉強して、笑って、泣いて、悩んで、また笑えるような毎日を過ごしていたのだ。
それが今や瞬きした瞬間にどこかも分からない場所で一人、ポツンと捨てられた玩具のように座り込んでいた。知っている人も知っている場所もない。あまりにも一瞬の出来事すぎて、寝起きのように覚醒しない頭は靄がかかっていた。
今が夢であると思うが、その一方で今までの日常こそが夢であった気もする。直面している現実から分かるのは、あの幸福な日々が終わりを迎えたことだけだった。
凍てつく寒さは一瞬で体温を奪い去り、痛みを通り越して感覚を失っていく。雪の降る、テントや小屋のような建物が所狭しと密集したスラム街。不思議の国のアリスやオズの魔法使いのように異世界に迷い込んだ私は、ただの迷子だった。夢なら早く覚めて欲しい。帰る方法があるなら、誰か教えて欲しい。怖くて不安に圧し潰されそうで、赤ん坊になったように泣きたくなった。
誰かに助けてもらいたくて、明らかに異人である人々に話しかけようとするが誰もが私を避けていく。どうか逃げないで欲しい。家に帰りたい、家族に会いたい。ただ、それだけなんです。そんな私の訴えに耳を傾けてくれる人もおらず、だんだんと意識を保っていられなくなる。
このままでは凍死する。とにかく寒さをしのがなければならない。けれど、どこに行けばいいのか分からない。せめて新聞やアルミシートがあれば。そんな都合のいいものなどそこらにあるはずなく、マッチ売りの少女のように燃やせる物もない。
私はすぐに動き回る体力も尽きてしまい、建物の影に蹲ってしまった。このまま死ぬんだと悟る。そうして目を閉じたけれど、奇跡的に私はその日を生き残ることが出来た。
生きていることを喜んだのも束の間、目が覚めても家のベッドではないことに絶望したけど。雪は止んでいたが、寒さはより酷くなっている気がした。
一応寝たからか、昨日よりも頭は冴えている。こんな場所にいる前は、どうしていたんだっけ。学校が終わって帰宅しようとした所までは覚えているが、家に帰りついたかどうかも覚えていない。
青い空に白い雲は一緒だが、電柱一つ見当たらない異国情景。明らかに外国の人々。寝ている間に誘拐されて、外国に運ばれたとか。誘拐犯、いないし売られた訳でもないからその線は薄そうだが。
でも、どちらかというと異世界転移かもしれない。気づいたら異世界だった、なんて話は定番化されていたし。でもそういうのって、召喚者がいて転移者を導いてくれるものじゃないの?
あと強くてニューゲームみたいにステータスが高かったりして、俺つえぇ系。サバイバル生活だって、可愛いペットと友達になって楽しくなるって展開はどこ?
ナビゲーションもなく、どうやって生き残れというのだ。現代っ子は逆境に弱いんだぞ。自分一人で生活したこともない子供に、何ができるというのだ。
「どうせなら、ゲームの世界にトリップさせてくれたらいいのに」
モブとか憑依ネタでも、今なら大歓迎。転生者は死んでるので、もちろん却下だが。現状に苦情をつけても、聞いてくれる誰かが居るわけじゃないけど。全部私の独り言で、くだらない妄想だ。神は私を見捨てた。何もかもが虚しくなって、私は三角座りの太ももに顔をうずめる。
はぁぁ、と溜め息と共に妄想も一緒に吐き捨てた。ないものねだりをしても、意味はない。これからどうするか、考えないと。運よく夜は越せたけど、刻一刻と命がすり減っているのを感じる。日本大使館とかないかな。異世界なんだから、ある訳ないけど。体が鉛のように重くて、どうにもこうにも億劫だ。
何事も諦めが肝心。大人はそういうものだと元担任が口癖のように言っていたし、私も大人になる時が来たのだろうか。とはいえ今の状況で諦めることは死に直結しているので、先生の有難いお言葉は早々に怒りのマグマに投げ捨てる。
ガチガチに固まった体を起こそうとした。貧乏ゆすりだって筋肉を使えば熱が生まれるからするのだし、カロリー消費でダイエットにもなるかもしれない。なんて馬鹿なことを考えても、気力ではどうにもできないことはある。
力を使うためのエネルギーがない。体もガチガチに固まっていて、何度も転んでしまった。辛くて、苦しくて、寂しくて、悔しい。体中が痛くて、じわっと熱い涙が溢れてくる。この負の感情のオンパレードを、無慈悲な神にパイのごとく投げつけてやりたい。
「帰りたいよ。お父さん…お母さん…晃…」
寒いし、お腹が空いた。ラーメン、肉じゃが、すき焼き、その他もろもろ。家族や友人たちと食べた料理たちを思いだす。母さんの料理する背中、父さんは毎朝トイレに新聞を持ち込み、弟の晃は私にべったりだった。友人と行ったお洒落なカフェや学校行事。幸せだった思い出に浸る。
そこに割り込むように、いきなり金髪の少年の姿が見えた。天使のように愛くるしい少年が、眩い笑顔を私へと向けてくれる。もしかして、お迎えだろうか。けれどその幻も一瞬で終わり、次いで現れたのは美男美女が私を優しい笑顔で見下ろしている姿。
いや、余裕がある時なら目の保養だと喜んだだろうけど。走馬灯なら、天使と家族だけで十分だと不満に思う。いつもの日常の夢を見ながら眠りたい。脆弱な心は萎びた花のように弱り切っていた。寒さと痛みと空腹に苦しみながらも、その日が終わって、また明日が来ても私は生きていた。
吹けば飛ぶようなボロボロの体と精神状況で、二日も生き残ってしまった私は何とか生き残ることを模索し始めた。市街地で要らないとされた不要な物、壊れた道具だとか残飯だとかを不法投棄しにくる人たちは意外と多い。そうして築かれたゴミ山は、スラムの人たちにとっては宝の山であったので慈善事業もどきにはなっていた。
だが、私がその恩恵を受けることは出来なかった。ゴミ山付近には、元々スラムで暮らす人たちが多く集まる。彼らの結束力は強く、縄張り意識も強い。私はスラムの人たちの仲間に入れて欲しかったが、余所者と嫌われて遠ざけられる。ただ共用の場とされる水場では、大目に見てもらえたので本当に有難かった。
人間の体のほとんどは水で出来ていて、水がなければ脱水によって五日も生きれるかどうかという問題だ。逆に水だけでも一週間は生きられるし、一か月でも生き残る可能性はある。その水が市街地から流れ込む工業廃水混じりでも、お腹を壊して苦しんでも最後の生命線だった。
帰りたいという欲求は、日々を生き残ることに必死な私にとって重要度が低くなっていったのは仕方ないだろう。受験を勝ち抜き、偏差値は平均であるが可愛いと評判の制服。嬉しくて家族にくるくると回って見せびらかした日々は、今は遠く憧れのように霞んでしまっていた。
ゴミ捨てに来る人に慈悲を乞う。草や木の根をかじり、空腹を紛らわせる。そうした日常を過ごし始め、過去の思いを断ち切るように、汚れた制服を処分してお情けでいただいた古着に袖を通した。
弟からプレゼントで貰った可愛いヘアゴムは切れて無くしたので、紐できつく髪をしばった。一つずつ平和で幸せだった頃の思い出を捨てて、この世界に馴染んでいく。誰にも甘えられない状況で、食べるものを探すことに必死な私は弱気になれば死ぬことを知っていた。
お腹がすくのは辛い。体が汚れていくのが辛い。話し相手がいないのは辛い。辛いのオンパレードではあったが、私は生き続けた。