9.私はあやかしの「普通」をお手伝いしたい。
ーーあ、定時。
夕日が眩しい時間になったので各階のブラインドを下げ終えて戻ったところで、ぴったり18時を指した時計と目が合った。
社員一同、示し合わせたようにガシャンガシャンとタイムカードを切り、そして再びデスクに戻っていく。出遅れていると、チラリと部長へ私を見た。早く切れ、という意味だ。
視線で促されるままに立ち上がり、扉近くのタイムカードへと手を伸ばす。
切る前にもう一度、私は部長へと向き直る。
「私、やっぱり、会社辞めさせていただくのは難しいですか?」
「まだいうのか、君は」
部長は私に目すら向けないまま、はあ、とこれ見よがしに溜息をつく。
「まだ就職して二年目だろう? そんなこと言ってどうするんだ。外じゃそんなんじゃやっていけないぞ」
「……はい」
「そんな甘ったれた若者が多いから、最近は少子化だのなんだの。普通、君の立場では辞めたいなどとは言わないものだと思うけどね」
普通。その言葉に一瞬胸がズキンとする。けれど私はやっぱり、思っていることは少しは伝えたい。
「……営業事務をしつつ営業さんと同じだけ、営業成績を取ってくるのは私は向いていないと思いますし……」
「はあ?」
「暫くの間は、営業成績の件についてはもう少し基準を緩めていただけますか? このフロアの庶務作業もほぼ私一人で回してますし、もう少し」
「君。ちょっと思い違いをしていないか?」
少し低い声で言われ、私は何も言えなくなる。
「逃げるのか? 逃げるのだろう、現実から。多少辛いからって現実から逃げていると、今後の君の人生に絶対よくない」
「……はい」
「そもそも、君のような「普通」の学生を雇ったのも、単純に職場が近いから期待してあげようというだけで、変わりはいくらでもいるのだからね」
やっぱり難しかった。
私が諦めてタイムカードを差そうとした、その時。
電話が鳴り響く。部長あて、社長からの内線だ。
「はい、……ああ、お疲れ様です。私ですが一体どうしましたか?」
受話器を耳にあてた部長の表情が次第に固まり――見る間に顔が青ざめ、視線が泳ぎ始めた。
「――はい。わかりました。はい。ええ、それでは失礼いたします」
受話器を置いた部長はじっと沈黙していた。先ほどまでの威勢がない。
小さな声でうめくように彼は言葉をつぶやいた。
「菊井、帰れ」
「えっ」
「いいから、帰りなさい。もう来なくてもいいから」
「え、えええ、え?」
突然の猫なで声。
「辞表を受け取っていただけるということでよろしいでしょうか」
「いいから。うん。君の気持ちはわかったから。……後の話し合いは、ちゃんと受けるから」
私はタイムカードをかしゃりと打刻する。
「お、お疲れさまでした……!」
深々と挨拶して、私は明るいうちに、会社を後にした。
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何が起きたんだろう。
呆けたまま会社を出てふらふら歩いていた私は、後ろから車が近づいてくるのに気づかない。
クラクションが鳴らされる。振り返ればそこには見覚えのある車があった。
「篠崎さん!」
「乗れ。駅まで送ってやるよ」
「ありがとうございます」
社用車の後ろには結構荷物が詰め込まれていて、私は自然と助手席へと座った。
車の中ではFMラジオが小さな音で流されている。
国道三号線を一直線に香椎方面へ多々良川を越えて向かう社用車は、迷いなく私の実家のほうへと走っていた。
車が流れに乗ったところで彼は話を切り出した。
「体調は? 夜に霊力ずいぶんと吸われただろ」
「ええと……全く大丈夫です」
「そうか」
一言だけだったが、此方を案じてくれていたのが伝わってくる声音だった。
私は篠崎さんを見やる。
窮屈そうに座席からはみ出したしっぽがラジオから流れる洋楽バラードに合わせて揺れている。無自覚なのだろうか。
もふ欲がむらりと湧き上がってきたところで、それに反応するようにしゅるりと腕に黒い尻尾が絡まってくる。
後部座席から黒猫――夜さんがのぞき込んできていたのに気づいた。
「あひゃあ」
誰も乗っていないと思い込んでいた私は驚く。私の態度に夜さんも耳をピンと立てて驚く。
頭からすっぽりかぶったローブ姿ではなく、彼は真新しい黒いスーツを着ていた。見た目だけは人間と全く変わらない。誠実そうな感じの人に見える。
私たちの様子に篠崎さんが声を立てて笑った。
「気づいてなかったか。さては夜、猫の姿で丸くなってたな」
「はい」
「人の姿で安定するにはまだ霊力が戻り切れていないか。まずは安定しないとだな」
篠崎さんは琥珀色の瞳を私へと向ける。
「夜もあんたのこと心配してたよ。あんたに何かあれば、主を失ってまた野良猫だからな」
こくこくと頷く夜さん。
「へへ、心配してくれるイケメンが二人もいるなんて嬉しいですね。うへへ」
「なんだそりゃ」
夜さんはすっかり顔色も耳の毛並みもつややかで、別猫のように落ち着いた様子だ。
あやかしは主を必要とする存在と、主がいたほうが霊力が安定する存在と、土地を主として生きられる存在、その他いくつかのタイプが存在するらしい。人間も人それぞれ自分にあった暮らしが違う。そういう感じなのだろう。
夜さんはもちろん、主がいる方が落ち着くタイプだ。
「夜さん、これからどうするんですか」
「しばらくは現代の人の世を学ぶことから始めるが、おいおい篠崎社長の元で世話になりたい」
「あら」
「営業はほぼ俺一人でやっていたが、こいつ思ったより使えそうだからな。荒事も得意そうだし」
「てっきり占い師でそのまま勤めると思ったんですが」
「合わねえな」
篠崎さんはばっさりと切る。
「話を聞くのは上手いが、現代社会に寄り添ったアドバイスが全くだ。あと占いも知らない」
「占い知らなかったんですか!?」
でもまあ確かに、話を聞いていて明らかに猫としてのアドバイスをされていたような気がする。人間向けっぽい内容は全てどこかで聞いてきた丸暗記のセールストークだったし。
「霊力を奪うためだけにやっていたことだから仕方ない。今では反省してる」
「夜さんなら大丈夫ですよ。私も転職頑張るので、一緒に頑張りましょう」
「ところで」
「はい?」
「楓殿、撫でたいのか?」
しゅるしゅると私の腕に尻尾が絡まってくる。どういった仕組みなのか、ネクタイを締めたのどの奥からごろごろと音が聞こえてきた。
「えっ!? あの、でも……!」
「撫でて欲しい。楓殿の手、気持ちいいから」
目を細めた夜さんは私に頭を差し出してくる。人間の、しかも美男子の姿でだ。
「えええ……」
「あとちょっと舐めさせてほしい」
「!?」
「楓殿は、美味しいから……ちょっとだけ」
上目遣いに見上げてくる、その瞳が妖しく輝いている。私はぞくりとした
篠崎さんが契約を結ばないと危ないといった意味がわかった。気がする。
「な? 猫に理性なんざあるわけねえだろ」
「あはは……」
夜さんはそのまま猫の姿になり、私の膝に乗ってきた。まあ猫の姿ならいいやと、膝でごろごろとあやす。
「ところで」
千早駅が見えてきたところで踏切の渋滞に入り、車のスピードが緩やかになる。そのタイミングで篠崎さんは私を見やった。
「どうする? あんたはこのままうちに就職していいだろ?」
「……辞めさせてくれたのは、もしかして篠崎さんですか?」
言葉では返事をせず、ぺろりと舌を出す。成人男性がそれをやっても魅力的に見えるのだからずるい。
「辞めさせといて私の意向を聞くって、それはないですよ」
「や、一応聞いとかねえとな」
「さっき篠崎社長、ベンゴシに釘さされてた」
「えっ」
「さっき電話をかけていたのは、ベンゴシというあやかしだ」
膝の上で猫の姿であくびしながら夜さんがいう。チッと、篠崎さんが舌打ちする。
「いうなバカ」
「にゃあ」
猫だからわからない、そう言いたげな白々しさで私の膝で丸くなる夜さん。毒づきながらも顔が笑っている篠崎さん。なんだかあまりにも和やかな光景で、私はつい笑ってしまった。
疲れていた肩が軽くなる。
こうして、仲良さそうにしている夜さんと篠崎さんの関係を見ていると、あやかし皆がこんな風に、素直に過ごせる世界を作りたいと思う。『此方』では普通として扱われない存在が、普通に過ごせるお手伝いをしたい。
私は自分の手のひらを見た。
会社では私なりに、たくさん資料を作って、たくさん仕事をして、たくさん貢献してきたつもりだ。
感謝もされなかったし、毎日怒鳴られてばかりで。
でも、それが普通だと思っていたから。普通だから、我慢しなきゃと思っていた。
けれど。こうして私の能力を認めて、私を求めてくれる人がいる。
私は――そういう場所に転職したかったんじゃないの?
普通じゃないけれど……ううん。
「篠崎さん」
「ん?」
「この仕事、普通じゃないから嫌だって思ってましたけど、この仕事も普通ですよね」
私は自分の中で確かめるように言う。
「困っている誰かに、生きていくための仕事を見つけたり。得意なことを一緒に探したり。それで誰かが幸せになるなら、そのお手伝いをできるなら、それって素敵な『普通』ですよね……」
「ごく普通の、ごくごく当たり前の仕事さ。あやかしに『普通』を与えるのが、何がおかしい」
踏切が開き、車の流れが動き始める。
ビルの合間から、ぎらりと輝く夕日が目を焼いた。
「――私やります。夜さんに向いてることを力説した私が、自分のできる事や向いてることから目をそらすのって、なんだか違うと思うので」