嵐の先の暗き森 - 1
宿に一泊した王子たちは、主人に頼んでいたその日の昼食を受け取って村を出た。
昨日吊るされたばかりの死体が、やや白みを増して風に揺られている。
今日も引き続き、絶好の旅日和だ。
「ゆっくり休めたね!」
「さあ行こう。今日中に最初の休憩所まで着かないとな」
「今日は休憩所に泊まるんだ?」
「そうそう。ここから先はちょっと長いぞ、頑張ろうな」
せいぜい半日程度あれば子供でも着いてしまうこの村と違い、次の河沿いの村までは結構な距離がある。突貫で移動を続けるならともかく、夜間の移動を避ける前提で向かうなら、最低でも七日間は見積もっておくのが一般的だ。
勿論、移動手段や進む早さによっては更なる日数を要する。
第三王子の励ましに、第四王子は元気良く答えた。
「大丈夫だよ。僕、まだまだ歩けるよ!」
「あーいや、移動の疲れの事もあるけど、それよりもな……」
「?」
「まともな風呂がない」
「あっ……」
あれほど明るかった第四王子の顔に、初めて戸惑いが浮かんだ。
道中に休憩所は設けられている。よって余程無茶な強行軍とならない限り、野外で一夜を明かす羽目になる心配はない。
が、大人数が風呂に使える程の大量の水を切らさず輸送するにはコストがかかりすぎる為、城でしていたように、甘い香りのする花弁を浮かべた浴槽でのんびり体を温めた後は香油を塗って、など夢のまた夢である。良くて体を拭く布を用意してもらえる程度。屋根の下で風雨の心配なく眠れるのが第一目的であり、快適性は二の次だった。
王都に近いこの村のように、村や町に隣接する休憩所ならぐっと環境は良くなるが、他はどこも似たり寄ったりである。昔は、あそこで寝るよりは野宿の方が快適だと人々に揶揄されるような建物もあったのだとか。
今は指導が入ったおかげでそこまでではないものの、依然として衛生面では完璧とは言い難い。
「贅沢を言ってはならぬ。
骸を積み上げて築いた風除けの土塁の中で寝泊まりするのと比べれば、建物なだけで有り難いというもの」
「うええ、僕、敵兵の死体から剥ぎ取った肌着を重ね着して暖を取るのやだよぉ」
「誰もそこまで酷な要求してないから」
「虫刺されは覚悟しましょうという程度の話ですよ。
入浴に関しては、私は問題視していません。普段から書庫に篭って三日間入浴しないなど良くある事です」
「それは良くある事であってほしくなかった」
今日もまた馬車の外を歩いていたブラックローズが、心なしか気落ちした様子の第四王子を慰めた。
「第四王子様、元気を出しましょう!
いよいよ悪臭に耐えられなくなった時は、私がそれに気付けないくらい強い花の香りを発して皆さんを包み込んでみせます」
「うん、そうだね! まだまだ旅は始まったばかりだもんね」
「上塗りして誤魔化してるだけで全然根本的な解決になってないな」
「それより彼女の発する芳香は確か」
「忘れかけてたのに思い出させないでくれ兄上」
かくして、王子一行は堅実な足取りで第二の村へ向けて旅立ったのだが――。
「橋がない?」
ようやく着いた村で早々に聞かされた話に、どういう事だと第一王子は尋ね返した。
どういう事も何も、そのままの意味ですよと村人が答える。
見れば、橋が通れない事を知らせる大きな看板までもが村の各所に立てられていた。
「昨日の夜いきなり河が荒れてね、橋が落ちちまったんでさあ」
「河が荒れた? 俺たちが来た道は何ともなかったけどなぁ」
「荒れたとしても、そうそう崩れるような造りの橋ではなかった筈ですが」
「んな事言われても、現に崩れちまったものはねぇ。信じられないってんなら、ご自分で見に行かれたらいいですよ」
一同は顔を見合わせる。
早く宿に入りたい気持ちであったが、唯一の道が失われたと聞かされては確かめずにはいられない。
王子たちは頷くと、馬車を通りの先に向けた。
「こりゃあ酷いな……」
なるほど、これではどこにも疑う余地はない。
石で組まれた頑丈な大橋が、橋脚だけを残してぼっきりと折れてしまっていた。
その橋脚ですら半分以上が流されてしまっている。岸辺には住民や通行人が途方に暮れた顔で集まって、これからの事を協議していた。河を挟んだ向こう岸でもおそらく同じような話をしているのが、遠目に確認できる。
どうやら昨晩この河が相当に荒れたというのは本当らしい。そんな事実が冗談だと思えてしまう程、現在の流れは落ち着いているのに。
嵐どころか風の音ひとつ聞こえなかった、休憩所の夜を王子たちは思う。
しかし、これは一行にとって非常に困った事だった。
魔女の森へ行くには、この橋を通って対岸の村へ渡らなければならない。
そこからまた街道を進んで王都に次ぐ第二の町に着いたら、いよいよ魔女の森を目指しての本格的な旅が始まる。
よってここは最初の村と同じく通過地点に過ぎないのだが、単なる通過地点として考えられたのは、あの橋があったからだ。
土地と土地とを隔てる河は、実のところこの国で最も大きい。
到底泳いで渡れるような幅でも深さでもなく、何より積荷を満載した馬車を連れていては最初から無理な選択だ。
ならば舟で渡れば、という案はこれまた諦めざるを得なかった。
石造りの橋が崩壊する程の風と波が前触れなしで襲ってきたのだ。接岸していた舟という舟は、根こそぎ壊れるか流されてしまっていた。
橋がしっかりと機能していたため、もともとあった数も多くない。そしてほとんどは魚を捕るための小舟である。
ここにきて一行は、先に進む手段を失ってしまった事になる。
どうしよう?と第四王子が困り顔で言った。
橋が直るまで待っていては、いくら何でも時間がかかりすぎる。
数日あれば小舟くらいは用意できるかもしれないが、荷物は何度かに分けて運べば良いとして、特大サイズの馬車を乗せるのは不可能だ。
あちらで別の馬車を手に入れようにも、欲しいと言って即座に調達できるような物でもなく、運良く入手できたとしても全部の荷物は載せきれない。
向こう岸に着いたはいいが、魔女が要求してきた手土産と大量の火薬を運べないのでは意味がないのだ。
「とりあえず皆さんお風呂に入ってはどうかしら」
「そうだね」
「そうだな」
「そうしましょう」
「うむ」
一も二もなく意見が一致した。
一行はフローラルな香りに包まれながら、宿を目指して引き返していった。