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桜エッセイ

桜幽霊

作者: 千羽稲穂

 長い長い夏には連日短編を投稿する短編企画を、秋には自分の誕生日を祝うための短い連載作品を、冬には十二月三十一日だけ投稿するあの作品を、では春にはエッセイを書こう、と思い立ち何も思わず徒然なるままにパソコンに向かい文字をうちこんでいます。


 みなさまはどうお過ごしでしょうか。春は入学式や卒業式で節目の時期ですから、今はごたごたと忙しい時期だとは思います。そうした中でこのエッセイでほっと一息付けたら嬉しいです。

 嬉しいと言いましたが、何を話すかは、全く頭にありません。全く、です一ミリたりとも考えていません。まるで春の風に頭の中のネタがさらわれたかのように。しかしながら桜の花びらがまじった風の中に、私のいたらないネタが雪のように白くはらはらと舞い散っていると考えると、それはそれで粋なのかもしれません。


 桜は綺麗です。私の身近にある桜の木はもう葉桜になりますが、そういった姿も生き生きしています。なによりこの葉桜になる時期は花びらの量が違います。風がそよそよと背後から迫り、一瞬のすきにスカートをめくり上げようとするも失敗し、それを見送った後、枝葉から白い大量の欠片が落ちてくるのを見ることができます。夜だと夜桜、昼だと普通の桜。されど桜。とても美しいものです。そういう姿を見ると、この桜にまるで魂が入っているように思えるのです。


 魂とは、意思のようなものです。「生きたい」「息をしたい」と考える心がある、それが魂です。よく幽霊は、この魂だけの状態であるだと述べられていることがあります。私は幽霊を見たことがないのですが、いるのなら、こういう意思と言われる情念が強く、この世にとどまっているに違いありません。時として情念は空間を捻じ曲げる力がある、と考える人もいるくらいです。それにこの世にはないものはない、と考えるよりも、人が考えつかない魂のような膨大な謎がある方が解明する余地があって面白いです。


 良し悪し、好み趣味趣向といったものはその人の都合によるものが大概ですが、私個人は上で上げられた理由で幽霊を信じています。


 こんな幽霊信望者の私ですが、魂と言うものが桜の木にもあるとすればほんのりと心に陰りが過ぎることがあります。


 ああ、どうか桜の木よ、あなたに魂など宿らないでおくれ、と何度も祈ってしまうのです。


 そうですね。今日はその話をしましょう。


 これは私が小学生だったころのお話です。

 そのころ私は学童に入っていました。学童というのは学童保育のことで帰りの遅い両親の代わりに放課後や夏休みと言った休みの期間に小学生の面倒を見るところです。そこでは三時にはおやつがでますし、他の学童に入っている子どもたちと遊ぶことが出来ました。

 学童ではお手玉やおはじき、トランプといった昔ながらの遊びも教えることがあります。外に遊ぶときもそういった遊びをしたものです。田んぼ鬼という鬼ごっこや、高鬼、色鬼、という様々な鬼ごっこを遊んだ記憶があります。


 ここでは鬼の説明はしないでおきます。決して田んぼ鬼の説明がめんどくさいだとか、そういった妥協ではありません。ただ単に今回お話しする話に田んぼ鬼のことなど一ミリたりとも関係がないのです。


 そういった昔ながらの遊びに飽きた時、たいていの子ども達はグラウンドに小さな「日」の形を書き、少人数ながらにその「日」のなかでボールを投げあいます。いわゆるドッチボールです。

 私がそれを見たのはちょうどそのドッチボールの時でした。


 ドッチボールのコートは「日」の形。その「日」の形の左がわ辺りのグラウンドに数本の小さな木がありました。

 雨上がりのグラウンドは歩くたびに靴に水が染み込み気持ち悪さを感じさせました。澄み切った空に反して、グラウンドの状態は最悪です。あちこちに水たまりがあり、ドッチボールのボールが地面にバウンドするたびにボールは水を纏い、投げられたボールをキャッチするたびに服が汚れていきました。

 しかも白いポロシャツに下に体操服のズボン姿だったこともあり、雨上がりのドッチボール後は白いポロシャツに茶色い土をまぶしたようなやんちゃ坊主になっていました。よせばいいのに、それでも遊びたいお年頃なのでしょう。

 

 人並みの女の子だった私や、少女数人のドッチボールはそれでも大人しめに行われている方でした。きっとこれが男の子のドッチボールでしたら、白いポロシャツの白など見えないほど茶色に染まっていたに違いありません。ボールは、みんなおそるおそるキャッチしていました。

 今思えばそんなことをしても土がつくのは当然です。何を思ってそんな女の子らしくしていたのか今にしては謎です。


 私がいたのは「日」の下側の空欄のところ。相手側は「日」の上の空欄でした。私の視点から見れば、左上の小さな木はよく見えました。


 「日」の上側の背後には大きな水たまりとグラウンドが広がっており、私側から外野に投げた時に、ボールが外野側に上手く行き渡らなかった場合、ボールはコートから遠くのグラウンドに転がっていきました。よく外野にいる友達はボールを取りに行ったものです。

 それが何度か繰り返されます。投げては遠くへ飛び、内野にいる私達はぼんやりとその光景を見つめていました。


「あー、水たまりに入っちゃったぁ」


 内野にいる私以外の友達が外野にとんだボールの行方を目で追っていました。大きな水たまりに入ったボールは濡れてしまいキャッチしにくく、その日はよく遠くへ転がっていきました。これで外野から私達内野に投げてもキャッチできず敵陣の外野にボールが送られることになります。また敵陣の少女も水を含んだ土を纏ったボールをキャッチできず、弱弱しくボールを投げられるのです。


 ゆっくりとしたゲームでした。周囲を見渡すのがとても簡単になるほど、時間はゆっくりと進むお遊びです。こんな状況では本気半分お遊び半分でやらなければやってられません。


 静かでゆっくりとした時間の中、私は外野に行ってしまったボールを眺めつつ、傍らの貧相な木に目をやりました。

 グラウンドは赤茶色の土のグラウンドでした。本来このような土の場で植物など雑草ぐらいの芯の強い生き物でなければ、上手く育ちません。それらの木は場に反し、必死に枝葉を伸ばしていました。


 そこに私より一学年上の男の子と一学年下の男の子がやってくるのが見えました。


 私達、ドッチボールをする女の子のほかにグラウンドには数多くの学童でお世話になっている子ども達がグラウンドにいました。ですが、どういうわけか私にはこの子達の姿しか記憶にありません。


 男の子達はなにやらはにかみながら小さな木の傍にやってきていました。次の瞬間、私より一学年上の男の子はその木の貧相な枝を握り、足を浮かせ、木にぶらさがったのです。

 

 木は悲鳴をあげているように大きく枝をしならせていました。今にも、枝ごと落ちそうな勢いです。とてもとても細い木です。それでも必死に生きている木です。人を支えるなど到底できそうにない、いえ、人を一人ぶらさがるだけでも精いっぱいの木なのです。枝は男の子の体重に任せて下がっていきます。

 それを見て、私は気が気でありませんでした。


「危ない!」


 私は振り向き、ボールが体に当たりました。


 いつのまにかゲームは進み、敵陣のもとにボールが渡っていたようです。そのボールに反応できなかった私は黒いハイソックスに丸い茶色の土跡がつきました。ボールは跳ねあがり、宙を描き、再び敵陣の外野に戻っていきました。


 私は外野行きです。

 少なからず持っている負けず嫌いな心が揺さぶられましたが、ルールはルールです。大人しく外野に回りました。


 外野は退屈なものでボールは一向に回ってきません。大人しいゲームなのも相まって、ゲームはより一層退屈なものへと移行していきました。そんな場所にいるのですから、さきほど見た男の子達を見る時間は増えていきます。


 外野に来た時、私は再び貧相な木の方を見ました。一学年年上のやんちゃっ子が地面に足をつけていました。今度は、お前がやってみろと、一学年下の幼い子に喋っています。すぐさま小さな子は枝を掴みます。楽しそうに嬉々として握っています。


 私は見ているだけでした。退屈さもあってか、それとも注意する行為自体知らない時だったのか見ていてひやひやはするものの何も考えていませんでした。そんなことをしたら折れることは明白なのに、何も思えませんでした。


 幼い子が浮き上がり、降りて、今度はやんちゃっ子が枝を握り浮き上がり、降り。枝葉段々萎れていきました。

 遠くにいる学童の先生方は、彼らの行為に気づいていません。


 その木の枝は疲弊し、枝は根元が折れていきました。根元から垣間見える幹の鮮やかな白さが浮き彫りになっていきます。表面は黒っぽいので、コントラストもあってか際立っていきました。


 幼い子が乗って、やんちゃっ子が乗って、みしみし…と軋みます。


 遠くに壁打ちする音。ドッチボールをする少女の声。小さな子どもが水たまり周辺で鬼ごっこをする足音。跳ねるドロ。枝が軋む。軋む!


 次にやんちゃっ子が枝につかまり、足を宙に浮かせました。


 枝が根元から、幹に沿って、下に下に、重力に逆らわず、体重のままにおりていきました。あらわになった木の裸体は白く縦に線が引かれていました。

 

 枝は木から外れてしまったのです。


 枝を持った幼い少年達はその遊びに飽きたのか、枝を捨てて走り去っていきました。その顔には笑みを含ませ、やってやったぞ、と武勇伝でも語りそうなほど嬉しそうな、そんな一点の曇りもない表情を灯して、次の遊びにかけていきました。


 私の視線や枝、小ぶりな木などどうでもいいのでしょう。彼らにいるのは、その場その場に必要な充足感を得られる感情です。


 私はじーっと見つめ続けました。誰も気づいていないその状況を、捨て置かれた寂しい黒い枝を。


 すると、ボールが私の頭の上を通過しました。澄み切った空を超えて、水たまりへ。茶色い砂を吸った濁った水たまりは、跳ねると透明な色をしたただの水でした。ひらりとアメンボが飛び交い、ボールをよけます。


 アメンボを見ると私の友達の手の中で息絶えていくアメンボを思い出します。


 それもこれもどれも遊びで、です。


 手の中に水をためてアメンボをその中に入れて、手で蓋をします。手の中でアメンボは跳ねまわる、その感触を友達は笑って私に高らかに話していたことを覚えています。


 この黒い枝は、まるでそのアメンボのようでした。声も出さず、折れてしまった私を見つめて、覗き込みます。

 なぜ? と言っているようでした。

 アメンボと違うのは、桜の枝には理解者がいたところでしょうか。


 最後に枝を見たのは水たまりからボールをすくいあげた時でした。ボールをとりつつ、それまで見ていたのと同じように枝を見たのです。そこには壁とキャッチボールをしていた男性がいました。折れた白い部分の幹を大事そうに撫でて、老婆のように腰を曲げていました。小さな背中には黒いもやがかった何かがとりついているようでした。

 そうして、ようやく恐怖を感じてしまったのです。


 アメンボでも、枝が折れる時感じた危機感ともまた違う恐ろしさ。そこに木の幽霊がいたとするならば、私を本気で呪い殺すと思い込むぐらいの肝の冷え方。体が重くなり、じーっとこちらを向いている小さなアメンボの目。


 その時まで私の恐怖心や義務感は、この木のためにではなく、私が怒られることにしか向いていませんでした。


 しかし、今は違います。木に情念や想いがあるのならばこの木はきっと私を怨んでいるでしょう。私は何も感じていない子どもだった、そんな言い訳など傷つけられた者にはたまったものではありません。言い訳は、言い訳です。


 その後学童の先生方から木を折った彼らには厳しい叱りの言葉が与えられました。その時の枝が折られた木の説明はこんな感じだったと思います。


「あの木は卒業の際に植えられた記念の桜の木で、あの男の人は、その時の卒業生なんだ。今回は笑って許してくれたよ」


 ですが、私は思い出すのです。あの寂しげな背中を。男性の足元に捨て置かれた小さな枝を。茶色の土であるグラウンドに必死に根をおろし、私の背か頭一つ上ぐらいに育った木の生に、今なら感動すら覚えます。


 私は生来魔法や幽霊を信じる方です。魂などといった二十一グラムの重さも、日々そこにいる幽霊に夢を見て、天国があるのだと信じるぐらいの、最後の審判を信じて待つぐらいの、器量はあります。

 

 しかし、これら全てを信じてしまうぐらいに、私は全てを信じていないのかもしれません。


 信じるたびに思い出すのはこの小さな桜です。そのたびに思うのです。ああ、桜よ、どうか魂などと言うものを持っていないで、と。


 きっと折った二人の子どもは気づいていません。彼らの恐ろしい行動に。

 もともと私もそちら側の人間でした。友達がアメンボを殺していたって、蟻の巣を掘り起こし、蟻の頭と尻を引き裂き胴体を残すのを何も思わず見ていました。それらの残酷さに気づかず、彼らは今も当然のように生きていることでしょう。


 この桜の木の幽霊に囚われないよう、私は忘却します。信じるために、これらの恐怖を頭の中から消し去り、私は今日も徒然と書き続けるのです。


 今日も今日とて、桜は散っていました。葉桜はやはりいいものです。私の中に何か突き刺すものと、桜の白い花弁を忘れ去らせるような何かがあります。姿を変えていく木には親しみを感じますし、四季折々を楽しめます。そうして、今年の姿を変えてくれるのです。


 きっとこの木に魂を感じてしまうのはそういった四季で変化する姿にあるのかもしれません。ずっと同じ姿なら、未だに私も過去の記憶に囚われていたことでしょう。そうして桜の幽霊がそこにいると感じて、悩んだことでしょう。ですが、彼らは変化してくれる。次の季節には新たな姿に変えてくれる。私みたいな気づいたものに忘却を与えてくれる。


 気づいても忘れるもの。忘れても掘り起こすもの。いつも感じていても消えるもの。いつしか薄れていったもの。桜に思い起こし、忘れさせてくれます。

 そういった桜に、私は今日も魂を感じるのです。

 一ミリの恐怖を感じつつ。

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