九
★
そろそろ冬の足音が聞こえる。
そんな季節にも、オリヴィアは庭での読書を取りやめなかった。
一時間。三十分。時間だけはどんどん短くなり、やがて雪が降って、ようやく屋敷から出なくなる。
ウィルコット家の庭も、常緑樹を除いて裸になってしまった木々が、やや寂しげだった。ただ、いずれは白い水の結晶たちが降り積もり、雪化粧を施す。すると、そこには別世界が広がって、また美しかった。
温かい紅茶が用意され、焼き上げたばかりのケーキは、オリヴィアが取りやすいように一口大となってテーブルの上に置かれている。
その一切れをまじまじと観察してから、はい、とオリヴィアは傍らにいた薬草師に手渡した。もう一つ、庭師の方へ。
「ありがとうございます、お嬢様」
「いつもご相伴にあずかって、悪いね」
ちっとも悪いと思っていないのに、どうしてそんなことを言うのか、オリヴィアは不思議な気持ちになる。へへ、と笑う庭師がとても嬉しそうなので、口に出して尋ねたことはないけれど。
おいしい? と訊けば、もちろんですよ、と薬草師が微笑む。そうして、今度はオリヴィアへ一切れ差し出した。
どうぞと言われて、小さな手で受け取った。食べ終わるまで、二口。
抑えた甘みが、上品に口の中に広がった。
飲み込んでから、少し。
「……小麦がね、足りないんですって」
全然実感なんてできないけれど、口に出せば薬草師は目を伏せた。
「今年は大変な不作と聞いております」
「あなたの故郷も?」
「南方は大寒波だそうです。仕送りを増やせないかと、弟から手紙が参りました」
「そう。お給金は上げられないけれど……薬草は自由に使っていいと思うわ」
薬草師の薬は、とても評判が良かったと聞く。材料はたくさんあるのだから、遠慮はいらない。
「お気遣い、ありがとうございます。ですが、手紙に関しては弟の甘えだろうと予測がつきますので」
「あら、どうして?」
「弟は、鍛冶師です。物価が上がったとまでは聞こえてきませんので、大方賭け事に失敗でもしたのでしょう」
ふふ、と笑う薬草師に、なんでもお見通しなのね、と感心する。オリヴィアは、こんな風に兄について見抜いたことなんてない。
「そーなんですか……西の方は、さほどひどくねえと聞いてます。いっつも人の心配ばっかな手紙なんで、どこまで本当か知らねえんですが」
「姉君がいらっしゃるのでしたね」
「はあ……姉君って柄じゃねえですが。かかあと一緒に住んでまさ」
「西方は例年と変わりないようですよ。ですが、冬が来る前に一度顔を見せて差し上げては? ねえ、お嬢様」
「ええ。休みを取るのも大事だもの。春になったら、また忙しいでしょうから」
はは、と庭師がごまかし笑いになった。照れているのか、顔が赤い。
「そう言って、去年も追い出されましたがな。そんな毎年帰らんでも、変わりっこねえ丈夫な奴らでさ。それよか、今年も薬草師様はお帰りにならないと?」
「あれも早々変わりませんし、今年は嫁をもらったので……邪魔をする気はありませんね」
「そりゃ帰れん」
庭師が笑う。冬の空に似合う、抜けるような声を聞きながら、オリヴィアは人差し指を口元にあてた。
「お嬢様?」
「今年は、寒かったの?」
「ええ。夏に気温が上がらず、麦の実がどこも大きくならなかったのです」
「でも西は平気だった」
「あの地は、もともとやや寒冷ですから。例年通りの気候だったのでしょう。収穫量が下がったのは、南と東の方です」
「……そう」
使用人同士で顔を合わせた。すました顔は、あまり動かないけれど、この表情を二人はよく知っていた。
お嬢様は、今度、一体何を思いついたのか。
「……ま、お天気はどうしようもねえですからね」
「不作になるのは、寒い時だけ?」
「いいえ。季節外れの嵐や、害虫の発生、あとは植物にも流行り病がありますから、一概に冷夏だけが原因ではありません。今年も、南方は天候の影響ですが、東側の一部は害虫の大量発生が原因でした」
「……詳しいですね、薬草師様」
「日々、情報を集め、勉学に励んでおりますので」
にっこりと笑った薬草師に、偉えひとだな、と庭師が感心する。土をいじるしか才能のない自分とは、頭の出来が違いすぎる。
「西と同じ天候……なのに小麦は育たない」
指をあてたままのオリヴィアの唇から、そっと言葉が漏れる。
「……少ないと、困るわね。今年はどうしているのかしら?」
「まあ、備蓄庫ってのがありますんで、二、三年は何とかなりまさ」
「領主も不作の年には税率を下げて、次の年に備えるものです」
まともであれば、という言葉を、薬草師が飲み込んだ。オリヴィアは一瞬目を上げて知識豊かな薬草師を見上げる。
「それだけ?」
虚を突かれて、使用人の二人は黙り込んだ。が、すぐに庭師が白旗を上げた。
「お嬢さん、勘弁してくだせえよ。他にったって、俺が聞いたことあんのはそれぐれえです」
「あとは領主間で、取り決めをして麦の融通をすることもありますが……」
求めている答えでは、なさそうだった。
オリヴィアは茶色になっている庭に目を向ける。
「……小麦にもね、花が咲くそうよ」
「それはまあ、知ってますが。あんまり見栄えはよくねえですよ、小麦ですからね」
「そうね。あなたは見栄えがいい花を作るのが、好きだものね」
「お嬢さんはこの前できた、薄い桃色の花がお好きでしたね。あれも三年越しにできた、大作ですよ」
来年は挿し木で増やしますからね、と満足そうに笑う庭師。打って変わって、薬草師は顔色が悪かった。
「お嬢様、まさか……」
「西の小麦は例年通りだった。寒さに強いのね」
「……」
「南は虫が多いんですって。けれど、あの土地はカーティスの中では最も豊かな豊穣の土地」
「はあ?」
「三十年前、麦の穂を白く固める病が流行った時、北の土地だけはその災害を免れた」
「……」
「……」
オリヴィアは、棒立ちになった使用人に目線を戻した。
「赤と白の花の合わせると、うまくいけば私の好きな花が咲く」
言わんとするところを、ようやく庭師の方も悟った。
オリヴィアは、変えようとしている。人でもなく、天候でもなく。
――小麦を。
「ですがそりゃ……花と違って分かりにくいでしょう?」
「そのような前例は聞いたことがございません」
あら、と十歳の少女は大人たちが足踏みするのを、意外に思った。オリヴィアからすれば、二人ともなんでもやってのけるように見えるのに。
「誰もやっていないからって、不可能ではないのよ?」
ぐ、と答えに詰まったのは、二人同時だった。
とん、とオリヴィアは唇を人差し指でたたく。
まずは資料が必要だ。あとはもちろん、本物の小麦がいる。人も、さすがに今の二人だけでは心もとない。
土地は……オリヴィアの名義の、小ぢんまりした村でいい。狭くとも、実りがよいと評判な、立派な麦畑がある。
「お嬢様」
少女の中で着々と計画が具体化していくのが、薬草師にも手に取るようにわかっていた。やると決めたら、この少女は進むだろう。そして、きっと成し遂げる。
けれど。
「お嬢様、それは……お父君が」
質問は、尻すぼみに消えた。
灰色の目が、賢い薬草師の鋭さから生まれる懸念を、きちんと読み取った。
「そうね……許してくださると思うわ」
「そう、でしょうか」
「ええ。お父様は、度量が広くていらっしゃるもの」
許可を出すことが得だと、人の目を考える父なら、まずは許す。
オリヴィアはそう読んでいた。そして、安心したように力なく微笑んだ薬草師に、その先を告げる事はやめておいた。
許されるだろう――最初は。
だがその後。
生かしておいてもらえるかは、分からない。
十歳のオリヴィアが出した、冷徹な予想だった。