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私の心は金の波  作者: 日野真春
本編
8/34







「手が止まっているなんて珍しい」

「……え?」


 声をかけられて、オリヴィアははっとした。傍らにいたシシリーが、怪訝そうにのぞき込んでくる。

 学院の、大図書室。過去の収穫の資料を探すつもりで、研究室から出てきていた。けれど探し物が中途半端なまま、朝の日差しから、とうに昼を越していた。昼食をとっていない体が、ようやく空腹を訴えているのを自覚する。

 ここ最近のオリヴィアの周囲が、少し騒がしかったことを知るシシリーが、心配と不安がないまぜな表情になった。


「悩み事?」

「なやみごと……なのかしら?」

「だって、ここ数日明らかにおかしいわよ、オリヴィア」

「……」


 ばれていた、と俯く。研究室では、普段通りのつもりだったけれど、ふとした拍子に手が止まっていたのは、何度か経験していた。いけない、とそのたびに幻を振り払っていた。


「お兄様は、きっとちょっと間違えてしまっただけなのよ」

「何の話? お兄様って、この前会ったの?」

「だから、これはその……私の記憶の問題ね」

「全然わからない」


 説明する気はないのね、とシシリーが即座に諦めた。オリヴィアは一度決めるとなかなか頑固だと、彼女は付き合いで知っている。


「オリヴィア、あまり小言なんて言いたくないけれど、公爵のお話は、お断りすべきじゃないかしら」

 当然の指摘でも、とっさにうなずけない自分に、オリヴィアは驚いた。シシリーの顔が、さらに曇る。

「あの方は今、ようやく落ち着いた領地から、首都にいらっしゃるようになって……もちろん今でも人の倍は忙しい方だけれど……身を固める支度をなさっていると、もっぱらの噂なの」

「……」

「ご身分がご身分だし、適齢期は少し逃しているけれど……社交界は今、いかにしてあの方の婚約者になるか、が一番の話題なのよ」

「婚約者……もう、お相手がいらっしゃるのね?」

「断言はなさらないけれど、有力なのは宰相閣下の長女ね。年は確か、オリヴィアと同じだったかしら」


 妥当な人選だ、と納得する。国王の信頼の厚い臣下同士、さらなる親睦のための手段。

 カーティス国の安定にも、十分つながる。

 そんな彼の世話になる。庇護を受ける。

 ありえない、と。断言が出来るのに。


 はあ、と心からため息をつく。

 早く、忘れないと。そう何度も言い聞かせるたびに、余計に動揺する気がした。


 うっかり事故で唇に触れてしまったなんて、どこの子供のやることだ。どうせならもっと自意識のないときに、なんて考えて、あまりその時期が長くなかったことを思い出した。

 でもせめて、四年前なら、違っていただろうか。

こ んなに……泣きたくて、嬉しい、けれど心臓を握られたかのように苦しい気持ちには、ならなかった気がする。


 駄目よ、と首を振る。

 心が動いたなんて、すべては……「夢の中」のこと。

 あの一時だけの、幻で――現実に引きずっては、ならない。


 目をつぶって、オリヴィアは暗い闇を見る。説得をする自分(りせい)に、泣きたくなったのには、必死で目をそらして。


 サイラスはあの後、本当によく眠っていた。夕刻になっても日が暮れて空に星が出ても、目を覚ます気配もなく、どうすべきかと困っていたら、カイルがもういい、と言って送ってくれたのだ。

 なんと、あのあと三日も眠り続けたらしい。

 風の噂で聞いて、どれだけ眠れていなかったのか、そしてどれほど忙しい身の上なのか、心配は尽きなかった。あまり無理もしてほしくない。


「……シシリー、ところで、収穫量は順調?」


 はたと、自分の仕事を思い出した。何のために図書室へ来ていたのか。手元にはまだ資料はないけれど、今日の報告をオリヴィアは尋ねた。


「その知らせがさっき来てたわ。去年の二倍よ」

「そう。大体予想通りね」


 数値が出たことに、ひとまずオリヴィアは胸をなでおろした。喜ぶべき結果なのに、シシリーの顔は晴れない。


「ねえ、オリヴィア」

「なに?」

「あなた、恐ろしいことしてるわよ、今」


 瞬きを二回。シシリーを見上げて、オリヴィアは黙ってうなずいた。


「そうね……でも、いつかは誰かがやったことよ」


 それが自分だっただけ。もちろん、一人では絶対に無理だった。だから決して、手柄だなんてオリヴィアは思えない。

 どこまでも淡々としている様子に、シシリーはため息を吐いた。


「とにかく、探し物は中断して頂戴」

「あら、どうして?」

「来客よ」


 端的に告げられて、オリヴィアは大人しく立ち上がった。

 案内された研究室の一つに、扉を開けてもらったその先で、ぱっと一瞬、過去の影が散った。オリヴィアが、はっと灰色の瞳を見開く。


 客人の来訪にオリヴィアが驚いていることに、シシリーは珍しいものを見たと得した気分になった。

 それは一瞬で、すぐに考え込んだのがわかる。丸い目を少しだけ伏せて、右手の人差し指は唇へ。オリヴィアが賢すぎる頭脳を回転させているときの癖だ。


「お久しぶりです、ビゼー侯爵」


 一礼をすると、以前と同じく儀礼的に差し出された手に、オリヴィアは応えた。

 顔を上げて、相対する。


「侯爵位は先日息子に譲りましてな。今はただの筆頭事務官です」

「大変失礼いたしました。バード=アンバー宰相様」


 重職を、事務官だなどと嘯いたバードは、数年で印象が様変わりしていた。

 背筋は伸びているが、かつて感じていた威圧感は、もうない。二年ほど前に大病を患ったのだと、オリヴィアは後からシシリーに聞かされた。


「お久しく存じます、美しくなられましたな、オリヴィア=ウィルコット嬢」

「ただのオリヴィアで結構です」

「ええ。オリヴィア嬢。私のことも、バードとお呼び捨てになって結構ですよ」

「そんな」


 絶句したオリヴィアに、カラカラと陽気にバードは笑った。


「私の今回の来訪も当ててみますかな」

「バード様」


 四年も前に終わったはずの、古い話を持ち出され、オリヴィアは困惑した。が、笑ってはいても引く様子のない宰相に、ピンと背筋を伸ばす。

 バードは、決してふざけてはいない。

 少しの沈黙の後、口を開いた。


「あなたは陛下の命で動かれる」

「左様でございます」


 四年前も、今も変わらない。かつては追放も同然だった。王を裏切り、民を苦しめた臣下の一族として、処断された。

 もう一度、王がオリヴィアに直々に下す命令があるとするなら。


「私は王宮へ呼ばれているのですね?」


 黙って一礼を返されたことが、無言の肯定だった。






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