八
☆
「手が止まっているなんて珍しい」
「……え?」
声をかけられて、オリヴィアははっとした。傍らにいたシシリーが、怪訝そうにのぞき込んでくる。
学院の、大図書室。過去の収穫の資料を探すつもりで、研究室から出てきていた。けれど探し物が中途半端なまま、朝の日差しから、とうに昼を越していた。昼食をとっていない体が、ようやく空腹を訴えているのを自覚する。
ここ最近のオリヴィアの周囲が、少し騒がしかったことを知るシシリーが、心配と不安がないまぜな表情になった。
「悩み事?」
「なやみごと……なのかしら?」
「だって、ここ数日明らかにおかしいわよ、オリヴィア」
「……」
ばれていた、と俯く。研究室では、普段通りのつもりだったけれど、ふとした拍子に手が止まっていたのは、何度か経験していた。いけない、とそのたびに幻を振り払っていた。
「お兄様は、きっとちょっと間違えてしまっただけなのよ」
「何の話? お兄様って、この前会ったの?」
「だから、これはその……私の記憶の問題ね」
「全然わからない」
説明する気はないのね、とシシリーが即座に諦めた。オリヴィアは一度決めるとなかなか頑固だと、彼女は付き合いで知っている。
「オリヴィア、あまり小言なんて言いたくないけれど、公爵のお話は、お断りすべきじゃないかしら」
当然の指摘でも、とっさにうなずけない自分に、オリヴィアは驚いた。シシリーの顔が、さらに曇る。
「あの方は今、ようやく落ち着いた領地から、首都にいらっしゃるようになって……もちろん今でも人の倍は忙しい方だけれど……身を固める支度をなさっていると、もっぱらの噂なの」
「……」
「ご身分がご身分だし、適齢期は少し逃しているけれど……社交界は今、いかにしてあの方の婚約者になるか、が一番の話題なのよ」
「婚約者……もう、お相手がいらっしゃるのね?」
「断言はなさらないけれど、有力なのは宰相閣下の長女ね。年は確か、オリヴィアと同じだったかしら」
妥当な人選だ、と納得する。国王の信頼の厚い臣下同士、さらなる親睦のための手段。
カーティス国の安定にも、十分つながる。
そんな彼の世話になる。庇護を受ける。
ありえない、と。断言が出来るのに。
はあ、と心からため息をつく。
早く、忘れないと。そう何度も言い聞かせるたびに、余計に動揺する気がした。
うっかり事故で唇に触れてしまったなんて、どこの子供のやることだ。どうせならもっと自意識のないときに、なんて考えて、あまりその時期が長くなかったことを思い出した。
でもせめて、四年前なら、違っていただろうか。
こ んなに……泣きたくて、嬉しい、けれど心臓を握られたかのように苦しい気持ちには、ならなかった気がする。
駄目よ、と首を振る。
心が動いたなんて、すべては……「夢の中」のこと。
あの一時だけの、幻で――現実に引きずっては、ならない。
目をつぶって、オリヴィアは暗い闇を見る。説得をする自分に、泣きたくなったのには、必死で目をそらして。
サイラスはあの後、本当によく眠っていた。夕刻になっても日が暮れて空に星が出ても、目を覚ます気配もなく、どうすべきかと困っていたら、カイルがもういい、と言って送ってくれたのだ。
なんと、あのあと三日も眠り続けたらしい。
風の噂で聞いて、どれだけ眠れていなかったのか、そしてどれほど忙しい身の上なのか、心配は尽きなかった。あまり無理もしてほしくない。
「……シシリー、ところで、収穫量は順調?」
はたと、自分の仕事を思い出した。何のために図書室へ来ていたのか。手元にはまだ資料はないけれど、今日の報告をオリヴィアは尋ねた。
「その知らせがさっき来てたわ。去年の二倍よ」
「そう。大体予想通りね」
数値が出たことに、ひとまずオリヴィアは胸をなでおろした。喜ぶべき結果なのに、シシリーの顔は晴れない。
「ねえ、オリヴィア」
「なに?」
「あなた、恐ろしいことしてるわよ、今」
瞬きを二回。シシリーを見上げて、オリヴィアは黙ってうなずいた。
「そうね……でも、いつかは誰かがやったことよ」
それが自分だっただけ。もちろん、一人では絶対に無理だった。だから決して、手柄だなんてオリヴィアは思えない。
どこまでも淡々としている様子に、シシリーはため息を吐いた。
「とにかく、探し物は中断して頂戴」
「あら、どうして?」
「来客よ」
端的に告げられて、オリヴィアは大人しく立ち上がった。
案内された研究室の一つに、扉を開けてもらったその先で、ぱっと一瞬、過去の影が散った。オリヴィアが、はっと灰色の瞳を見開く。
客人の来訪にオリヴィアが驚いていることに、シシリーは珍しいものを見たと得した気分になった。
それは一瞬で、すぐに考え込んだのがわかる。丸い目を少しだけ伏せて、右手の人差し指は唇へ。オリヴィアが賢すぎる頭脳を回転させているときの癖だ。
「お久しぶりです、ビゼー侯爵」
一礼をすると、以前と同じく儀礼的に差し出された手に、オリヴィアは応えた。
顔を上げて、相対する。
「侯爵位は先日息子に譲りましてな。今はただの筆頭事務官です」
「大変失礼いたしました。バード=アンバー宰相様」
重職を、事務官だなどと嘯いたバードは、数年で印象が様変わりしていた。
背筋は伸びているが、かつて感じていた威圧感は、もうない。二年ほど前に大病を患ったのだと、オリヴィアは後からシシリーに聞かされた。
「お久しく存じます、美しくなられましたな、オリヴィア=ウィルコット嬢」
「ただのオリヴィアで結構です」
「ええ。オリヴィア嬢。私のことも、バードとお呼び捨てになって結構ですよ」
「そんな」
絶句したオリヴィアに、カラカラと陽気にバードは笑った。
「私の今回の来訪も当ててみますかな」
「バード様」
四年も前に終わったはずの、古い話を持ち出され、オリヴィアは困惑した。が、笑ってはいても引く様子のない宰相に、ピンと背筋を伸ばす。
バードは、決してふざけてはいない。
少しの沈黙の後、口を開いた。
「あなたは陛下の命で動かれる」
「左様でございます」
四年前も、今も変わらない。かつては追放も同然だった。王を裏切り、民を苦しめた臣下の一族として、処断された。
もう一度、王がオリヴィアに直々に下す命令があるとするなら。
「私は王宮へ呼ばれているのですね?」
黙って一礼を返されたことが、無言の肯定だった。