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私の心は金の波  作者: 日野真春
本編
7/34







 規則正しい呼吸を聞きながら、思い出す。

 つかず、離れず。見誤らないように、いつでも気を張って兄と接していた。


 この優しい兄を殺さないように。

 これ以上、煩わせないように。


 つまらない苦労など、しなくていいはずの身分に生まれていたはずだった。彼は成人すれば子爵位が与えられる歴史ある貴族の家の跡継ぎだった。当主を含め、家族が流行り病で亡くならなければ、順当に家を継いだだろう。


 だがサイラスは、ウィルコットの家に来てしまった。

 オリヴィアが――オリヴィアであったがために。

 この優しい人を、苦しめる原因は自分だった。


 が、驚くべき状況なことに、今サイラスはオリヴィアが決めた、つかず離れずの距離を飛び越えて、何とオリヴィアの近くで眠っている。

 どころか、オリヴィアの膝は、サイラスの枕だった。

 ありていに言うなら、膝枕だ。

 原因は――カイルと、多分サイラス自身。


 仮眠室に来ても、サイラスは強情を張って横になろうとしなかった。仕事があるとオリヴィアに言い訳をするも、頑固に引き留めるオリヴィアともめるうちに、カイルが医務官を連れて戻ってきた。

 医務官は手早かった。無理を押し通すサイラスをいなし、ソファに座らせ、熱を測り、体を検分する。

 ま、ただの過労ですね。と端的に決め、静養を命じた。

 こうなっては、さすがのサイラスも仕事に戻れない。


 だが、オリヴィアや医務官と一緒に出ていこうとしたカイルを引き留め、あれこれと指示を出し始めた。仕事を終えた医務官はさっさと行ってしまったが、オリヴィアは勝手に部屋を出ていく気になれず、じっと横で話を聞いていた。

 長かった。

 とにかく、長かった。

 仕事が溜まっているのが、十分すぎるぐらいに伝わってきた。オリヴィアが聞いてはいけなかったかもしれない内容もちらほらと出てきて、医務官と一緒に行けばよかったと少し後悔した。


 カイルは……先ほどと違い、仕事となれば辛抱強いらしく、時々確認を交えつつサイラスの話を聞いていたけれど。


「……キリねえわ」


 ぼそっと呟いた。あら、と思う間もなく、ぐいっとオリヴィアの腕が引かれた。

 え、と驚いたのは、自分だったかサイラスだったか。

 気づいたら、オリヴィアはソファの端に腰かけていたし、サイラスはオリヴィアの膝を枕に寝ころんでいた。

 かちり、と石のように二人は同時に固まって。はっと正気に返ったのは、オリヴィアの方が早かった。


「あのっ、カイル様」

「黙ってそいつ見張っとけ。逃がすなよ」


 どこの獲物の話か、上司ではないの、と反論する余地もなく、バタンとやや乱暴に仮眠室の扉が閉められた。

 サイラスは身動きもしなくて……オリヴィアも、声もなくて。

 そうしているうちに、横になっていて疲れに負けたのか、サイラスの体は力が抜けていった。


 今は――ようやく、安定した寝息が聞こえる。

 何もせずにいる時間、というのはとても珍しい。

 研究室なら常にやる事もやりたい事も山積みで、時間は飛ぶように過ぎていった。四年という時間は、追い風に押されるように前へ前へと進む月日だった。


 手持無沙汰に、スカートのポケットを検める。シシリーにもらった、新しい香水瓶――どこかの新作だと、少し小分けにしてくれたもの――書き留めたメモ、使いさしの試薬の欠片、真新しいハンカチ。

 オリヴィアの日常の一部は、この部屋では何の役にも立たないガラクタに似ていた。


「……オリ、ヴィア」


 先ほどよりゆっくりした口調で、名前が呼ばれた。はい、と返事をすれば、サイラスが身じろいだ。背を向けて、オリヴィアからは金髪しか見えなかった体勢から、目が合うように仰向く。


「あの話、考えてくれた?」


 真下からのぞき込まれて、オリヴィアは落ち着かない。とても近いし、とても無防備だ。それに、どこまでサイラスが正気なのかはっきりしなかった。

 無表情なままで、見た目にはあまり変わらなくても、オリヴィアは動揺していた。


「もったいないお話です。私には……過ぎた待遇かと」


 暗に断ると示すと、サイラスは――こんな表情は見たことがなかった――失望で途方に暮れていた。

 何か言わなければ、とオリヴィアは焦る。胸が痛む。正しいはずなのに、申し訳なさでいっぱいになった。


「あの、お兄様は私に十分よくしてくださいましたもの」


 今日までの日々が続いていたのは、兄が手を尽くした結果だと、誰に言われるまでもなく、確信していた。

 本来なら、もういない両親と運命を共にしていたっておかしくなかった。


「そんなはずないよ、君は……いつだって……私を」


 まだ朦朧としているサイラスは、その先が続かない。オリヴィア、と懇願するように名前を呼ばれれば、もう一度首を横に振れない自分がいた。


 もういいのに、と思う。


 捨て置けばいいのだ。家がなくなったとしても、それは必要な、あるべき未来だった。兄がしないなら、いつかきっとオリヴィアが果たしていた。

 けれど小さな妹にいつでも優しかった彼は、そうそう簡単に割り切れないのだろう。

 優しさは、嬉しかった。

 だから彼のために、役に立ちたかった。


 近づいてはいけなかったのに。

 こうして惑わせてはいけなかったのに。

 母や父と一緒に、捨ててしまえる存在でなければ、ならなかったのに、オリヴィアはその選択をしなかった。ただ距離を置いて、他人行儀にふるまった、だけ。

 胸元の服を、知らずに握りしめていた。痛みは……ない。あってはならない。


「お兄様……」


 サイラスが、オリヴィアの心をどこまで見抜いているのか、わからない。ただ、この場ですべき選択は、はっきりしていた。


 サイラスは、まだ顔色が悪い。


「もう少しお眠りになってください。お体は辛いはずです」


 香水瓶を開けると、柔らかな甘い香りが広がった。疲れをとるとシシリーは言っていたから、睡眠導入剤として十分だろう。


「オリヴィア」

縋るように伸ばされた手を、重ねる。

「大丈夫、怖くありません。目が覚めるまで、そばにいますよ」

 瞼がもう一度閉じていく。耐えようとする兄の柔らかい髪をそっと梳いた。安心させるように、ゆっくりと。


 つなげた手が、緩い力で握り返される。

 安心させたくて、手の甲にキスを落とした。


「お兄様、お眠りなってください」

「君が、怖いくらい優しいのは、夢だからかな」

「……ええ。そうですね。夢ですよ」


 なんだっていい。彼が眠れるなら。

 浮かんだ笑みが、とても幸せそうだった。紫紺の瞳が、とろけるようだ。


「きみが、すきなんだ」

「――」


 夢ならば。

 今この時だけなら。

 許されないと、許さないと囁く(りせい)に、耳をふさいだ。


「……わたしも、あいしていますよ、お兄様」


 おやすみのキスをするつもりで、オリヴィアは身をかがめたから、手が伸びてきたことには気づけなかった。

 頭の後ろの温かい重さと。

 唇のふれた熱と。

 両方に目を見張ったときには、もう遅くて。

 ハッと気づいたときには、サイラスはただ安らかに眠っていた。






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