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土をすべて掘り返して、落ち葉を燃やした灰を混ぜる。入れすぎてはならない。他にも、小石を取り除いたり、ふるいに掛けたり、隣では、土に陽を当てて乾燥させている。仕事はいつでも多い。冬は咲く花が少ない分、次の季節への備えをする時期だ。または、雪や霜よけのための藁の準備。立ち上がった時に、別の一角にある、常緑の冬の花のつぼみを見つけて、つい足を向けていた。
まだ固いつぼみは、全体が白っぽい。花は赤いので、中では花弁に色を付ける準備中、と言ったところだ。
赤、から思い出した光景に、あー、としゃがみこんで声を土の上にまいた。仕事中である。余計なことに気がそれてはならない。が、一度目の前に広がってしまうと、止めようがない。
色づいた頬は、淡い朱で、深紅よりもジルの好きなバラの色だ。自分の名を呼ぶ唇は木苺で、握った手指の爪は桃色の花弁。いつもはきっちり結い上げた髪は、ほどけて背中の中ほどまであって、触れると指の間を心地よく滑った。泣いた後は、疲れて眠ってしまったから、クヌギの実に似た瞳を覗き込む機会はなかった。
思い出すと、体の奥に熱が溜まる。
あー、ともう一度無意味に声を出した。
傷ついたアンに、縋られた。ひどい目に遭った彼女を抱き寄せた時は、泣くまいとする姿が悲しかった。気丈に振舞っていたが、指先や肩は震えていた。
微笑まれただけで、真っ白になってしまった、なんて言い訳にしかならない。
同意も意識もないまま触れてしまった唇は、ひどく柔らかくて熱かった。
ハッとしたところで、すでに取り返しがつかない。慌てて、だが抱いた体を放り出すわけにもいかず、出来るだけ迅速にアンをベッドに寝かし、寝ずの番を姉と母親に頼み、仕事場である荘園に走って帰った。
自分自身に腸が煮えくり返る、という怒りを抱いたのは、初めてだ。アンを傷つけた男たちに対してでさえ、これほど苛烈な激情はなかった。
だが、自分を殴るわけにはいかない。仕事もある。それに、アンはジルの手が、植物のためにあるのだと諭すのだ。己を傷つければ、アンが悲しむのは間違いなかった。
できる限り長くきつく働いているしかない。
が、最初の一日二日は、もう二度と顔を合わせられない、とさえ誓っていたが、三日四日目には思い出してはため息、七日目の今日では、帰ることばかりが頭に浮かぶ。
その上、来客があるとのこと、庭師は午後からの庭園の手入れを禁じられてしまった。
頭の中の天秤は、がしゃんがしゃんと忙しい。そして煩かったが、荘園の裏門の前で、蹴とばしてしまった。現金で単純、結局、居ても立ってもいられず、自分の村へ駆け戻り、アンの家の扉を叩いた。
ハーブティーを淹れよう、と決めていた。アンに教わり、褒められるようになったのだ。痛みを取るお茶はないが、良い香りは心を安らげ、または血行を良くするものもある。
どうぞ、と促された室内では、アンがテーブルの前で書き物をしていた。その表情が、ひどく厳しいことに、さすがのジルも気づかずにはいられないほど、ピリピリとした雰囲気だった。
「あ、あの……薬草師様?」
まさか、と危惧した未来は、顔を上げたアンがふわりとほほ笑んだことで霧散する。
「ああジル。すみません……来ていただいたのに、準備が出来ていなくて」
「いや……忙しいんでしたら、出直して」
「待って下さい。片づけます」
被せた言葉の通り、アンが立ち上がって、すぐにふらついた。ああ、と慌てて肩を支える。足の怪我は、まだ治り切っていなかった。白い布が巻いてある。近づけば、頬のあざもうっすらと残った状態だ。ああもう、と鈍い自分が忌々しい。
「無茶しねえでくだせえ。重ねて隅にやるくらいでしたら、俺が」
「いえ。こちらは清書して出すもの、その奥はもらった手紙なので」
てきぱきと指差す通りに分けて箱に入れる。ペンとインクを所定の位置に片付け、今度は必要なものを言われるままに書棚から取り出して机に並べた。流れるようにそのまま台所に立つ。
水は汲んであった。火を熾すのもすぐだ。食器などはすべて場所を把握している。準備の間も、何度かアンを伺ったが、険しい表情で黙考を続けていた。
なにかあったのは、間違いない。
お茶を運んで、湯気の立つカップをアンが傾けて、一口。ほう、と息をついた時が、嬉しい一瞬だ。
「ジル、私より、おいしいと思いますよ」
「人が淹れたのはみんなそう思うんですよ。俺だって、薬草師様のお茶は一番だって思いますからね」
「今日は野ばらの実を入れましたか」
「あとは、乾燥した木苺も少し」
「素晴らしいです」
手放しで称賛され、照れくさい。手紙の書き方はちっとも褒められないが、こちらはすぐに合格点をもらった。不思議なものである。
椅子を引いて、はす向かいに座る。薬草師様、と呼びかけると、一瞬アンの表情が揺れた。
「……なにか、ありましたかい?」
「ええ。まあ……」
ふう、ため息がこぼれた。怪我をしているところに、難題が降ってきたようで、時期が悪いなとジルも苦々しい。
間をおいてから、アンが片づけた手紙を手に取って開く。秀麗な文字は、明らかに貴族から送ってきたのだと、ジルにも見当がついた。
「縁談話が、来ました」
「……」
「悪い話ではない、とあります。私の研究の援助や、学院への寄付を条件に付けて……領地で暮らすように、と」
「ご両親からですかい?」
「ええ。知人の一人がここを教えたようです」
「知られたくなかったんですかい?」
アンが微笑した。美しいが、陰りのある笑みに、すうっとジルのなかを冷たいものが通り抜けた。この顔をした時は、あまりいいことがない。説明の難しい、人間関係の糸が、彼女にもまとわりついていて、わざわざ噛み砕いてジルに教えたりはしない。教わったところで、半分も理解できないであろうことも、自分で見こせる。
言葉がなくて、ハーブティーを口にした。お茶の味は変わらないはずだが、アンが褒めるほどの出来だとは思えなかった。
遠くへ行ってしまう。この美しい人が。
あの夜、それを薦めたのは確かに自分だった。だがいざ現実味を帯びると、心には大穴が空いて、ミシミシと音を立てながら、どんどん広がっていく。
まぶたが熱くなって、どうにも涙腺が緩んだその時。行きませんよ、とアンが告げた。
「……へ?」
「結婚はしません。特に、両親の勧める相手とは」
「良い話だ、と言ったのに?」
「悪い話ではない、ですよ。いえ、違いますね……彼らにとっては『良い話』なのです」
目をしばたかせて、二転した話に追いつこうとする様子がおかしかったのか、アンがくすりと声を漏らす。今度は小花が風に揺れたのに似て、優しかった。
やっぱり野ばらだ、と思ったら、アンが不思議そうに「野ばら?」と聞き返した。口に出ていたか、と慌てて押さえるが、もう遅い。
「野ばらとは、なんですか?」
「ええ、いやその……」
弱ったな、と頭を掻く。アンの問いかける、というよりは問い詰めるに近い視線は、ジルから外れない。
無意味なうめき声を繰り返して、結局根負けしたのはジルだ。
「だから……薬草師様が」
「なぜ?」
「……」
端的なのに、三つ四つの問いかけ分くらいはありそうな「なぜ」だ。だがあいにくと、ジルは自分の中の思考や感情を正確に伝えることは苦手だった。お茶がゆっくりと、手に包んだカップの中でぬるくなっていくのに、一向に回答が出てこない。が、辛抱強くアンは待っていた。
くるり、とお茶の水面を動かした。代り映えしない自分がいる。けれど、アンは違う。野ばらは、いつの間にか表情が変わる。花の位置、数、茂る葉っぱの数や形。野生にあるからこそ、たくましく、美しい。
「……どんどん綺麗になるから、よそ見する暇がねえ」
「なっ――」
「触ったら、台無しにしそうなところもそっくりでさ」
「……」
野ばらは、野ばらだ。野に生きて、自然の中にあってこそ、その花の意味がある。ジルが庭へ持ち込み、手入れをして咲かせたのなら、もうそれは、野ばらではない。同じ花、形をした、別のバラになってしまう。
アンの、茶色の瞳が目の前にある。近いようで、遠い。焦がれたところで本当に手の中に入るとは、思えないし――思っては、ならないと、どこかで自分を戒めていた。
見つめ合ううちに、すうっと透明なしずくが盛り上がったことに気づいたのは、ジルの方が早かった。ハッとして強張った表情に、いぶかしむアンが、頬を伝った涙に手を当て、慌てて顔を背けて立ち上がる。とっさに、腕をつかんでいた。
「……離して、ください」
「すんません、俺の」
「あなたのせいではありません」
決して、と念を押しながら、アンは顔を上げなかった。泣いたのがジルのせいでないのなら、ほかにどんな理由があるのか。こうして止めておきながら、ジルは何を尋ねればいいのか、わからなかった。アンが離せというなら、腕を解放するのが正解なのに、それすらも出来ない。
ただ、駄目だと思った。
このままでは駄目なのだ。身動きが取れない今の状態で、戻ることも進むこともできない。
「薬草師様、俺は」
「良いのです」
静かに遮ったアンの声は、不思議と震えていなかった。振り返ってジルを見上げる両目には、水の膜の名残があった。
「あなたが私の名を呼べないと、わかっただけで十分です」
「な、まえ……?」
呆然とするジルに、すっとアンが微笑した。品良く、口角をしっかりと上げて、お手本のように鮮やかに。
けれどちっとも、温かくはなかった。
苦いものを飲み込んで、ジルは顔をそむけた。
胸に穴が開いて、濁流がほどばしる。二種類の色だったはずが、混ざり合って泥のように濁った流れ。
強張って動かない手を、意志の力を総動員して開いたのは、アンが肩を揺らしたからだ。明らかに力がこもりすぎたせいだった。
自由になったのに、アンは、ジルの方へ近づいてきた。腕が一瞬背に回って、なだめるように二三度たたいてから、離れていく。
帰ってください、という声に押されるように、ジルはアンの家を出た。
一歩を踏み出すより前に、よろけて壁に沿ってずるずると座り込んだ。
名前、と呟く。ジルの口を突いて出てくる、薬草師さま、という呼びかけは、もう口癖だ。
草の名前を知りたいときも、屋敷で恐ろしい事件を目撃した時も、大好きだったお嬢様が罪人になった時も、彼女はいつだって背筋を伸ばして答えてくれたけれど。
「名前……呼んだら」
アン・スティリー。名前は、もちろん憶えていた。
笑ってくれるだろうかとぼんやり考えて、慌てて首を振った。駄目だ、と何度もひとり呟く。ひどい目に遭ったアンに、追い打ちをかけるような馬鹿な男なのだ。野ばらが踏みつけられて萎れていたのに、支柱を作るはずが、間違ってまた踏んでしまったような、大間抜けだ。
きっとこれ以上、近づいてはいけない。そう戒めて、立ち上がらなければならないのだ。
本当は。
「……」
実際は、体がまるで使い物にならなかった。手足も背中も力が抜けて、動けそうにない。
さっき堪えたはずの涙は、あっけなく堰を切った。