表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私の心は金の波  作者: 日野真春
番外編2-昔話と後日談ー
31/34

11


 ウィルコットと、首都から離れて二年弱。ジルの生まれ育った小さな村で、空き家の一つを借り、前庭に近い規模の畑で研究のための薬草と自給自足のための作物を育ててきた。はす向かいがジルの生家で、彼の母親と姉は、アンに不自由させまいと、なにくれとなく世話を焼いた。


 ジルはと言えば、この地方の領主の荘園で働くことが決まり、ほぼそちらに住み込みとなった。休みを得れば数日に一度、多忙な時期にはひと月に一度で、アンと顔を合わせた。

 ジルは、変わらなかった。母と姉にも、あくまでもアンは一時の滞在者、恩人として紹介し、仕事に詰まって助言を求めてくることもあった。顔を合わせる頻度こそ減ったが、話し合う内容はいつも植物の事と、オリヴィアの事。


 沢山の書物の中で、文字を教えながら、アンに執筆を薦めた時も、さほど他意はなかった。

 何か尋ねられれば、溜まるばかりの書付を探しながら答えるアンに、もったいないと惜しんで、きちんと纏められては、と提案したに過ぎない。そんな考えを持っていたのだと、違う点でアンは驚いてしまったが。

 結果として、恩師に意見を求めるつもりで送ったかなりの量の文章は、正式に一冊の書物として世に出ることになった。アンにとっては、思わぬ僥倖と収穫だった。

 勧められるままに成果をまとめ、世に出し、今では時折首都からも問い合わせの手紙を受け取るほど。学院の研究室に、という話も出た。


 ウィルコットの名前は、もうなかった。

 ならば、この村に留まる理由も、ない――はずだった。

 最初は、ささやかな約束を理由にしていた。手紙を書きたいという、ジルの望み。彼はとても熱心だったが、良い生徒とは言い難かった。つづりの間違いはきりがなく、手紙の体裁を整える末尾もすぐに抜け落ちる。文を起こしたところで、伝わりやすいとは到底言えなかった。


 だが、二年のうちに、世の風向きが変わるのを、アンは見て取った。ジルが必死にならずとも、いずれ、オリヴィアは自由の身となる。彼が、または彼女が望めば、面会が叶うだろう、と。


 本来なら、今日はジルとの勉強の時間だった。だが思わぬ事態に遭遇し、アンはベッドの上の住人だ。けがの手当ては、知らせを受けて飛んできたジルの母親、ノーラが血を拭い、薬の軟膏を貼り、布を巻いてくれた。大らかで世話焼きな彼女は、危うい目に遭ったアンを気遣いながらも、しでかした男どもに始終いきり立っていた。


 薬草師様、とアンは呼ばれる。けがや病気の際に、知識の能う限り手を尽くすアンは医者のいない村の中で、相応に良い関係が築けていた。

 ジルと同じ、尊敬の目。青い目は彼女譲りだと、ここに来て知った。

 最後に、麦粥を持ってきてくれたノーラに、お礼を告げると、とんでもない、と首を振られた。


「ミーシャもリリーも、みんな薬草師様のおかげで元気になれたんですから。お互い様よりも足りないくらいですよって」

「その分、ちゃんと食料や薪をもらっているのですよ、ノーラ……それから、ジルにもお礼を言いたのだけれど」


 どこに、という質問に、あからさまにノーラが狼狽えた。


「あんのバカ息子は……ちょっと出かけまして」


 やや口が悪いのはいつもの事だ。視線が泳いだ理由は、別にあると察した。流れからすれば、理由はそう多くない。彼流にいうならば、悪い奴らを「とっちめに」行ったのだ。

 そう、と頷いてから、アンは少し間を置いた。ノーラは、ジルよりも察しが良い。そわそわと明らかに落ち着かない彼女に、微笑した。


「では……出来るだけ早めに、一度顔を見せてください、と」

「あの、でも」

「仕事はもちろん優先で構いません。それ以外の事なら……出来るだけ、早くに、ね」


 ひあ、と了解とも否定とも取れない返事をして、ノーラが慌てて出ていく。そんなつもりはなかったが、少し怖がらせてしまったらしい。

 効果はてきめんだった。ゆっくりと粥の食事を終えて、食器の片付けの心配をする間に、扉の外から遠慮がちに呼ばれた。かんぬきは掛けていないと伝えれば、沈黙の後にゆっくりと扉が開いた。

 背を丸めて、しょげかえった子供みたいな男。悪いことをしたと顔に書いてある。ノーラはいったい、彼に何と言って呼びつけたのか、若干不安になった。


「ジル?」

「あの……勘弁してくだせえ」


 何を、と問うにも、距離が遠い。ここへ、と近くの椅子を指せば、大人しく座った。事情を尋ねると、えらい剣幕の逆らえない母に、叱られたという。


「薬草師様は喧嘩がお嫌いなのに、余計な騒ぎを起こすんじゃない、と」


 なるほど、と苦笑しながら納得した。ノーラの推察は、当たらずとも遠からず、だ。


「『とっちめて』しまったのですか?」

「いやそれが、事情を聞いた姉夫婦が、村中に触れ回っちまいまして……奴らは近々、村を追い出される予定で。殴りに行く前に、村の隅の物置に缶詰めにされました」

「……村の規則であれば、仕方ないのですが」


 ああ、とジルが暗い表情のアンに気づいた。あわてて、違いますと手を振る。


「森を抜けた先で、川に橋をかける工事があるんで。その人手にされんでさ。しばらくは帰ってこれねえって話です。まあ、しんどい仕事なんで、いい薬になりまさ」

「よくご存じのようですね」

「……」


 やんちゃだったという聞きかじりの過去は、あながち誇張でもなんでもないようだ。ジルの顔が、体裁が悪いとしわが寄っていた。彼の時は、一体どんな「大変な」仕事だったのだろうか。

 名を呼べばはいと神妙な返答がある。まずは、怒っていないのだと前置きが必要だった。


「そう、なんですか? てっきり喧嘩が嫌いなのかと」

「もちろん嫌いですが、少し違います。あなたが、その手で、誰かを殴るところを見たくないのです」

「……」

「あなたの手は、草木や花のためにあるべきですから」


 ジルは、しばしただ黙り込んだ。立ち上がってから一歩、二歩とアンの方へ近づき、思い出したように膝をついて目線を合わせた。青い目が、普段より低い位置にあるのは新鮮だ。


「……あんたはホントに、賢い人だな」


 大きな手が、無造作に自分の髪を掴む。露になった耳の付け根に、目立つ傷があることに気づいた。明らかに、刃物で傷ついた形状だ。


「親方に言われたんだ。同じ手で、人を殴っちゃいけねえ、命を粗末にするなって。加減を忘れたら、すぐに折れて枯れっちまうんだって」


 目は、アンではなく遠い誰かを映していた。ジルの人生を、きっと丸ごと変えたであろう人。


「忘れるぐらい、喧嘩なんざしなかったってのに……俺の頭は、どうも一つっ事しか働かねんだな。あんたがいれば、あんたの事だ」


 心臓が跳ねた鼓動が、伝わったかのように、ジルの視線とぶつかった。知らずに止めた呼吸は、再開させるのに意思の力が必要だった。


「あんたになんもなくて、良かった」

「……」


 礼を言わなければ、と思うのに、口が重かった。体の中にあった何かがすっと消えて、同時にひどく脱力する。


 目の端から、雫が一つ、零れ落ちた。

 拭う手を当てる間もなく、すぐに筋となって頬を伝った。

 はらはら泣くアンを前に、ジルの目が丸くなった。ふっと漏れた嗚咽に、慌ててアンは口を押える。体を丸めて抑えようとする姿に、手が伸びた。大きな手が、遠慮がちに背を支える。


「……泣いた方がいい時ってのも、あるんじゃねえですかい」

「……」


 腕が、アンを囲い込む。掛布とは比べようもないぬくもりに包まれて、いっそう涙がこぼれた。耐え切れず、すぐそばの強い体に縋りつく。

 泣いてはいけない、せっかく手当てした頬の傷に障る。頭では理性が囁くが、抗えない衝動とジルの前では、すぐに消えてなくなった。

 泣くのは嫌いだった。泣いたところで、どうにもならないことが多かった。弱さの烙印のようで――もうとっくに、枯れたものだと思っていた。


 けれど、泣いた方がいいと、ジルが言うから。


「……る、」

「はい。ここにいますよって」


 掠れた呼びかけに、とんとん、と背中の手のひらが答える。体に回した腕に力を籠めれば、同じように――けれどきっと加減をして――抱き寄せてもらえた。


 弱くなったのだろうか、とアンの中で問い、そうだ、と答えがあった。


 ジルのそばを離れられない。その理由は、もうたった一つだ。


 引き換えのように手に入れた心地よいまどろみと温もりに、目じりからはいっそう涙があふれて、同時に自然と笑みがこぼれた。


 かすむ視界の中で、青い目が一層近くなった気がしたが、暗闇に落ちた後では確かめようもなかった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ