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私の心は金の波  作者: 日野真春
番外編2-昔話と後日談ー
30/34

10



 ★


 何が起こったのか、わからなかった。

 引き倒されたのだと気づいたのは、一拍遅れて痛みと共に土と砂の匂いがし、体を押さえつけられていたからだ。

 誰何の声を出す前に口が布でふさがれた。耳だけが自由で、野卑な言葉と理不尽な言いがかりをすべて拾いあげる。声は数人分だ。

 心のどこかが、音を立てて凍り付いた。

 恐ろしさも怒りもなく、ただ冷静に判断する――これは、と。

 けれど体は正直で、どうしようもなく震える。不自然に強張った手足を、さらに無理やり地面に押しやられて、骨がきしんだ。

 見えているはずの視界は、全体が暗い。顔も、服装も、はっきりと捉えられないまま、薄汚れた手のひらが迫って――似ても似つかない、土のついた指先を思い出した。

 とっさに顔背ける。それから、自由だった左足を振り上げた。何かを蹴った感触と、痛え、という悲鳴。拘束のゆるんだ一瞬に、体を丸めて逃れた。


「――っの、おん、な!」


 だが、起き上がって逃げ切る前に、肩に指が食い込んだ。そのまま、地面とぶつかる。

 腕が振り上がったのは、気配で分かった。殴られると反射で目を瞑って――


「……――」


 音が、消えた。動かない腕をどうにか引き戻して、震えながらゆっくりと振り仰いだ。砂をこする音が、やけに大きく耳に届く。

 アンを押さえていた男の体、それが、唐突に――消えた。やや離れたところで、悲鳴と鈍い音、続いてばたばたと駆け寄る足音がする。


「……めえら」


 低く掠れた声は、短くても怒りがこもっていて、恐ろしかった。アンの近くに、声の主が仁王立ちになっていた。何かわめく声がするのに、まるで言葉として捉えられなかった。

 なのに、その声だけは――はっきりと届く。


「女を手籠めにしていい理由なんざねえ! ――失せろっ」


 怒号に、殴られた。アンに向けた声でないのに、顔を張られた後のような衝撃があった。

 よく知っている、はずだった。間違えるはずがないと、囁く自分がいるのに、疑いは消えない。さらに、信じられない気持ちと、信じたくない気持ちも重なっていた。

 影だった相手が、すっと膝をついて――じっとアンをうかがった。

 不安と心配をないまぜにして、笑おうとして失敗した泣き顔。


「……ジル」

「ええ、あの……お怪我は、ありませんかい?」


 擦り傷のついた顔を目の前にしての問いかけは、随分と間抜けだった。だが、差し出された手に、赤黒い筋が残っていて、目が釘付けになる。不自然に固まったアンの視線に気づいて、慌ててジルが手を引っ込めた。

 いつもの癖を発揮して、ズボンでこすったせいで、今度は服に赤が移った。

 ああ、とジルが呻く。


「……」


 だから止めなさいとあれほど言ったのに、と変な模様になったズボンに、呆れと哀れみを感じた。本当にどうしようもない。あれはきっと染みになる。

 ふ、と息を吐き出した。笑いにもならない微かな息。

 どうにか、半身を起こして、目線を上げた。地面に座れば、いつもより、ずっと大きく見えたジルの体は、おかげでいつも通りに見えた。


「手を貸していただけますか」

「いや、でも……」


 ちらちらと必死に目を逸らしながら、ジルが躊躇う。そのまま後ずさりそうなジルの手を、アンはしっかりと掴んだ。

 簡単に振り払えるくせに、ジルはただ困った顔でアンの指先を見つめるだけ。


「……俺が、怖いでしょう?」


 小声で訊かれて、躊躇わず頷いた。同時に、つないだ指には力を入れる。離さない、という意思を込めた。


「怖かったです、とても」

「だったら」

「それでも、あなたはジルでしょう?」


 青い目が、丸くなった。はあ、という声は返事ではなく、良く分からない、の意味だ。


「私を助けてくれる。いつでも、あなたは変わりません」


 触れた手は、驚くほど大きくて、指が回らない。間近にある腕の太さも、力強さも、過ごした時間の中では知りえなかった。

 当惑を浮かべて、ジルが緩く首を振る。


「そんな、大げさで」

「派手に喧嘩をしたじゃありませんか」

「なら、今日だけが特別でさ」

「ええ。そうですね。助けてくださった――そういうことでしょう?」


 うぐ、とジルが言葉に詰まった。もごもごと続きを引っ張り出そうとするが、ついにため息に変わる。敵いませんな、とかすかに笑った。

 失礼、と断ってから指がアンの手から離れた。両手をはたいて汚れを落とす。

 もう一度差し出された手を頼って立ち上がろうとしたところで――どうにも力が入らないことに、今更気づいた。その上、靴は片方なく、足首ははれ上がっている。痛みがないのが、そもそもおかしいのだ。

 表情の変わらないアンと違い、ジルは泣き顔としかめ面を見事に交互に浮かべていた。眉間のしわが深い。しばらく迷ってから、すいません、ともう一歩アンに近づく。

 アンの目の前が暗くなった、と思ったら、すぐに浮遊感がした。抱き上げられたと気づくのに、数瞬遅れた。

 ジルが、後で叩いてください、とか、目を瞑っててください、なんてぶつぶつ言っているが、聞き流しているうちに、気づけば自室のベッドの上だった。

 アンを下ろした後に、すっと離れていくジルの服を、とっさに掴んでいた。驚いたのは二人同時だ。取り繕って手を放したが、右手をさえておかないと、また驚かせてしまいそうで、アンは落ち着かなかった。


「あの……女手を、うちの姉を連れてきますんで」

「え、ええ。分かりました。お願いします」


 ジルの判断が正しいと理解できた時点で、他の事を口にするのは躊躇われた。だが、ジルが動かない。棒立ちになって、根が生えたようだった。

 行かないでと叫ぶアンの心が伝わったのか、名前を呼ぶと、反対にベッドの横に膝をついた。


「ジル」

「ひでえ奴らがいたもんだ……あんたも、こんなところにいるばっかりに、とんだ災難だ……こんな言い方で片付けちゃいけねえんだけどよ」


 アンの頬に付いた土を指が擦る。温かさに寄り添うと、反対側も温もりが覆った。


「ジル、私は」

「あんたは、早いところ、首都にお帰りになった方がいいかも知れねえ」

「……」

「俺はただの庭師で……だからちっとばかし荒っぽい奴らのいる田舎でもよかったんだ……あっちなら、きっとあんたもこんな目に遭わねえで済むんでしょう」


 涙でぬれた名残のある青い目が、アンを映していた。なんのための雫だっただろうか。怒りのせいか、憐れんだのか、はたまた……これから来ると予想した別れなのか。

 どちらにせよ、ジルの言葉は真実だった。首都にいれば、護衛を雇うことも、馬車に乗ることも出来る。そもそも、堅固な壁のある学院の研究所には、身分と見識のある限られた人間にしか出入りが許されない。


 するりと、手が離れていくのを、止められないまま、アンはただ空を見つめていた。





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