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私の心は金の波  作者: 日野真春
番外編2-昔話と後日談ー
29/34

9



 ☆



 攫われるように連れてこられたのは、あの四阿だ。ベンチには棘の抜かれたバラの花が数本、細い紐で縛ってあった。花束に見えなくもないそれに、小さい頃の記憶が重なる。咲き初めのまだ薄い色のまま、白と赤との狭間で揺れる色に、自然と手が伸びていた。


「お嬢様のお好きな花の一つですね。大輪になるのは、もう少し時間が掛かるようですよ」

「……もう、無いと思っていたわ。だってこれ、ジルが作った花でしょう」

「ええ。作ったのですから、もう一度最初からやり直せるものです」


 植物を研究するオリヴィアとしては、簡単そうに聞こえる作業が、相応の時間が必要なことが分かる。前回は、三年かかった。

 過去に垣間見た、ボロボロになった庭は、寂しさと諦観をいっぺんに連れてきた。だが同時に、冷徹な予感も抱いた。この庭と同じ運命を、ウィルコットが辿るのだ、と。

オリヴィアが好きだった花が消えた庭は、そのまま王家に接収された。手入れが入るどころか、証拠を探して掘り返されたとも話にあった。

 見事に蘇らせた、その手腕は変わらないのだ。


「ジルは……すごいのね」

「ええ、全くです」


 地道な作業に、ひたすら集中する丸まった背中が、どれほど尊いか、きっと本人は分かっていない。

 どうぞとアンが差し出したのは、手巾だ。オリヴィアのはジルに渡したから、ありがとうと受け取って、涙の名残に当てた。

 並んで腰かけて、柔らかな微風のなかでゆっくりと息を吐いた。すっと顔を上げたオリヴィアは、礼儀にのっとって目線を下げる。


「お久しぶりです……アン=スティリー博士」


 四年の間に、彼女が辿った道の末に得た地位のもとに名を呼べば、まあ、とわざとらしくアンが声の調子を上げて驚いてみせた。

 思いがけない返答に、オリヴィアが戸惑っていると、ふふ、とアンがほほ笑む。茶色の瞳にある色は、あまり見たことがなかった。どことなく、面白がっている、なんて真面目なアンからは、かけ離れている。


「間違ってはいないのですけれど……昔のように呼んでくださいな」

「ですが……あなたはもう私の使用人ではなく、一人の学者として」


 先を、アンの指先がオリヴィアの口元に伸びてきて遮った。そのまま顔がそっと近づいてきて、楽し気に囁いた。


「懐かしい話をしたいのですよ……お嬢様」

「……」


 懐かしい口調だった。とても懐かしい響きだった。こみ上げた感情に、胸が痛くなって、けれどもう一度手巾を使いたくなくて、ゆっくりと瞬きをしてから、ええ、と頷いた。


「分かったわ。アン……あなたたちが無事でよかった」


 人から伝え聞くだけでなく、当人が目の前にいる。気がかりが本当の意味ですっかり消え、心からオリヴィアは安堵していた。

 以前と変わらない、ジルの背中。簡素でありながらも、ぴしりと芯のある背筋と印象をそのままに、学者となったアン。

 彼らの行く末、過去、現在に、ウィルコットの影はないのだとようやく実感できた。


「はい。お嬢様はお変わりなく……ではなく、大変お綺麗なられて」

「まあ」

「もちろん、お小さいお嬢様も、まるで天使様のように愛らしい方でしたけれど」


 ふふ、とオリヴィアの頬が緩む。


「……アン、ジルと同じことを言っているわ」


 ジルの言葉遣いは荒っぽかったが、ほとんど変わらない。三人でいた過去は、閉ざされてはいたが、気持ちも息も合った空間だったと、改めて思い返された。

 アンは少し驚いた表情から、すぐに微笑に変わった。オリヴィアの消息は、伝手を頼りに細々と頼りつつ、何もよりも新種の麦の話を欠かさず集めたという。


「お嬢様のお名前は出てこなくても、新種の麦の話は、この国にいれば毎年耳にしましたから」

「そうね。四年で、ずいぶんと研究の規模も大きくなったもの」


 問い合わせは時が過ぎるほどに多くなった。資金も、人手も、そして畑の広さも。

 ああ、とオリヴィアは目を伏せた。一面の麦畑からは、どうしてもサイラスが浮かぶ。伸ばされた手から自ら離れて、けれど恋しかった。なのに、まだ迷う。


「あの、アン」

「はい」

「もう戻った方がいいのではないかしら? サイラス様は……なにも悪くないのよ」

「かもしれません」

「なら」

「ですが」


 オリヴィアを遮って、アンは首を振った。


「お嬢様は、お一人の方が、じっくりと考えられるでしょう?」


 見透かされて、一瞬次の言葉に困った。けれど、今の状況と自分の思考を天秤にかけても、答えは変わらなかった。どうにもならない、という予感があった。

究明し、一つの答えがあるものではないと、それだけは分かっていた。


「気遣いはありがたいけれど……今はいいわ」

「では……僭越ながら、私にお話しいただけますか」


 優しく問われて、僭越なんてとんでもない、と手を振って否定する。


「アンは立派な先生よ。ずっと昔から」


 そうだ、と自分の言葉で、オリヴィアの脳裏に薬草師として佇むアンの姿が浮かぶ。たくさんのハーブについて、地域の植生の差、はたまた気候の予測まで。彼女の知識の範囲は、とても広かった。

 茶色の瞳に促されて、そうね、と唇の端に指をあてる。心中の不安を、言葉にするのは、躊躇い以上に、のどの奥で何かがつかえて難しかった。


「私……私は」

「ゆっくりでよいのですよ、お嬢様」

「ありがとう」


 不安は何だろう、ともう一度問いかける。ふう、と息を吐くと同時に、こぼれた。


「私……出来ないことが増えたのでは、と思うの」


 ままならない感情や思考。薄れてしまった警戒心。かつてオリヴィアを支えていたはずの事が、なぜか難しくなっている。

 少しずつしか進まない説明に、根気よくアンは耳を傾ける。また、途絶えそうになると、聞いていますよ、と合図するかのように、微笑や相槌をくれた。


「……ですから、私。どうしても考えてしまうの――本当に、私はあの方にふさわしいのか」


 過去は、消えない。罪人の血筋であることも、父母の罪の上に生きていたことも。

 胸がどうしても苦しくなるのは、離れがたいけれど、離れなければならないのでは、と囁く声がするからだ。

 暗い視線のまま、オリヴィアが目を伏せる。姿勢は美しいままでも、消沈した様子は痛々しい。落ちた肩を、そっとアンの手が支える。


「私は、そうは思いませんよ、お嬢様」

「でも」

「私には……あなたは当然の反応を示しているだけのように見受けられます」


 警戒は不要。敵はいない。過去は清算され、すでにオリヴィアには自由の身として十分な補償を得ている。


「あなたの無意識は、意識的なあなたを飛び越えてしまうのかもしれませんね」

「私の、無意識、ですか……」

「ええ。あなたが考えている以上に、鋭く自由なのではありませんか」


 そうだろうか、と自問する。だが、明確な論理は得られない。だからこそ、不安なのだが、無意識を問うことは難しかった。

 困惑の内にアンを見上げると、では、人差し指が立った。


「考え方を変えましょう。お嬢様。あなたにとって、今重んじるべきことは何か?」

「私が、重視すべき事?」

「はい……あなたは新しい生活を目前にしております。知人、友人だけでなく、新たな人脈を得ることもあるでしょう」

「それは、もちろん」

「では……その時に必要なのは、警戒心でしょうか」

「――」

「誰かを排除するのではなく、受け入れることこそが、大事でしょう?」

「……もちろん。ですが」

「そうやって迷っているご自分の事も、です」


 くるり、と視点が変わった。色あせた目の前が、オリヴィアの心が、あっという間に色彩を取り戻す。凝っていたはずのなにかは、とけて消えて、残ったのはようやく手に残るほどの小さな花びらに似た滓だけだった

 まあ、とオリヴィアは驚きの声を上げる。瞬いた氷の瞳から、すっと涙が一筋こぼれた。


「――上手ね、アン博士」

「ええ……何分、経験者ですから」



 アンのさらりとした告白に、またオリヴィアの目が丸くなる。

 ねえ、と自然とオリヴィアはねだっていた。あなたの話を聞かせて、と。








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