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両親は健在だ。だが貴族子女として大きく外れた道を進み、学問を収めた娘を、どうにかして「あるべき姿」に戻したいと画策する相手だった。
家を継ぐべき兄は、両親よりもさらに折り合いが悪い。例外は、貴族の身分を捨てて、街の一職人となった弟だが、あいにくと家族の増えた話がまた聞こえてきたばかりだった。
そもそも、領地に戻れば、二度と自由は得られないかもしれない。
「薬草師様……?」
「いいえ。大丈夫です」
言い聞かせるように、強く告げる。
かつてジルは、毎日が夢みたいだと笑っていたことがあった。お嬢様がいて、綺麗な庭があり、好きなことができるのだと。
滅多にないことだが、その時は心の底から同意した。
あの時間は、まるで夢のようだった。
アンを選んだのは、オリヴィアだった。研究の内容が温室を扱った草木の育成についてだったからだ。明確で合理的な理由は、これ以上ないほど簡潔だった。
女であるということも、歳若いことも、主流から外れた研究であることも、問われなかった。
小さな少女の、あまりにも真っ直ぐな理由に、心の底から震えた。
同時に、あの少女が特異であることも悟って、事実、オリヴィアは過ぎるほど賢い、大人びた子供だった。
けれど、共に過ごす時間は、純粋に楽しかった。
もう一人の使用人が、ジルだった、というのも、大きな理由だ。
彼は、ただアンを尊敬し、常に丁寧な態度を貫いた。例えそれが、人よりも草木に目が行き、世間に疎いのが理由だったとしても、こそばゆくて仕方がなかった。
月日が流れた今も、ずっとジルの態度は変わらない。ならば、いつも通りのアンでいなければならなかった。
「お帰りにはなれないんで?」
戻ると言わなかったことを確認されて、仕方なく頷く。ジルは細かく追求してこないと、付き合いの長さで分かっていても、一瞬、嘘をつこうかと悩んでしまった自分に、どうにも嫌気がさした。けれど、相手がジルでは、結局偽りは口に出せなかった。
伝手をたどれば、地方に行くことは難しくない。学院時代の友人が南方へ嫁いだ話も小耳にはさんだし、別の友が北方の病院に勤めたことも聞いていた。学院には恩師もいる。彼の力を借りることも考えていた。
ただ――どれもすぐに、とはいかない。時間が必要だ。
加えて、悪名高いウィルコットの名前の影響もあるだろう。見通しが立たないのは、確かだった。
躊躇いは、短い沈黙を生んだ。そのせいで、ただ一言、伝手はある、とアンが伝えるよりも、一緒に来ますかい、とジルが尋ねる方が早かった。
今度目を見張ったのは、アンの方だ。
「……なんですって?」
「なんもねえ田舎ですが、薬草師様お一人くらいなら、食いものと家はどうにかなります。首都の噂も回るのには時間がかかるし、遠すぎて騒ぐのも馬鹿馬鹿しいって扱いです」
「……」
「知り合いばっかりで、荒っぽいんですが、悪人はいねえですし」
「……」
「うちのかかあと姉貴は! 世話になったんだって言ってありますんで」
「あの、」
「俺も、お返し、いや倍くらいの恩返しのつもりで――」
「ジル!」
どんどん前のめりに迫ってくるジルの肩を押さえながら、アンが叫んだ。はっとして、すんません、とジルが椅子に座り直す。
どんどん推し進めようとする勢いに、一瞬のまれかけた。今までにないくらい、ジルが近かったことにも、らしくなく落ち着かなかった。
他意はない。ジルに、全く他意はない。その証拠に、しょげた子供にまた戻っていた。
「あの、無理強いするつもりは」
「分かっています。お気遣い、ありがとうございます」
「こんなおっかない所に、あんまり長居するもんじゃねえって話でしたので、つい」
「……」
時折、ジルは直感、いや野生の勘のように、鋭く物事を見抜く。迅速さと、この屋敷からの物理的な距離はあればあるほどいい。
首都を知らない人間ばかりの田舎に行ってしまう方が、今後の騒動に巻き込まれなくて済むのだ。
――悪い話では、ない。ほとぼりが冷めるまで、隣にいる男を頼るのも、これもまた「伝手」であるのだから。
今は低い位置にある青い目と、見つめ合う。
引っかかるのは、理性の方ではなかった。
「ジル、あなたは……」
「はあ」
のど元まで出てきた問いかけは、結局音にならなかった。純粋な疑問を浮かべて待つ姿勢の相手に、尋ねるのが馬鹿馬鹿しくなったせいだ。
故郷に女を連れ帰る意味を、知らないのか忘れているのか。
白目はまだ充血して、赤い。代わりに、残っていた涙の筋と小さなしずくを拭えば、大きな手の甲が追いかけるように同じところを通った。
「世話になるばかりでは、申し訳がありませんね」
遠回しに了承すれば、ぱあっと笑顔になる。いやいや、とアンの言葉を否定した。
「さんざ世話になったのは俺の方でさ。何でも言ってくだせえ」
「過去は過去でしょう。何があるか、分からないのに」
「大げさですよって……あ、そんなら」
いいことを思いついた、と庭師がパチリと指を鳴らした。
「文字を教えてくだせえ」
「字を?」
「ええ。簡単なのは分かりますが……お嬢さんに手紙を書けるくらいに」
「構いませんが……」
教えることに否やはないが、書いたところで、届く望みはほとんどない。言いよどんだ先を、分かってます、とジルがうなずいた。
「いつか、でいいんですよ。いつか……会えるなら、一言でもいい。無理なら、手紙でしょう? 書けるようになっときたいんです」
ジルの目が、記憶をたどって遠くを見た。最後に会えたのは、本当に偶然が重なった幸運だった。
けれど同時に、寂しくなった庭木を見られてしまった時でもあった。たった二年で、少女はずいぶん大人に近づいて、横顔は一層美しく、灰色の目には、静かな知性が宿っていた。
はた目には無表情だったとしても、ジルには一抹の寂しさが浮かんでいるように見えた。
「俺が謝ろうとしたら、いいんだ、って」
とっさに駆け寄ろうとしたジルを、小さな動きで留めた。今、オリヴィアのそばに行ってはならないと、直感した――そういう時が、かつてもあった。
「花はいつか枯れるものだから。ここの庭も、同じだって」
「――」
「んな事ねえって言いたかったのに、言えなかった」
どこか悔しそうな口調が、庭師らしい。
「枯れてもまた咲くんですよ、花ってのは」
「……」
アンは、知らずに体を固くしていた。詰めた息を吐き出すために、意識して深呼吸する。ジルと違って、アンはオリヴィアに会えなかった。だが、聞いていないはずの言葉が耳の奥でこだまする。
花は枯れる――庭も枯れる。
オリヴィアが口にすれば、意味が変わる。聡い少女は、全てが変わる前から、予感を得ていたのだ。
きっとわかっていないであろうジル。けれど、だからこそもう一度花が咲くと、咲かせようと信じる男は、オリヴィアに必要だ。
この二人の縁を、もう一度つなぐために、ええ、とアンは強くうなずいた。
「私で良ければ、教えますよ……ただし、手抜きは許しませんが」
あえて厳しい声を出せば、へへ、とジルは気の抜けた笑顔になった。




