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ぶつかり合ったのは、どちらもひどく冷静で、感情の読めない静かな目だった。それだけで、ああ、同類だと納得するには十分すぎるほど。
違うのは、まだ年若い分だけ、押し殺した感情が時折浮かぶ点と、言葉の端々に、柔らかさがある事。だが、無意識だけにしては、態度が違い過ぎるとアンは目の前の青年を観察していた。
なにしろ、対面して出会いがしらのセリフは、君しか呼べなくて悪いね、なのだ。
アンを引き合いに出すのならば、答えは一人しかいない。さらに、もう二度と会えなくなってしまった少女が自然と思い浮かぶ。
浮かんでは消える、小さな背中に、胸が痛かった。
必死に、けれど静かに追いかけた兄の正体と、その仕打ち。すでに知らせは入っているだろう。
――ウィルコットの名は、もうない、と。
ひどく賢く、優しかったお嬢様にとって、それは救いであり断罪だ。あの身に決して罪はなくても、彼女はウィルコットの一員であり、けれど同時に、死を免れていた。
アンは、サイラスがいつかあの男の手先になると信じていた。あのウィルコットの当主さえ欺いたのだから、当然と言えば当然である。
騙されたという怒りも抱けず、かといって安堵もできない。どこまで相反する複雑な気分だったが、押し殺して努めて無表情を貫いた。頑ななアンの態度に、背を向ける間際に苦笑が滲んだのは錯覚か、現実か。
どちらにせよ、残るのは痛みだけだった。
用件は事務的だった。ささやかな報酬と、身分を保証する書類、そしてこの屋敷に残ってはならない、出来るだけ早く発つように、という通告だ。
広げられた書類の文言の端々に、王命がちらつく――どこまでも、全て計算しつくされた日々だったと、突きつける。
黙って受け取ること以外の選択肢はないと悟って、最後に扉の前で振り返った。
「――後悔、しますよ」
年若い公爵は、やはりここでも揺らいだ。答える義務はないのに、見事に微笑してみせた。
「出来ないよ。決して、ね」
「……」
今度こそ、アンは黙って部屋を出た。広い廊下は、人がいなくなった分だけ無音になった。向かう先は一つだ。
使用人たちの居住区に入れば、ぐっとすべては質素になる。足元の絨毯は消え、靴音が響く。一人分の音を反響させて進んだ先、開かれた扉の向こうは、使用人たちの食堂だ。広い机と、まばらに椅子が据え置かれていた。その、一番奥に、見慣れた背中があった。
「……ジル」
呼んだ返事は、泣き声だった。いつか見た光景に似ている。机に突っ伏して、盛大に泣いていた。
「あんまりじゃねえですか……」
これもまた、聞き覚えのある涙声だ。相変わらず、羨ましいほど直情的で、荒れ狂っていた内心が少し静まった。
だが、以前と違って、泣いている暇はない。
「ジル、急いで身支度をしてください。もう」
この屋敷に無為に留まることはできない。そう続けようとしたが、荒々しい音に阻まれた。体が勝手に硬直する。
「お嬢様が極悪人なわけねえでしょうに、あんまりじゃねえですか!」
拳が机を叩いた音だ。吐き出された怒りは、今まで見たことがないほど激しかった。赤と黒に染まった顔、噛み締めた歯の奥で低く唸る声。両手の拳は、関節の色が真っ白だった。
「なんで――なんでお嬢様まで! あの方はなんも関係ねえっ。ただ、ただ――」
その先は続かなかった。息を吸い込んだあと、ジルは顏を覆ってもう一度机にうつ伏した。
生きていれば、きっといつか、笑えるようになる日がくると、ジルは信じていた。
広い世界のどこかで、自分の知らない誰か、もしくは何かが、少女を幸せにしてくれるのだと。
事実、ほんのひと月前に戻ってきた十五歳になったオリヴィアは、以前よりずっと柔らかい雰囲気をまとっていた。窓から庭先にいたジルと、少し遠い距離でわずかに言葉を交わすだけの短い邂逅だったが、十分確信した。
だが、訪れた現実は、垣間見た希望をあっけなく潰していた。
ただ――ウィルコットの名の下に生まれてきてしまった、というだけで。
背中を震わせるジルの隣に、アンは腰掛けた。
以前と同じように、畳んだ手巾を差し出して、丸まった背をさする。しばらくすれば、呼吸がゆっくりになり、震えが止まった。
くぐもった声ですんません、と小声で謝るのを、何度聞いたことか。
飾り気のないドレス、又は薬草の手入れの時には男物の服さえまとい、さらに防護が必要であれば黒いローブを羽織る。物語の魔女だと後ろ指を指されたこともある。合理性と理論を優先する生き方とは、決して相入れないはずなのに——気が付けば、手を差し伸べてしまうのだ。
別の人間ならば、きっと無知と無駄さ加減に辟易する自身が、容易に想像できるのに。
「……面目ねえ」
落ち着いたジルが、体を起こす。アンよりもずっと体格がいいはずなのに、縮こまるジルは叱られた子供のようだった。
サイラスは、ジルを呼べずに悪かった、と告げたが、あの青年と向かい合った途端、殴りかかっていそうなジルと、相対せずに済んだのは双方にとって幸運だったかもしれない。
一つ、息をついてから、いいですか、とアンは努めて冷静に切り出した。
「お嬢様が牢に入れられることはありません」
「へ?」
「処刑もされません」
「え」
「これからも学院で研究をお続けになります」
ぽかん、と間抜けな顔のまま、ジルが動かなくなった。飲み込むまでの沈黙を待って、つい瞬きを繰り返す青い目を見つめる。
ようやく、だけど、と戸惑いながらジルが声を出した。
「罪人、だって」
「ええ。罪人です」
「なら」
「学院の一区画に身を置き、監視も付きます。外出もできません。私財を得ることもなく——ですが、研究はお続けになるでしょう」
ジルは、なんとも複雑な表情で口を開いて、また閉じた。気持ちは、わからないでもない。どう説明すべきか悩んで、結局、大丈夫でしょう、と続けていた。
「広い檻ではありますが、居心地は悪くないのです。実力主義の世界ですから、あの方なら、上手くやるでしょう」
「ご存知なんで?」
「ええ——古巣です」
ジルが、驚いて息を呑む。
学院は、オリヴィアやジルに会うまでの、アンの居場所だった。
狭い研究室と、わずかばかりの予算——オリヴィアの研究とは比べ物にならないほどの規模だった——薬草学の一分野の研究者として、日々を過ごしていた。
アンの研究は、いつ打ち切られてもおかしくなかったが、オリヴィアの後ろ盾は国家である。立場は、ある意味保証されていた。
「じゃあその、本物の学者様……」
「そう偉くはありません」
「だけども、あの……どこぞの、貴族様で?」
「身分だけを問うなら、地方の領主の娘ですよ、私は」
目を丸くしたジルと、どこまでも静かなアン。対照的な二人に、また沈黙が降りた。
ジルはどうにも落ち着かなかった。身の上話は、お互いほとんどしたことがなかった。オリヴィアの家族に触れそうになるゆえに、会話の合間に時折出てくる程度だった。何に驚いていいのか、何を考えていたのか、真っ白になってしまった。
立ち上がって、アンのきっちり結い上げた茶色の髪を見下ろして、また座り込む。
えーと、を繰り返して、とにかく、一番大事なことをもう一度確かめた。
「お嬢さんは……お好きだった研究を、お続けになる」
アンはただ頷いた。むしろ、そのために生かされているといえば、またジルは混乱するだろう。どんな道であれ、オリヴィアの人生はまだ先がある。少女は受け入れたと、サイラスから聞いていた。
ほう、と肩の力を抜いた男に、アンは目を細める。ようやく、ここに来た目的を切り出せるようになった。
屋敷を出なければならないこと。必要な書類と当座の生活費を渡されたこと。アンの助言として、一度は首都を離れた方がいいこと。すべて、生真面目にジルは頷いた。
「身一つ同然なんで、明日には発ちましょう」
「早いに越したことはありませんが、道のりは遠いのでしょう」
「まあ、天気が崩れなきゃ、四日か五日でしょう。慣れた道ですから、滅多なことはありませんよ」
「ならよいのですが……」
居残っていては、どんな疑いが掛けられるか、分かったものではない。飲み込んだ先を知るはずもないのに、ジルの顔には、明らかにアンへの憂いが浮かんで、内心で狼狽えた。
「あの、薬草師様は」
「私、は」
どうとでもなる。そうきっぱりと告げるはずだったのに、喉の奥が強張った。そのせいで、更にジルの表情が曇った。
「弟さんのところには、行かれねえんですか?」
かつて唯一話した家族を持ち出されて、目線を落とす。
ジルには、迎えてくれる家族があり、帰るべき故郷がある。だがアンには、戻りたいと思える場所がなかった。