表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私の心は金の波  作者: 日野真春
番外編2-昔話と後日談ー
27/34

7





 ぶつかり合ったのは、どちらもひどく冷静で、感情の読めない静かな目だった。それだけで、ああ、同類だと納得するには十分すぎるほど。

 違うのは、まだ年若い分だけ、押し殺した感情が時折浮かぶ点と、言葉の端々に、柔らかさがある事。だが、無意識だけにしては、態度が違い過ぎるとアンは目の前の青年を観察していた。


 なにしろ、対面して出会いがしらのセリフは、君しか呼べなくて悪いね、なのだ。

 アンを引き合いに出すのならば、答えは一人しかいない。さらに、もう二度と会えなくなってしまった少女が自然と思い浮かぶ。

 浮かんでは消える、小さな背中に、胸が痛かった。


 必死に、けれど静かに追いかけた兄の正体と、その仕打ち。すでに知らせは入っているだろう。

 ――ウィルコットの名は、もうない、と。

 ひどく賢く、優しかったお嬢様にとって、それは救いであり断罪だ。あの身に決して罪はなくても、彼女はウィルコットの一員であり、けれど同時に、死を免れていた。


 アンは、サイラスがいつかあの男の手先になると信じていた。あのウィルコットの当主さえ欺いたのだから、当然と言えば当然である。

 騙されたという怒りも抱けず、かといって安堵もできない。どこまで相反する複雑な気分だったが、押し殺して努めて無表情を貫いた。頑ななアンの態度に、背を向ける間際に苦笑が滲んだのは錯覚か、現実か。

どちらにせよ、残るのは痛みだけだった。


 用件は事務的だった。ささやかな報酬と、身分を保証する書類、そしてこの屋敷に残ってはならない、出来るだけ早く発つように、という通告だ。

 広げられた書類の文言の端々に、王命がちらつく――どこまでも、全て計算しつくされた日々だったと、突きつける。


 黙って受け取ること以外の選択肢はないと悟って、最後に扉の前で振り返った。


「――後悔、しますよ」


 年若い公爵は、やはりここでも揺らいだ。答える義務はないのに、見事に微笑してみせた。


「出来ないよ。決して、ね」

「……」


 今度こそ、アンは黙って部屋を出た。広い廊下は、人がいなくなった分だけ無音になった。向かう先は一つだ。

 使用人たちの居住区に入れば、ぐっとすべては質素になる。足元の絨毯は消え、靴音が響く。一人分の音を反響させて進んだ先、開かれた扉の向こうは、使用人たちの食堂だ。広い机と、まばらに椅子が据え置かれていた。その、一番奥に、見慣れた背中があった。


「……ジル」


 呼んだ返事は、泣き声だった。いつか見た光景に似ている。机に突っ伏して、盛大に泣いていた。


「あんまりじゃねえですか……」


 これもまた、聞き覚えのある涙声だ。相変わらず、羨ましいほど直情的で、荒れ狂っていた内心が少し静まった。

 だが、以前と違って、泣いている暇はない。


「ジル、急いで身支度をしてください。もう」


 この屋敷に無為に留まることはできない。そう続けようとしたが、荒々しい音に阻まれた。体が勝手に硬直する。


「お嬢様が極悪人なわけねえでしょうに、あんまりじゃねえですか!」


 拳が机を叩いた音だ。吐き出された怒りは、今まで見たことがないほど激しかった。赤と黒に染まった顔、噛み締めた歯の奥で低く唸る声。両手の拳は、関節の色が真っ白だった。


「なんで――なんでお嬢様まで! あの方はなんも関係ねえっ。ただ、ただ――」


 その先は続かなかった。息を吸い込んだあと、ジルは顏を覆ってもう一度机にうつ伏した。


 生きていれば、きっといつか、笑えるようになる日がくると、ジルは信じていた。

 広い世界のどこかで、自分の知らない誰か、もしくは何かが、少女を幸せにしてくれるのだと。

 事実、ほんのひと月前に戻ってきた十五歳になったオリヴィアは、以前よりずっと柔らかい雰囲気をまとっていた。窓から庭先にいたジルと、少し遠い距離でわずかに言葉を交わすだけの短い邂逅だったが、十分確信した。


 だが、訪れた現実は、垣間見た希望をあっけなく潰していた。

 ただ――ウィルコットの名の下に生まれてきてしまった、というだけで。


 背中を震わせるジルの隣に、アンは腰掛けた。

 以前と同じように、畳んだ手巾を差し出して、丸まった背をさする。しばらくすれば、呼吸がゆっくりになり、震えが止まった。

 くぐもった声ですんません、と小声で謝るのを、何度聞いたことか。


 飾り気のないドレス、又は薬草の手入れの時には男物の服さえまとい、さらに防護が必要であれば黒いローブを羽織る。物語の魔女だと後ろ指を指されたこともある。合理性と理論を優先する生き方とは、決して相入れないはずなのに——気が付けば、手を差し伸べてしまうのだ。

 別の人間ならば、きっと無知と無駄さ加減に辟易する自身が、容易に想像できるのに。


「……面目ねえ」


 落ち着いたジルが、体を起こす。アンよりもずっと体格がいいはずなのに、縮こまるジルは叱られた子供のようだった。


 サイラスは、ジルを呼べずに悪かった、と告げたが、あの青年と向かい合った途端、殴りかかっていそうなジルと、相対せずに済んだのは双方にとって幸運だったかもしれない。

 一つ、息をついてから、いいですか、とアンは努めて冷静に切り出した。


「お嬢様が牢に入れられることはありません」

「へ?」

「処刑もされません」

「え」

「これからも学院で研究をお続けになります」


 ぽかん、と間抜けな顔のまま、ジルが動かなくなった。飲み込むまでの沈黙を待って、つい瞬きを繰り返す青い目を見つめる。

 ようやく、だけど、と戸惑いながらジルが声を出した。


「罪人、だって」

「ええ。罪人です」

「なら」

「学院の一区画に身を置き、監視も付きます。外出もできません。私財を得ることもなく——ですが、研究はお続けになるでしょう」


 ジルは、なんとも複雑な表情で口を開いて、また閉じた。気持ちは、わからないでもない。どう説明すべきか悩んで、結局、大丈夫でしょう、と続けていた。


「広い檻ではありますが、居心地は悪くないのです。実力主義の世界ですから、あの方なら、上手くやるでしょう」

「ご存知なんで?」

「ええ——古巣です」


 ジルが、驚いて息を呑む。

 学院は、オリヴィアやジルに会うまでの、アンの居場所だった。


 狭い研究室と、わずかばかりの予算——オリヴィアの研究とは比べ物にならないほどの規模だった——薬草学の一分野の研究者として、日々を過ごしていた。

 アンの研究は、いつ打ち切られてもおかしくなかったが、オリヴィアの後ろ盾は国家である。立場は、ある意味保証されていた。


「じゃあその、本物の学者様……」

「そう偉くはありません」

「だけども、あの……どこぞの、貴族様で?」

「身分だけを問うなら、地方の領主の娘ですよ、私は」


 目を丸くしたジルと、どこまでも静かなアン。対照的な二人に、また沈黙が降りた。


 ジルはどうにも落ち着かなかった。身の上話は、お互いほとんどしたことがなかった。オリヴィアの家族に触れそうになるゆえに、会話の合間に時折出てくる程度だった。何に驚いていいのか、何を考えていたのか、真っ白になってしまった。


 立ち上がって、アンのきっちり結い上げた茶色の髪を見下ろして、また座り込む。

 えーと、を繰り返して、とにかく、一番大事なことをもう一度確かめた。


「お嬢さんは……お好きだった研究を、お続けになる」


 アンはただ頷いた。むしろ、そのために生かされているといえば、またジルは混乱するだろう。どんな道であれ、オリヴィアの人生はまだ先がある。少女は受け入れたと、サイラスから聞いていた。


 ほう、と肩の力を抜いた男に、アンは目を細める。ようやく、ここに来た目的を切り出せるようになった。

 屋敷を出なければならないこと。必要な書類と当座の生活費を渡されたこと。アンの助言として、一度は首都を離れた方がいいこと。すべて、生真面目にジルは頷いた。


「身一つ同然なんで、明日には発ちましょう」

「早いに越したことはありませんが、道のりは遠いのでしょう」

「まあ、天気が崩れなきゃ、四日か五日でしょう。慣れた道ですから、滅多なことはありませんよ」

「ならよいのですが……」


 居残っていては、どんな疑いが掛けられるか、分かったものではない。飲み込んだ先を知るはずもないのに、ジルの顔には、明らかにアンへの憂いが浮かんで、内心で狼狽えた。


「あの、薬草師様は」

「私、は」


 どうとでもなる。そうきっぱりと告げるはずだったのに、喉の奥が強張った。そのせいで、更にジルの表情が曇った。


「弟さんのところには、行かれねえんですか?」


 かつて唯一話した家族を持ち出されて、目線を落とす。

 ジルには、迎えてくれる家族があり、帰るべき故郷がある。だがアンには、戻りたいと思える場所がなかった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ