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私の心は金の波  作者: 日野真春
番外編2-昔話と後日談ー
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6





 サイラスはたった一言、迎えに行っておいで、だけでジルをどこかへやってしまった。

 代わりに、同じ場所に腰掛けたサイラスは、ジルと比べれば幾分小柄なのに、圧迫感に似た感覚を覚えて、オリヴィアは立ち上がってしまいたくなった。だが、ふっと息を洩らしたサイラスから、肩の力が抜けて微笑が浮かべば、先ほどと変わらない。


「……仲が良いな。時間は関係ないみたいだね」

「それは、ジルの方が良くしてくれたものですから」

「彼に聞けば、全く逆の事を言ったよ」


 つまり、オリヴィアの方が、という意味だろう。十歳にも満たない子供相手に、たとえ貴族で主人の立場にあったとしても言い過ぎだろうと、オリヴィアは首を振った。


 そう、とだけ相槌を打って、サイラスは麦の様子を尋ねた。オリヴィアが一番話しやすい話題だ。

 実をつけ始めた頃合いで、今年も今のところ大きな病気や気象に悩まされる事もない。だが本格的に害虫被害が出るのはこれからだ。気を引き締める時でもある。


「結局、作付面積は増やさなかったのだろう?」

「ええ。安定した収穫を見極める必要がありますし、あとは」


 不意に、先ほどの光景が蘇った。穏やかで他愛ない会話から、突きつけられた無防備な自分。隣に、オリヴィアの続きを待つサイラスがいる。手を伸ばせば届く距離で、決して触れない近さだ。


 ここに、自分がいる。


「オリヴィア?」


 黙り込んだ自分を、怪訝そうに伺うサイラスがいる。

 それは――許される事だったのか。


「私、は」


 本当にここにいていいのだろうか――

 とっさに、問いかけの先を飲み込んだ。サイラスにもう一度名前を呼ばれて、目線を逸らしたまま、かぶりを振る。


「いいえ、なにも」

「オリヴィア」


 駄目だよ、と囁かれて、顔を上げる。


「駄目、とは?」

「ちゃんと教えてくれないと、駄目だ」

「いえ、本当に何も」

「何もなくても、話して」


 思いがけず、強い口調で言い切られて、オリヴィアはとっさに二の句が継げなかった。ゆっくりと顔を上げた先にあった菫色の目が、ひどく真剣だ。


 こうして会うのは、二週間ぶりだった。サイラスもオリヴィアも多忙な日々は変わらない。去年の収穫前に、二人は未来の約束をしたけれど、日常で変わったことはあまりにも少なかった。

手紙を、書くようになった。夜会に招かれた時には、踊るようになった。時折、どこかへ出かけるようになった。


 どこかふわふわとしてつかみ所のないまま、けれど幸せで――そのまま、日々を過ごしてきてしまった気がしてならない。


 その上、こうして自分がかつて息をするようにできていたことが、出来なくなったと知った今、オリヴィアは、本当にサイラスの力になれるのだろうかと、疑問に思う。


 本当に、今更過ぎた。


 とっさに立ち上がろうとしたオリヴィアを、サイラスが阻む。反対に腕の中に閉じ込められて、目が丸くなった。


「サイラス、さま?」

「ねえ、オリヴィア。私たちは……同じ間違いを犯そうとしていないかい?」


 胸から直接声の振動を感じる。低すぎず、オリヴィアにとって、最も心地いい声に、憂いがあった。


「遠いとこで思うだけでいい、なんて……私はもう出来ないけれど……けれど、私たちは、お互いに遠くにいるのが当たり前で、気を抜くとつい以前と同じになってしまう」

「……」


 背中を追いかけ合った過去がある。オリヴィアは、兄だったサイラスの背中を見つめた記憶も、遠くから兄の視線を受けた記憶もあった。

 距離は、なくてはならなかった。近づけば、いつかきっと、どちらかが死んでしまうと信じていた。


「ずっとお互いの無力を噛み締めてきたけど、今は違うと、前にも言ったね?」

「はい」


 冷静な部分が、静かな返答を返せたことに、心のどこかが驚いている。

 けれど、言葉にはなりそうになかった。


 先ほど、ぐらりと揺れたのは、全てが変わってしまうだけの予感があったからだ。

 女性といたサイラスから、逃げてしまったこと。

 かつての警戒心を失ってしまったこと。

 なかなか進まない婚約の話。

 麦の研究でさえ――今はサイラスとの関係を変えるべきである証左に思えた。


 全てが、暗闇からの囁きに聞こえる。彼の隣に立つべき人は――他にいるのだと。


 オリヴィア、と呼ばれて、ハッとした。

 いつの間にか、雫が一筋つたって、頬を濡らしていたからだ。


 サイラスの指が伸びる。けれど、手袋の先がオリヴィアに届くよりも前に、ぐっと体を引かれた。


 目の前を覆ったのは、ドレスの生地だ。

 臙脂色の細身のシルエット、同色でそろえられた日傘。その陰に囲われて、見上げた先にいた女性に、オリヴィアは呆然とする。


「女性を泣かすなんて、紳士にあるまじき行いですよ、旦那様」

「アン・スティリー博士……」


 かつて薬草師として傍にいた女性は、変わらない知性の宿るまっすぐな瞳を、ひたとサイラスへ向けていた。







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