カイル・アンバーの傍観録
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カイル・アンバーの今の立ち位置は、新しい公爵の補佐、といったところだ。王宮に所属して官位があるわけでもなく、兄のように父の跡を継いでビゼ―侯爵家を牽引する必要もない。気楽は気楽だが、ありていに言ってしまえばただの使用人なので、昔からの知り合いや友人には身の振り方に首をひねられることもある。
士官学校を首席で卒業した経歴を知っていれば、なおさら。
けれど、もう少し細かい事情を知っている人間だと、反応は真逆になる。
むしろ、まずサイラスに同情する。
次に、カイルに騒ぎを起こすなとくぎを刺す。
親兄妹、そして士官学校の指導者たちはこちらにあたり、特に父親には散々サイラス様にご迷惑をかけるなと口を酸っぱくして言われた。
ここで、なんでそこまで、とか、知らねーよなどと言えば小言の時間が二倍になるので黙っているに限る。
士官学校の卒業が目前になり、カイルを側近にと、サイラスが父親に望んだ時から、顔を合わせればまず飛び出すセリフを聞き続けて学んだ教訓だ。
カイルにとって、サイラスは最初、たまに授業で見かける顔、という程度の認識だった。入学当初から飛び抜けた成績だったカイルは、上級生の授業に参加することがよくあり、そこにいたからだ。サイラスの方が、二学年上だった。
記憶に残るようになったのは、サイラスの反応が変わらなかったから。
入学直後は、すごい奴だと持ち上げられ、指導者たちも、授業を一緒に受けた上級生も、笑ってカイルを褒めた。
しばらくして、負ける回数が少なくなると、なんだか戸惑っているようだった。
追い抜かし、さらに技術や知識を身に付ければ、カイルのそばから遠ざかっていった。
カイルは人の目を気にするような性質でもなかったし、手を抜くことはそもそもできなかった。やり方がよく分からないのだ。
別に、一人でも構わなかったし、不便は特になかった。
ただ、そんな折にごく普通に顔見知りとしてあいさつをしてきた人間がいれば、顔と名前くらいは覚えようというものだ。そして、立ち話や暇なら昼食でも、とか、少しばかり手合わせを、なんてことにもなった。
サイラス・カイエントと知り合いになったのは、そんな経緯がある。
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一応短い付き合いではないので、サイラスの優秀さは知っている。
だがしかし。
「アホなんじゃねーの、あいつ」
ぼそりと呟いたのは、ただの本心だ。
仕事が忙しいのは知っている。ようやく立ち直ってきたとはいえ、公爵家の領地は長年の浪費と無策な経営のせいであちこちが壊れかかっていた。跳ね上がっていた税率を下げ、苦しむ領民の救済措置を取りながら、町や道路の整備をする。収入で賄えなければ、かき集められていた財産で補填した。
そんな公爵家のもう一つの財源が、品種改良された小麦だった。
研究そのものはすでに主体は国と学院へ移されていたが、収穫した麦と、土地を貸す対価は、かなりの金額だった。
目を伏せながら、サイラスは蓄財分として、時には必要な費用として使った。
その、向こうにいる少女が。
オリヴィア・ウィルコットが。
この時ばかりは若干恨めしかった。
今日一日で裁かなければいけない書類が、朝から全く減る様子がない。昨日までは何とか動いていたが、人間ではなく銅像でないかと思うほど、椅子に座ったサイラスはペンを持って頬杖をついたまま、微動だにしなかった。
うわごとのようにオリヴィア、と名前がこぼれれば、原因はおのずと知れるが。
恋煩いなんて、重症化するのは十代までにしておいて欲しい。
医者にも治せないのだから、自分にだって当然、お手上げだ。
難しく考えるのは苦手なので、とりあえず原因であるオリヴィア嬢をサイラスに投げた――文字通り、になったのはご愛敬だ――ところ、疲労と心労でろくに取れなかった睡眠が補えたらしく、目が覚めた後は通常通り働いていた。
自分ではよくやったと思っていたし、復帰した後――三日ほどサイラスは寝込んだ――にも本人には何も文句を言われなかったのだが……
「君は、馬鹿なのかな?」
「不出来な息子で、まったく申し訳ありません、陛下」
思いがけないタイミングで、拳骨をもらう羽目になった。それも、王宮の中央執務室で、扉を開けた瞬間に。
国王自身から。
避けようと思えばできたが、後が怖いので甘んじて受けておいた。
「……痛え」
「そう?」
軽やかな微笑を浮かべるのは、テゼル・カーティス。王位について、そろそろ十年の節目を迎え、賢王と名高い。
「君は頑丈だから、平気だろう?」
「痛覚がないわけじゃない」
「陛下に口答えをするなカイル」
「親父もいたのか」
「ここでは宰相閣下と呼ばんか。何度言わせる」
「変わんないね、カイル」
別に、小言を言われる相手としては、意外でも何でもない。
あははと笑う国王は、実のところ母親の従兄にあたり、カイルはバードよりも見た目はこちらの方に似ていた。黒目は共通だが、栗色の髪と、どことなく優しそうな印象を与えるあたりが、バードと正反対だ。ついでに言うなら、この国王も文よりも武に秀で、剣の腕は下手な近衛兵よりも優れている。
今は、目の覚めたサイラスから父親のバード宛の書類を託されている所だ。早いところ戻りたい。
「何がいけなかったか、理解しているだろう?」
一応、頷いておいた。
「……固いこと言うなよ、伯父さん」
「馬鹿者!」
叱声が飛んだ。ついでにもう一度、拳骨もおまけについた。今度は避けておく。
「ここでは陛下と呼ばんか!」
「構わないよ、アンバー宰相。それにしても似てない親子だね。片や根回し主義の完璧主義者、片や破天荒な護衛もどきなんて、全然つながり感じないけど。実はもらわれっ子かい?」
「赤ん坊の時から見に来てたクセになに言ってんですか、へーか」
「君の『陛下』には、まったく敬意がないなあ」
ふふ、とテゼルが笑った。バードは相変わらず眉間にしわを寄せていた。カイルが一番よく見る表情である。
気が済んだらしく――おそらく半分はからかっている――テゼルが重厚な執務机へと戻る。とにかく、と軽く肩をすくめた。
「カイルがオリヴィア嬢を城に連れてきたおかげで、噂が飛んじゃっているんだ。手を打たないとね、バード」
「二月半後の夜会がよろしいかと。早いに越したことはありません」
「準備に時間はかけられないけれど……」
「そこはサイラス様がどうにか手を打つでしょう。カイル」
「はいはい。言っとけばいいんだろ」
手を振っていなせば、諦めたようなため息がバードから漏れた。
「お前、反省しとらんな」
「いい加減、学院に押し込めておくのはもったいないって話になってたんだし……ちょうどいいんだろう?」
テゼルを真っ向から見据えて、目で問う。
あの日、カイルはちゃんと人気のない道を選んだのだ。そこまで配慮が出来ないほど、阿呆ではない。早々、派手な噂になんてなりえないはずだった。
けれど。
ちらり、とテゼルを見やったバードが……今度こそ苦虫をかみつぶした。
「陛下。まさか……」
「ああうん。いい頃合いだったし、ちょっとサイラスがじれったくて、つい」
「……」
「……鋭いところは、親子そっくりだなあ」
変なところが似ているね、と言われても、カイルは肩を竦めるしかない。父親宛の書類を渡して、じゃあ、と踵を返したところで。
「カイル」
「なんですか、へーか」
「面白いことになっているみたいだね?」
割と一事が万事、この調子な「賢王」は、時と場合により……とても。
――ウザい。
「……そんなに睨まないでよ」
「俺に言わせれば、面倒なだけなんで」
これ以上小言が増える前に、今度こそ部屋から出ていった。
***
そんなやり取りがあって、カイルは「オリヴィア」を一応気にしていた。紙の上や話の中でなら、ずっと前から知っていた少女。実際に会ったのは、研究所に無理やり乗り込んだ時が初めてで、二回目は案外早くにやってきた。
とある夜会の会場の、廊下に響いた、明確な拒絶の声で。
止める間もなく、隣にいたはずの公爵が、背中を向けて走り出していた。
会場に向かう途中の廊下。すぐに追わなかったのは、当然応援を呼ぶためだ。細かい説明を省くため、サイラスが危険だとでたらめを言ったら、追いついてみればその通りになっていて、舌打ちをする羽目になった。
てっきり一発貰うものだと思っていたら、なんと、あの小柄なオリヴィアが、機転を利かせて襲撃者を転ばせていた。
ほんの一瞬、呆気に取られて。
次には、むくむくと警戒心が頭をもたげた――この空恐ろしいほど聡明な人間の、謀ではないか、と。
脳裏のあったのは、当然、前公爵だ。
あの、よく似た色彩を持つ男も、無表情に似た微笑のもとに、幾度となく非道な行いを繰り返していた。
けれど。
別室に連れて行ったオリヴィアを、脅し同然に詰問して――疑いは、あっけなく晴れた。
『あの方なら』
毅然として、揺らがない灰色の双眸。きっと、あのならず者のような子爵たちを、同じように睨みつけたに違いなかった。
『先走ったとしても、後を追ってくる人が傍にいるでしょう』
響いた兄を信じる言葉が、ただの傍観者だったはずの自分の心にまで刺さった。
サイラスを信じ、その向こうにいた、カイルにまで全幅の信頼を寄せて。
駆け引きも計算も、知らないはずのないオリヴィアが見せた、透明なまっすぐさに思わず目を逸らしていた。
――これは、辛い。
そこにいないサイラスに、同情に似た感想を送っておく。
ここまですべてを投げ出して信頼されていると……あらゆる意味で、身動き出来ない。
誤魔化すためにとった行動は、つい身内相手と同じになり、そこで動揺しつつ、ちゃっかり懐に入れてしまったことを自覚した。
その後は現れたサイラスに丸投げした。下に付く人間は、こういう事ができるから楽だ。
一応後処理の確認をしてから、一足先にアンバー家に戻った。出迎えたのは、今最もサイラスの婚約者候補として有力視される妹、ベアトリクス=アンバーだった。
自分で言ったとおり、同じ高さに一族に多いまっすぐな黒髪がある。ついじっと観察していたら、母親譲りの翡翠色の目が、怪訝そうに見上げてきた。
「どうしたの、お兄様」
「お前、サイラスと結婚する気あるのか?」
「またその話? そりゃ、カイル兄さんみたいに雑な扱いしないし、ジャック兄さんみたいに小言が多くなくて優しいから、サイラス様は好きよ。三人目の、一番素敵なお兄様ね」
もちろん、結婚相手としても理想的よ、とほほ笑んだ妹の肩を、ぽん、と叩いていた。
「そうか。じゃ、諦めておけ」
「はいっ!?」
「お前じゃ無理なんだよ」
「失礼ね、社交界一の淑女よ、私は!」
言葉は否定しない。妹は優秀で、アンバー一族の名に恥じない立派な女性だ。兄弟の中で一番不出来なのはカイルだと言われるのだから。が……残念ながら相手が悪い。
「張り合うだけ無駄だぞ。なにしろ、相手は人間じゃなくて、妖精だからな」
「ええ?」
意味が分からない、と首を傾げられたが、面倒くさいので説明はしなかった。
翌日、またしてもへこみ切ったサイラスに、呆れ果てて早々に執務室から退散し。
逃げた先にいた国王と父親から、さらにこじれたと聞いたあと。
「いい加減とっとと攫っちまえ」と叫んだせいで、テゼルには盛大に笑われることになった。
ようやく朗報が聞けたのは、その年の小麦の収穫が、すべて終わってからになる。




