二
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オリヴィア=ウィルコット嬢、と呼ばれた。
学院長から呼び出され、指示された部屋に入った途端に、だ。もちろん、相手のことは見知っていた。その立場も、同じように。
「お久しぶりです、ビゼ―侯爵……いえ、バード=アンバー副宰相様」
あえて言いなおせば、相手がわずかに目を細めた。あまり表情を表に出さないと有名な人だが、少々驚かせたようだった。
御手を、と礼儀正しく挨拶を求められ、オリヴィアは応じた。成人の年齢とはいえ、またデビュタントもお披露目もしていない十五歳のオリヴィアに、淑女と同じ礼節を取るなんて、珍しい人だと冷静な思考の片隅で怪訝に思う。
「噂通り、物静かなお方ですな」
「お褒めの言葉として受けておきますわ」
「褒めておりますよ。私はいささか強面だと、周りの人間は言うのでね。たしかに、女性や子供は苦手にされる方が多いのです。ですが、あなたはとても落ち着ていらっしゃる」
黒いひげを顎から耳元まできっちり生やし――手入れがされているため、清潔感はある――肩幅も大きく、目じりは上がっていた。堂々とした印象は、漆黒の上着と相まって、確かに威圧感があった。
完璧主義で、頭脳明晰と名高い、ビゼ―侯爵。国王の側近の一人として、多忙な毎日を送っている。
オリヴィアは、ただ首を振った。
「副宰相様のことは、怖くありません」
「バードで結構ですよ、オリヴィア=ウィルコット公爵令嬢」
「バード様」
あえて呼ばれた名前を無視して、オリヴィアはただ言い直した。その様子に、ふう、とため息が落とされる。
「……」
「……」
長い、無言の時間。
学院の人間が気を利かせて出した、紅茶と焼き菓子。手を付けられる前に、とっくに冷めてしまった。
オリヴィアは、バードの切り出しをただ待った。
「あなたは……」
ようやく出てきた言葉が、途中で消えた。無礼と知りつつ、オリヴィアは口を開いた。
「父と母について、何かしらお知らせをお持ちいただいたというなら、おおよその見当はついております」
「……」
「父の配下でもなく、お兄様でもなく、またその部下でもない……あなたは国王陛下の命を受けて動くお方ですから」
オリヴィアの灰色の目には、どんな感情も映ってはいない。相対する壮年の侯爵は、内心で雑多な感情が渦巻いていた。
驚きと、疑い。自分が運んできた知らせは、この少女の未来を根こそぎ変えている。
当惑は隠せない。どうして、とも問いたくなる。口に出すのを躊躇っているのは、小さな体にはあまりにも過酷すぎないかと懸念しているからだ。
「オリヴィア…」
「ウィルコットの名は、無くなったのでしょう?」
「――っ」
「父は告発され、公爵家は取り潰し、解体となる……現公爵の不正を見事暴き切った、立役者は、その領地の大部分を引き継ぐ、事実上の次期公爵……」
「……」
「お兄様、でしょう」
「……」
「無言は肯定ですよ、バード様」
肩を上に持ち上げて、バードは息を吸った。そのまま、ゆっくりと吐き出すために。賢いとは聞いていた。学問を良く修め、非常な秀才だとも。
ここは、「学院」。国立の次世代を育成する機関のそこに、公爵家の財を注ぎ込んで作られた、施設の一室。
目的は、このカーティス国の主食である、小麦の品種改良だ。
五年前は公爵家の一部で行われていた研究は、その後二年で学院に委託され、莫大な研究費を受けて今日まで続けられてきた。
今後はおそらく、国家事業となるものだ。
その要が、目の前にいる、わずか十五歳の少女。
十歳から発起人として関わっており、当初からオリヴィア抜きでは研究は立ちいかなかったとさえ囁かれている。
こんこん、と扉が叩かれた。
どうぞ、とオリヴィアが促せば、白衣を着た男が、どうしますか、と遠慮がちに尋ねる。それだけで、オリヴィアには十分伝わった。
「バード様。折角ですから、これから始まる収穫の様子を、見に行かれませんか。少し馬に乗りますが、昼過ぎのこの時間でしたら、日が暮れる前には戻れます」
「オリヴィア嬢、ですが」
あまりにも重大な話を中座すると告げられ、バードは目を見張るしかない。けれどゆるゆると首を振って、オリヴィアは話を続ける意思がないことを示す。
「あなたはまだ何もお話になっていない……だからこそ、お誘いしているのです」
きっと最後になるでしょうから、と添えられて。
言葉をなくしてばかりのバードは、今度こそ瞑目した。疑いはもうない。オリヴィアは――きっと本当に「分かって」いる。
行きましょう、と立ち上がった。
先導するのは先ほどの男で、まっすぐ続く廊下には、人影がなかった。
静かに歩く後ろ姿に、動揺は見当たらない。
「あなたが次期当主でないのは……非常に残念なことです」
心から、ため息とともにバードがこぼせば、つと一瞬だけオリヴィアはバードの方へ視線を投げた。
「女性に、継承権はない……私が男であればよかったと、おっしゃるのですね」
「であれば、このような事態にはなりますまい」
「どうでしょうか。父を止められたか、という意味でおっしゃっているのでしたら、その答えはいいえとなりますけれど」
図りかねて、それは、と問い返す。
オリヴィアは、先ほどのように振り返ったりしなかった。
「私が男子だったなら――父は私を生かしておかなかったでしょう」
「……」
国王側近の立場にかけて、バードはなんとか無表情を押し通した。