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私の心は金の波  作者: 日野真春
本編
19/34

十九







 粒が大きい、と穂を手に取ってオリヴィアは驚いた。

 研究所で見るときよりも、ずっと大きく見える。


 小麦の間に作られた細道にしゃがみ込んでいると、とても安心できた。ここにいていい、と誰にでもなく認めてもらえている気がした。

 ずっと居られるなら……このまま。そんな事さえ頭をかすめる。


 穂が風で揺れる。懐かしいような、悲しいような……嬉しいような。そんな音に囲まれる。

 だから、遠くの人の声にも、同じような気持ちになった。

 誰かを呼んでいて……名前が、近くなるにつれてはっきり聞こえた。


「ア……ヴィア!」


 あら、と気づいた。知っている声なのは、気のせいだろうか。立たなければならないのは……。


「オリヴィア!」

「私?」


 信じられない気持ちで、オリヴィアは目を見張った。だってもう、「お別れ」したというのに。

 なぜ、もう一度会えるのだろうか。

 夢かしら、と立ち上がった時、同じように丸くなった紫紺色と目が合った。


「オリヴィア!」


 サイラス様、いえ、閣下と呼ばなくてはと考えるうちに、オリヴィアの目の前は真っ暗になっていた。背中には力強い腕が回っていて……体中が温かい。

 オリヴィアは目をつむった。これはやっぱり、夢に違いない。


「……君がいなくなったと思った」

「なぜです?」

「どこも小麦しか見えなくて。全部君の髪色に似ている気がして……溶けて風に消えてしまったかと思った」


 そんなことはあり得ない。小麦は小麦、オリヴィアはオリヴィアだ。至極まじめにそう考えたけれど、口には出せなかった。


「あの……閣下? どうしてこちらに?」

「私も仕事で、毎年視察に来ているんだけれど。オリヴィア」


 サイラスが少し体を離した。変わりないはずだけれど、泣きそうだと思うのはなぜだろうか。


「はい」

「閣下は、やめてくれ」

「あ、はい。ではあの」

「サイラス、と」

「サイラス様」

「様、もいらない」

「……」


 ひどく抵抗があった。なぜだかわからないけれど、とっさに返せなかった。じっと高いところにあるサイラスの顔を見上げる。


「……呼んで?」


 あの冗談を言った時と同じ顔だ。それよりも少し意地悪く見える。黙っていれば、促すように、ん? と少し首が傾いた。


「さ、サイラス……様? あの」


 目の前が暗くなる。頭の後ろには、指の感触がした。額につく上着の柔らかさに、これはサイラスの胸だと気づいて、急に居たたまれなくなった


「オリヴィア」

「は、」

「私と、家族になってくれ」

「……」


 記憶が、思考を混乱させた。そっと、サイラスを伺う。


「あの……ですが」

「オリヴィア?」

「そのお話は……先日、お断りを」


 瞬きが返ってきた。首をかしげるオリヴィアに、サイラスがくしゃりと困った笑顔になった。見たことない表情に、目が離せなくなる。


「そうだった……君にはこの言葉じゃだめだね」


 手が髪を梳く。優しくて、温かい。こんな触れ方は、されたことがない。壊れ物のように優しく頬に寄った手に、思わずすり寄った。


「……オリヴィア。そんなことをしたらダメだ」

「申し訳ありません」


 とんでもないことをした、と気づいて顔を戻そうとすると、今度は両頬が包まれてしまう。


「違うよ……私の方が、耐えられなくなってしまうんだ」


 額にキスが落とされる。思わず目をつぶってしまっていた。次は頬に。右と左に一度ずつ。

これはなんのキスだろう、とオリヴィアは疑問を持った。ふわふわしていて、今日はどうにもちゃんと考えがまとまらない。

 ――さよならにしては唐突だし、出会った挨拶は手の甲だ。

 あとは……と唇に人差し指を当てたところで、今度はその手を取られた。


「考えなくていいよ、オリヴィア。今はこっちを向いて?」

「はい」


 なんでお見通しなんだろう、とサイラスを見上げる。本当に、わかりやすすぎるところが多いらしい。

 打って変わって、サイラスはひどく真剣だった。


「オリヴィア」

「はい」

「君とは、兄妹になれない」

「ええ」


 その通りだとうなずく。

 過去は過去だ。戻れないからこそ愛おしく、どうしようもなく懐かしい。


「なぜなら……私は、君が好きなんだ」

「――」


 今度はオリヴィアが瞬いた。握りこまれた右手が、いつの間にかサイラスの口元にあった。


「君を独り占めしたいし、ずっとそばにいたい。研究所になんて行ってほしくない」

「……」

「夜会のダンスの相手は憎らしかったし、君が誰かに笑いかけるたびに苦しかった」

「……」

「君を傷つけた子爵たちは、本当にどうしてくれようかと思ったよ。過ぎた処罰も、どんなむごい暴力も、すべてを与えてやりたかった」


 内容の粗っぽさと、浮かべる微苦笑が信じられないほど合っていない。けれど、オリヴィアにはサイラスが嘘をついているようには見えなかった。


「……自由でいてほしいって、願ったはずなのに……君をどこまで尊重できるか、不安になる」


 でも――会いたいんだ、とサイラスは囁いた。


「君を苦しめても……私は君に会いたい」


 背中に回る腕が、一層オリヴィアを強く抱きしめる。いつかの夜会と同じように。

 オリヴィアは、息をするのも忘れそうだった。


 胸が痛い。心が、叫んでいる。

 だって。

 それは……それは。


「私も、同じです……」


 サイラスから、目が離せない。紫紺色の瞳に、オリヴィアが映っている。


「……そう、か」


 サイラスが笑った。

 とんだ遠回りだった。カイルの言うとおり、さっさと攫ってしまえばよかったのだ。シシリーの怒りを買うことも、バードに嫌味を言われることもなかった。

 慎重すぎる。そう、駄目だしされた。

 まさしく、その通り。

 今なら……今更ながら。


 絵空事だと沈めてきた望みを、口にする。


「オリヴィア、結婚しよう」

「え?」

「私の一番近くに、来て」

「……」


 オリヴィアは黙った。

 けっこん……と、さっきからちっとも動かない思考が、今度こそ止まってしまった。自分の中で、一番優秀なはずなのに。

 素通りしていく言葉の端をもう一度捕まえて、必死にかみ砕いた。


 けっこん……結婚?


 たどり着いて、どうにか、過去の記憶を引っ張り出す。


「ですがその……お相手の方が、いらっしゃったのでは?」

「そうだね。婚約者候補は、沢山いたかな」


 筆頭は、バード=アンバーの娘。カイルや現侯爵の妹。そこに、オリヴィアはいない。


「でしたらその……」

「でも君がいい」

「しかし」

「君しかいないんだ」


 すっとサイラスが膝をつく。高かったサイラスが、今度はオリヴィアをまっすぐに見上げていた。とられたままだった右手には、まだ、サイラスの唇がある。


「君の周りには、小さい頃からあまりにも多くのしがらみがありすぎたけれど……今はもうないだろう?」

 右の指先に息がかかる。紫紺の瞳が、上目遣いにオリヴィアを捕えていた。


 知らずに、息をのんでしまうほど。


「そ、それは……」


 確かに、軽くはなった。しかし、すべて消えたわけでもない。残骸は、いつもオリヴィアの周りを漂っていると、社交場に出てから痛感していた。

 迷いはやっぱりサイラスに見透かされて、苦笑が浮かべられる。


「オリヴィア、生きている以上、何にも縛られない人なんていないよ。だけど、それをうまく利用することも、時には消し去ってしまうことも、今の私には出来るよ」

「……」

「それに、強くなった賢い君にも、ね」


 強くなった、だろうか。

 成長はした。もう、小さい子供ではない。一人では非力すぎるのだと、目をつぶるしかなかったあの頃とは……確かに、違う。


「教えて、オリヴィア。君は、どうしたいのか」

「わ、私は……」


 知らないままなら、よかった。遠くから見守ることしか、出来ないままなら。

 けれど。

 例えば、無理をさせないこと。仕事ばかりのサイラスを、無理やり寝かしつけること。誰かから殴られるサイラスを、とっさに庇うこと。

 他愛ない言葉を交わすこと。

 お互いの温度を感じるほど、近くに立つこと。


「私は……」


 遠く離れていては、決して叶わない事があった。

 一歩踏み出して、膝をつけば、同じ高さになる。腕は、知らない間に伸びていた。

 こうして、抱きしめることも。

 出来はしないと、もう知ってしまった。


「どうぞ、そばに……」

「オリヴィア」


 痛いほど抱きしめられても、胸は温かかった。

 ああ、とオリヴィアはようやく悟った。

 これが……「幸せ」なのか、と。

 

 金の波が揺れる中で、オリヴィアの涙が一筋だけこぼれた。








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