十九
☆
粒が大きい、と穂を手に取ってオリヴィアは驚いた。
研究所で見るときよりも、ずっと大きく見える。
小麦の間に作られた細道にしゃがみ込んでいると、とても安心できた。ここにいていい、と誰にでもなく認めてもらえている気がした。
ずっと居られるなら……このまま。そんな事さえ頭をかすめる。
穂が風で揺れる。懐かしいような、悲しいような……嬉しいような。そんな音に囲まれる。
だから、遠くの人の声にも、同じような気持ちになった。
誰かを呼んでいて……名前が、近くなるにつれてはっきり聞こえた。
「ア……ヴィア!」
あら、と気づいた。知っている声なのは、気のせいだろうか。立たなければならないのは……。
「オリヴィア!」
「私?」
信じられない気持ちで、オリヴィアは目を見張った。だってもう、「お別れ」したというのに。
なぜ、もう一度会えるのだろうか。
夢かしら、と立ち上がった時、同じように丸くなった紫紺色と目が合った。
「オリヴィア!」
サイラス様、いえ、閣下と呼ばなくてはと考えるうちに、オリヴィアの目の前は真っ暗になっていた。背中には力強い腕が回っていて……体中が温かい。
オリヴィアは目をつむった。これはやっぱり、夢に違いない。
「……君がいなくなったと思った」
「なぜです?」
「どこも小麦しか見えなくて。全部君の髪色に似ている気がして……溶けて風に消えてしまったかと思った」
そんなことはあり得ない。小麦は小麦、オリヴィアはオリヴィアだ。至極まじめにそう考えたけれど、口には出せなかった。
「あの……閣下? どうしてこちらに?」
「私も仕事で、毎年視察に来ているんだけれど。オリヴィア」
サイラスが少し体を離した。変わりないはずだけれど、泣きそうだと思うのはなぜだろうか。
「はい」
「閣下は、やめてくれ」
「あ、はい。ではあの」
「サイラス、と」
「サイラス様」
「様、もいらない」
「……」
ひどく抵抗があった。なぜだかわからないけれど、とっさに返せなかった。じっと高いところにあるサイラスの顔を見上げる。
「……呼んで?」
あの冗談を言った時と同じ顔だ。それよりも少し意地悪く見える。黙っていれば、促すように、ん? と少し首が傾いた。
「さ、サイラス……様? あの」
目の前が暗くなる。頭の後ろには、指の感触がした。額につく上着の柔らかさに、これはサイラスの胸だと気づいて、急に居たたまれなくなった
「オリヴィア」
「は、」
「私と、家族になってくれ」
「……」
記憶が、思考を混乱させた。そっと、サイラスを伺う。
「あの……ですが」
「オリヴィア?」
「そのお話は……先日、お断りを」
瞬きが返ってきた。首をかしげるオリヴィアに、サイラスがくしゃりと困った笑顔になった。見たことない表情に、目が離せなくなる。
「そうだった……君にはこの言葉じゃだめだね」
手が髪を梳く。優しくて、温かい。こんな触れ方は、されたことがない。壊れ物のように優しく頬に寄った手に、思わずすり寄った。
「……オリヴィア。そんなことをしたらダメだ」
「申し訳ありません」
とんでもないことをした、と気づいて顔を戻そうとすると、今度は両頬が包まれてしまう。
「違うよ……私の方が、耐えられなくなってしまうんだ」
額にキスが落とされる。思わず目をつぶってしまっていた。次は頬に。右と左に一度ずつ。
これはなんのキスだろう、とオリヴィアは疑問を持った。ふわふわしていて、今日はどうにもちゃんと考えがまとまらない。
――さよならにしては唐突だし、出会った挨拶は手の甲だ。
あとは……と唇に人差し指を当てたところで、今度はその手を取られた。
「考えなくていいよ、オリヴィア。今はこっちを向いて?」
「はい」
なんでお見通しなんだろう、とサイラスを見上げる。本当に、わかりやすすぎるところが多いらしい。
打って変わって、サイラスはひどく真剣だった。
「オリヴィア」
「はい」
「君とは、兄妹になれない」
「ええ」
その通りだとうなずく。
過去は過去だ。戻れないからこそ愛おしく、どうしようもなく懐かしい。
「なぜなら……私は、君が好きなんだ」
「――」
今度はオリヴィアが瞬いた。握りこまれた右手が、いつの間にかサイラスの口元にあった。
「君を独り占めしたいし、ずっとそばにいたい。研究所になんて行ってほしくない」
「……」
「夜会のダンスの相手は憎らしかったし、君が誰かに笑いかけるたびに苦しかった」
「……」
「君を傷つけた子爵たちは、本当にどうしてくれようかと思ったよ。過ぎた処罰も、どんなむごい暴力も、すべてを与えてやりたかった」
内容の粗っぽさと、浮かべる微苦笑が信じられないほど合っていない。けれど、オリヴィアにはサイラスが嘘をついているようには見えなかった。
「……自由でいてほしいって、願ったはずなのに……君をどこまで尊重できるか、不安になる」
でも――会いたいんだ、とサイラスは囁いた。
「君を苦しめても……私は君に会いたい」
背中に回る腕が、一層オリヴィアを強く抱きしめる。いつかの夜会と同じように。
オリヴィアは、息をするのも忘れそうだった。
胸が痛い。心が、叫んでいる。
だって。
それは……それは。
「私も、同じです……」
サイラスから、目が離せない。紫紺色の瞳に、オリヴィアが映っている。
「……そう、か」
サイラスが笑った。
とんだ遠回りだった。カイルの言うとおり、さっさと攫ってしまえばよかったのだ。シシリーの怒りを買うことも、バードに嫌味を言われることもなかった。
慎重すぎる。そう、駄目だしされた。
まさしく、その通り。
今なら……今更ながら。
絵空事だと沈めてきた望みを、口にする。
「オリヴィア、結婚しよう」
「え?」
「私の一番近くに、来て」
「……」
オリヴィアは黙った。
けっこん……と、さっきからちっとも動かない思考が、今度こそ止まってしまった。自分の中で、一番優秀なはずなのに。
素通りしていく言葉の端をもう一度捕まえて、必死にかみ砕いた。
けっこん……結婚?
たどり着いて、どうにか、過去の記憶を引っ張り出す。
「ですがその……お相手の方が、いらっしゃったのでは?」
「そうだね。婚約者候補は、沢山いたかな」
筆頭は、バード=アンバーの娘。カイルや現侯爵の妹。そこに、オリヴィアはいない。
「でしたらその……」
「でも君がいい」
「しかし」
「君しかいないんだ」
すっとサイラスが膝をつく。高かったサイラスが、今度はオリヴィアをまっすぐに見上げていた。とられたままだった右手には、まだ、サイラスの唇がある。
「君の周りには、小さい頃からあまりにも多くのしがらみがありすぎたけれど……今はもうないだろう?」
右の指先に息がかかる。紫紺の瞳が、上目遣いにオリヴィアを捕えていた。
知らずに、息をのんでしまうほど。
「そ、それは……」
確かに、軽くはなった。しかし、すべて消えたわけでもない。残骸は、いつもオリヴィアの周りを漂っていると、社交場に出てから痛感していた。
迷いはやっぱりサイラスに見透かされて、苦笑が浮かべられる。
「オリヴィア、生きている以上、何にも縛られない人なんていないよ。だけど、それをうまく利用することも、時には消し去ってしまうことも、今の私には出来るよ」
「……」
「それに、強くなった賢い君にも、ね」
強くなった、だろうか。
成長はした。もう、小さい子供ではない。一人では非力すぎるのだと、目をつぶるしかなかったあの頃とは……確かに、違う。
「教えて、オリヴィア。君は、どうしたいのか」
「わ、私は……」
知らないままなら、よかった。遠くから見守ることしか、出来ないままなら。
けれど。
例えば、無理をさせないこと。仕事ばかりのサイラスを、無理やり寝かしつけること。誰かから殴られるサイラスを、とっさに庇うこと。
他愛ない言葉を交わすこと。
お互いの温度を感じるほど、近くに立つこと。
「私は……」
遠く離れていては、決して叶わない事があった。
一歩踏み出して、膝をつけば、同じ高さになる。腕は、知らない間に伸びていた。
こうして、抱きしめることも。
出来はしないと、もう知ってしまった。
「どうぞ、そばに……」
「オリヴィア」
痛いほど抱きしめられても、胸は温かかった。
ああ、とオリヴィアはようやく悟った。
これが……「幸せ」なのか、と。
金の波が揺れる中で、オリヴィアの涙が一筋だけこぼれた。




