十八
ふと、顔を上げると、麦畑に囲まれた細道の向こうから、人影が近づいてきた。女性だと気づいてハッとするが、髪の色は濃い茶色だ。
「ごきげんよう、サイラス・カイエント様」
「ミス・ガーランス」
白衣を着た女性は、社交場で会う時とは印象が異なっていた。にこやかな微笑みはなく、分かりやすく、そして静かに……怒りがにじんでいた。
経験上、よく知っていた。
彼女は今、ひどく怒っている、と。
「馬鹿な人ですね」
はっきりと告げられた言葉が、あまりにも率直すぎて返事をしそびれた。構わず、シシリーは続ける。
「オリヴィアもそう。あんなに頭がいいのに、どうしてって思うけど、あの子は仕方ないわ
まっすぐな愛情は、もらえなかったんですもの」
だから、とシシリーはサイラスを睨みつけた。
「もっとバカなのはあなたよ、公爵様」
一言のすべてを、叩きつけるようにシシリーは張りのある声で断言した。
「愛し方を知らない子供から、精いっぱいの愛情を受け取っておいて、まだこんなところにいるなんて」
「……それは」
知っていた。思われていたことを
何気なく見降ろした庭には、いつからか花が絶えなくなった。眠る間際に、優しい香りに包まれるのは、毎日寝台にあるポプリのお陰だった。父の叱責があまりに強いときに、不意に叩かれる扉の先には、いつもオリヴィアがいた。
「知ってる、とか言ったら、笑ってやるわ。何もしなかった公爵様?」
鋭い指摘に、反論が出来ない。
あまりにも、当たりすぎていて。
オリヴィアの気遣いを肌で感じながら、距離は縮められなかった。
ウィルコット家の中で、あの両親に囲まれて、サイラス自身も追い詰められていた。その上、あの子はもっと強い力に囲われていた。時折オリヴィアを傷つけるほど強い、檻の中で戦っていた。
手を伸ばしたかった。細い体で、一人で歩く姿を何度も見かけていたから。
けれど。
差し出す掌が、自分が、この家にもたらすものを、サイラスは誰よりも知っていた。
公爵を追い落とせば、同じ運命をあの子に課すことになる。慕われていながら、孤独な少女から、さらにすべてを取り上げる裏切りだ。
サイラスが嘆願すれば、助命は可能でも。
広大な屋敷を、気の向くままに歩き回り、自由に学び、成長していく生活からは、一番遠い人生となる。
小麦の研究が始まり、どんどん大きくなっていったのは、そんな葛藤にいる最中だった。
わずか二年で国中から注目が集まり、学院への委託でさらに進む中で、人々とは全く違う期待を、サイラスは抱いた。
オリヴィアが、ただの公爵家の令嬢から、研究者になれば。
これからの未来に、重要で欠かせない存在になれば。
あの子は自分の力だけで、公爵家のしがらみを断ち切っていくのではないか、と。
学院へ研究の委託を提案したのはサイラスだ。まったく会えなくなっても、わずかな希望に掛けたい気持ちが勝った。
あと、二年。いや、一年でよかった。
家督を継ぐことが決まった。その披露目も終わった。公爵はもちろん、爵位を譲った後も後ろから権力を振りかざす気だっただろうが、それは織り込まれていた。
予想外だったのは、襲名式が終わった後の、食堂での会話。
サイラスは遅れていったために、聞くことができた養父母の話。
『あの子は……もういらないね?』
『そうね。だってこのままじゃ、小麦があの子の物になっちゃうわ』
呆気ない。まるで糸くずでも捨てるかのようだった。
偉大な研究の成果が。生み出される豊穣の実りが。
オリヴィアを――潰す。
それだけは。
それだけは。
だから――誰のためでもない。あの子のために。
王家の目論見は、バードの企みは、サイラスの計画は……やや尚早とも指摘されつつも、速やかに実行された。
たとえ二度と会えなくても、生きていてくれるなら、それでよかった。
黙ったまま、答えないサイラスに、シシリーは怒りで顔を赤くさせた。
美しい公爵。誰もが憧れる男が、今はただ許せない。
四年は、短くない。その間に、オリヴィアは笑えるようになった。それを壊したサイラスは、いったい何のつもりなのか。
「今更、オリヴィアに近づいてきたくせに……動かないことが、あの子のためだとでもいうつもり?」
「違う」
「どこがよ」
「違う! 私はっ……」
ずっと。
「……あの子を守りたかった」
「そう? それだけ? だったらどうしてあの子は傷ついているのっ」
ふざけないでよ、と心の中で叫ぶ。声にならない悲鳴のような叫びが、一筋だけ涙になった。
サイラスは棒立ちになっていた。
守りたかった。
四年の間、忘れた日なんてなかった。研究の報告、一年の小麦の成長、日々の政務の中で、どこにでもオリヴィアはいた。
国王が恩赦を出すと聞いて、慌てて会いに行った。
もう一度、と願ったのは事実だ。できもしない謝罪の言葉さえ、考えた日もある。
再会した、あの日に。
のどかな日の光が差し込んでいた部屋で……ただ、見惚れた。
長い髪は、子供と同じように背中に流れていて、日差しを吸い込むように輝いていた。
知性を宿した静かな瞳は、まっすぐにサイラスだけを映していた。
月日は……少女を大人へと変えていた。
綺麗になっていて――幻と重なった。襲名式に自室に現れた、夢。夢だと、ずっと思っていた、あの姿と。
止めようもないままに、気持ちが変わっていた。本当にあっという間だった。
兄と呼ばれて嬉しかったのは一瞬で。
兄と呼ばれることが苦しくなって。
けれど、つながりを失ってしまえばただの他人になってしまう。気持ちを押さえて、必死で優しい「兄」として振舞った。
名前を呼ばれるのは、喜びだった。
家族だと突き付けられれば、痛みが走った。
どこにも行けない矛盾の中で、オリヴィアが当惑しながら、傷ついているのを知っていた。
言葉はない。動けない。唾をのんでから、ようやく声を出した。
「あの子は悪くない。私が……家族には戻れないと」
「馬鹿じゃないの、本当に!」
耐えきれずに、シシリーが叫ぶ。
「どうしてわからないの。何を見ているのよ!?」
腕を広げる。どんなに伸ばしても、覆いきれない、どこまでも広がる小麦の畑。
「ここに、あの子の心が、全部があるじゃないっ」
言葉は、自分の中にしまうしかなかった、小さい少女が、すべてをかけて、作り上げた小麦の波。
「あの子はね、一度だけ漏らしたことがあるわ。両親は、自分より小麦を取るって……」
オリヴィアは十四だった。仲良くなって、気軽なおしゃべりをし始めたころ。きっと、誰にも漏らすつもりのなかった予想が、気の緩みからシシリーにこぼれた。
意味が分からなかった、その時は。ただ、ずいぶんと静かな声が、耳に残っていて。
真意を知ったのは、公爵家の解体と、その悪事が明るみになってからだった。
「この麦畑が大きくなればなるほど、自分の命が危うくなるって……知ってた」
サイラスが息をのむ。
オリヴィアは見抜いていた。あの両親のそばで生き抜いた賢い少女なら、当然だった。なお、やると決めたのは。
断片的な過去が浮かぶ。収穫の話を、彼女の近くでしなかったか。あの子のそばで、養父について漏らさなかったか。
あの研究が始まったのは、国中の不作の後ではなかったか。
「……あなたしかいないのよ」
オリヴィアは泣かない。今まで一度も、シシリーは涙なんて見たことがなかった。
なのに、目を腫らしていた。
サイラスと別れた、その後に。
「あの子は親の愛なんて知らない。兄弟愛なんてもっとわからない……ただ一心に、あなたを愛したんじゃない!」
風に揺れる小麦が、さわりさわりと音を奏でる。シシリーの心も、声も吸い込んで。
全部を受け止める。
オリヴィアの心と、とてもよく似た小麦の波。
目いっぱいに広がる金色と同じだけ、思われて。
「……」
サイラスは顔を覆った。笑っていいのか、泣いていいのか、分からない。ただ、はっと胸を震わせて息を吐く。
ああ。本当に。
この光景は、あの子の心にふさわしかった。
返せそうにない。広くて、大きい。どんな権力も、莫大な富も、敵わない。
それでも。
「シシリー嬢」
あの子を思う気持ちは。
「あなたにも……とても申し訳ないことをした」
「謝罪なんて求めてないわ」
「……では、感謝を。オリヴィアを大切にしてくださって、ありがとう」
「私も、あの子が好きなのよ。折角可愛い妹が出来たのに」
涙をこらえながら、シシリーはサイラスを睨む。甘んじて、サイラスは受け止めた。
もう、誰にも負けない。負けたくなかった。
この麦畑に及ばなくても、応えなければ。
「オリヴィアがどこにいるか、教えてもらっても?」
シシリーただ、道を開けた。




