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私の心は金の波  作者: 日野真春
本編
17/34

十七







 さわやかな風が吹く。

 四年ぶりに訪れたかつての村は、一面どこまでも小麦が広がっていた。

 収穫前の、最後の視察。小麦の状況がじかに把握できる絶好の機会だけれど、今まで来ることを控えていた。ずっと、伝え聞きと報告される収穫量だけが、オリヴィアが知る研究の成果だった。

 小麦の実が見られるのは、学院内の畑に栽培されたものだけ。


 ――今、目の前に広がるのは、豊かな金の波。風が吹くたびに、さわさわと音を添える。

 ひどく胸がざわついて仕方がなかった。


「どう? いいことがあるって言ったでしょ?」


 いきなり馬車に乗せられたのは、今日の夜明け前だった。起こされて事情を把握する前に到着した。

 本当なら、オリヴィアはこの観察の人員に入っていなかったのだ。


「そうね。ありがとう、シシリー」


 胸を打つ、光景。見たことなんてないはずなのに、知っている気がしてならない。ウィルコットの家で過ごしていた時も、オリヴィアは畑なんて見に行ったことがないのに。

 懐かしい、なんて。


「オリヴィア、大丈夫?」

「……なんでもないわ、シシリー」

「でも」

「説明できないのよ。とても……目が、離せないの」


 ふう、と横でシシリーが息を吐いた。


「そ? じゃあ好きなだけ見てなさいな。今日一日観察して、明日は収穫と確認。予備にもう二日。時間はたっぷりあるもの」

「……そうするわ」


 ぽんぽん、と頭を叩かれる。驚いて振り返ると、いたずらが成功したシシリーがいた。

 元気がなかった、かわいい義妹。普段通り、仕事はこなしていたけれど、あまり変わらない表情がずっと優れなかったことぐらい、シシリーにはお見通しだ。

 ――その原因だって。


「ありがとう、姉さんって、今度は言ってよ?」

「……頑張るわ」


 本当の姉のようなことをして、何が悪い。照れてはにかむオリヴィアは、最近は表情が柔らかくなったはずだったのに、二年ぐらい前に逆戻りしたかのように、ずっと暗い顔をしていた。


「あ、あとね」

「なに?」

「きっともう一回、いいことがあるわよ」


 えっ? と驚くオリヴィアに、問い返されより早く、シシリーは小道をかけだした。









 まっすぐに太陽へ向かって、実りの粒を立たせる小麦。風に揺れるその様は、誰もが望む豊穣の恵みだ。


「見事だな」

「ええ。今年も」


 サイラスの言葉に、バードが答えた。

 ここだけは、毎年。不作の年も、豊作の年も。農夫たちが、より手と心をかける分だけ、答えるように伸びていく。その後ろにいる少女が、小さい頃の姿で瞼の裏を駆け回った。

 はしゃいだ姿なんて、見たことがないのに。

 

 広い公爵領のうち、研究に領地を貸す土地だけは、必ず収穫の時期に視察に訪れていた。

 毎年、毎年。

 金色の穂波が広がっていくのが、とても誇らしく、同時に哀しかった。

 風に揺れる麦畑に見とれていると、バードが低く呟いた。


「もう、よろしいのではないですか」

「なに?」

「あなたも、あのお方も……もう自由なってよいのです」

「バード、一体……」

「ウィルコットの影は、どこにもない、と申し上げております」

「……」


 サイラスが、この時ばかりは優しい目をした老宰相に戸惑う。


「あなたはいつでも非常に慎重な性質でした。慎重すぎて、時に陛下が痺れを切らすほどです。オリヴィア嬢の名誉回復は、二年も前からせっつかれていたというのに、公爵家に関わりのあったと噂にされる闇組織の壊滅までお待ちになるほど」

「……」

「ま、とんだ杞憂で、どんな関係もなかったと証明されましたがね」

「……」

「それとも、あの方が世間に出ていくのを止めたかったのでしょうか?」


 ずばずばと容赦なく抉ってくる宰相に、サイラスは胸を押さえたくなった。とても痛いのだ、主に心が。優しくなったと思った視線は幻だったらしい。


「ですが、ご存知の通り、すでにカーティスにウィルコットの息のかかった者はおりません。こんなことはただのお節介でしょうが……あの方の手を、お取りになられては?」


 誰の話だなどと訊くのは……無駄だな、とサイラスは悟った。

 深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。分かっている。この海千山千の宰相に、敵うはずがないのだから。サイラスの本心なんて、見通されていて当然だった。


「バード……オリヴィアは。あの子は、『私』の素性を知っていたよ」

「左様でございますか」

「驚かないのか?」


 ええ、とバードが笑った。


「あなたの警戒心は、ことオリヴィア様に対してだと、ご婦人のレースよりも薄かったので」

「……気づいていたなら教えてくれ」

「ご忠告しましたとも。その度にお小さい妹君を庇われたのですよ」


 反論の余地がない。記憶力はサイラスよりずっと優れているバードが言うなら、間違いなかった。


「……あまりにもまっすぐに核心を突かれて……少し怖くなった」


 ちらり、とバードが右目と眉を跳ね上げる。


「それでも……私は兄と呼ばれるんだ」


 オリヴィアにとってのサイラスが、今でも家族だということだ。

 おやおや、とバードが肩をすくめる。


「二段構えで後ずさりですか? あまり情けないことおっしゃると、見捨てますぞ」


 ばっさり断ち切られて、サイラスは呆気にとられた。

 見捨てる、なんて。過去今まで決して出てきたことのない言葉だ。今度こそ、完全に言葉がなくなった。

 まったく嘆かわしい、とバードが首を振る。


「息子の言葉を借りるなら――いい加減とっとと攫っちまえ、だそうですが」

「カイル……」

「私もまったくもって賛成です」

「……」


 頭痛がする。いや。ここまで断言されなくとも、もちろん二の足を踏む自分が悪いのだと、サイラスにだって分かっていた。

 それでも踏ん切りがつかないのは……自分の周りにも、オリヴィアと同じような枷があるからだ。


 サイラスは、先王の庶子だった。それも、退位直前に生まれた、妃ですらない女性との子供。

 当時の情勢が不安定だったことを鑑みれば、早々に「なかったこと」にされてもおかしくなかった。

 救いの手を差し伸べたのが、カイエント子爵だ。彼は、生まれたばかりの子供をなくしていた。死亡届を出すはずだった子供として、サイラスは育てられた。


 ただ、王家の血筋を遠くへやることは出来ない。

 ある程度分別が付けば、バードが教育係としてサイラスのそばに現れた。直系の継嗣としては例外的に、首都にある士官学校に通わされたのも、そんな生まれが関係していた。


 そして……遠い首都にいたからこそ、領地で流行った病の魔手から、逃れてしまったのだ。

 子爵家という守りの壁を失ったのは、成人直前。

 身一つで放り出すことも出来ない、王家の子供。自分の身は、いつでも己の手の内にあるとは言えなかった。

 それでも、なんとか人並みに成長できたのは、まるで我が子同然に育ててくれた、カイエントの父母がいたからだ。

 血は水よりも濃いなどと、言わせない。

 けれど紡いだはずの絆は、流行り病ですべて断ち切られた。


 国王は――年の離れた異母兄は、サイラスにいくつか道を示した。

 遠く離れた小さな所領の主となり、一生をそこで終えるか。

 はたまた、忠実な家臣として、王宮に仕える者となるか。

 または……新しい「氏姓」を、作り上げるか。


 サイラスは選んだ。一生を見張られるでもなく、王宮に縛られるのでもなく、作り出すことを選んだ。

 やり方は、簡単。

 今ある公爵家を、上から潰して己が立つのだ。

 傍若無人にして、専横が過ぎる一族は、長年にわたり国王がひそかに敵とみなしてきたにも拘らず、一向に勢力をそげずにいた相手だった。

 彼らを上回る手段と駆け引きが必要だった。


 歩んできた道が、間違いだとは思わない。

 ただ……あの子の手を引こうとすれば……躊躇いが生まれるのだ。

 本当に、これでいいのかと。








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