十六
☆
話は短かった。オリヴィアは前回の会議の件も踏まえて、淡々と説明したし、サイラスもガーランス家へは連絡済みだと教えてくれた。
そう、なら……よかったと心の底から安心して、二人の間に沈黙が落ちた。
「……オリヴィア?」
名前を呼ばれて、はっとする。
驚いた拍子に瞬きをして、落ちた滴にさらに目を見張った。
手を当てなくても、分かる。
気づかないうちに……涙があふれていた。
「どこか痛むんじゃ……」
「ち、ちがいます」
声が驚くほど細い。とっさに口を押えていた。なにもない、という意味で、首を振る。
「そんなはずないだろう……震えているよ」
「……」
震えている? 信じられなくて手を見つめても、涙のせいでぼやけてしまっている。目をつむって雫を落としても……落としても、零れてきた。
「オリヴィア……」
サイラスが身じろいだ気配に、とっさに体が硬くなった。ピタリと、サイラスが止まる。考える間があって……もう一度オリヴィア、と呼ばれた。
「君は震えている」
「……」
「だから、ドレスだけではよくないよ。上着を……私の物になるけれど……着た方がいい」
「……」
「いいかな?」
ぐい、と顎を引けば、すぐに肩が温かくなった。背中も、腕も。
すっぽりとサイラスの上着に覆われている。
唐突に……涙が止まった。恐る恐る屈んでいた体を起こす。今度は白いハンカチを差し出されて、目元を押さえた。
発作のような涙は、同じようにいきなり引いた。少し頭が重いのが涙の名残で、困惑するサイラスをただじっと見上げる。ややあって、困ったな、とサイラスが目を伏せた。
「あの……閣下」
「オリヴィア……それはひどい」
サイラスがうつむいたまま苦笑した。
「そう呼ばれたら……私は君に対して、『社交的に』接しないといけない」
「……サイラス様」
あの仮面のような笑顔を向けられるのは怖くて、オリヴィアは言い直した。
「あの、本当に何もないのです。ただ……」
「ただ?」
「いえ。お気になさらず」
「駄目だ。話して、オリヴィア」
強く出られると、オリヴィアはサイラスに逆らい難かった。
「ただ……」
安心した、それだけだと。嘘ではない事を告げられない。言ってはいけない心が飛び出しそうで、声を切る。
「医者を呼んでもいいかい?」
「いえ。どこも痛くは……」
「ではどうして」
交渉のようだわ、とどこか冷静な頭の片隅が漏らす。サイラスがどこまで計算しているのか、それとも無意識に手段として使っているのかわからないけれど。
「オリヴィア」
少しだけ近くに迫られて、限界だった。
「ただ……嬉しかったんです」
「――」
「あなたが、無事で……」
ずっと。ずっと。
怖い父母から、彼を守りたかった。でも、小さなオリヴィアに、力なんてなかった。
今、力があるのはサイラスの方だ。オリヴィアは邪魔にしかならないと思っていた。
あの一瞬。振り上げられた武器が、どんなに恐ろしかったか。
サイラスを奪おうとする人間が、どれほど濃い闇に見えたか。
「もう一度、お会いできて……」
二度と会わないと決めたはずの人が現れた時、とっさに幻だと思った。
だって、ずっと「そう」だったから。
そばにいたいという願いは、オリヴィアの中で根付いてしまっていた。今まで芽を出すたびに引き抜いて、振り払ってきたはずなのに、もう、どうやって抑えていたのか分からない。
紫紺色の瞳と、目が合った。
「オリヴィア」
「はい」
「私たちは似ているよ」
いつの間にか、サイラスはさっきよりもずっと近くにいた。
「私も……君に会えて嬉しいよ」
温かいのは、上着が掛かっているからではなかった。背中にサイラスの腕がしっかりと回っているから。
大きな手が、オリヴィアの頬に添えられている。こつん、と額が付く。目を閉じれば、ふっと笑った吐息がオリヴィアをくすぐった。
「サ……」
呼びかけは、途切れた。ゆっくりと、手袋を外した指先が、唇をなぞったからだ。
上と下とを、掠めるようにそっと。
「ここは……初めて?」
「――っ」
息をのんだせいで、とっさに答えにならなくても、サイラスにすれば十分だった。
「……それは残念だね」
オリヴィアが目を丸くする。なぜ、と思う間もなく、サイラスがさらに近くなった。
「好きな人がいたのかな」
「あ……」
額に、一度。
「それとも迫ってきた悪い男?」
「っ……」
こめかみに、一度。
「駄目だよ、オリヴィア。さっきみたいに、きっぱり拒絶しないと」
「……」
右頬に、一度。
髪に、首に、手の指に。
サイラスの熱が落とされる。
苦しかった。息が、胸が。体のすべてが。
自分の物でなくなったみたいだった。
動悸が胸を破りそうなほどなのに、血の巡りはちっともよくなっていなかった。指の先から、腕から、背中から。どんどん力が抜けていく。
頬に、サイラスの手のひらを感じた。緩い力で仰向く。
止まったはずの涙が、またオリヴィアの瞳にいっぱいになっていた。灰色の双眸は、鏡面が揺蕩っているよう。
目を閉じれば、一筋だけ流れた。
「お兄様……」
「――――っ」
サイラスの体が強張った。腕の中のオリヴィアを呆然と見つめてから、きつく目を閉じて逸らした。
「……オリヴィア」
目じりの涙を、サイラスがぬぐった。肩を支えて体を引き離し、とうに落ちていた上着を再度オリヴィアへかけた。
「……お兄様?」
「お別れだよ、オリヴィア」
「……」
「君とは、兄妹になれないんだ。私にはもう、その気がない。努力さえできそうにない」
「……」
どん、とサイラスが遠くなった。冷たい水の中に、オリヴィアだけが倒れこんだようだ。それでも、オリヴィアはサイラスを凝視し続けた。
肩が重かった。いや、どうしようもなく、すべてが重い。
サイラスがオリヴィアから顔をゆがめて目をそらした。立ち上がって……踵を返して、外へ出ていった。
扉が閉まっても、オリヴィアは時間が止まっていた。
動かない。心も、体も。思考のすべてが。
ただ、一つだけわかったのは。
「お兄様は、覚えていらっしゃらない……」
ずっと気がかりだった、あの件の結果だけ。