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私の心は金の波  作者: 日野真春
本編
16/34

十六







 話は短かった。オリヴィアは前回の会議の件も踏まえて、淡々と説明したし、サイラスもガーランス家へは連絡済みだと教えてくれた。

 そう、なら……よかったと心の底から安心して、二人の間に沈黙が落ちた。


「……オリヴィア?」


 名前を呼ばれて、はっとする。

 驚いた拍子に瞬きをして、落ちた滴にさらに目を見張った。

 手を当てなくても、分かる。

 気づかないうちに……涙があふれていた。


「どこか痛むんじゃ……」

「ち、ちがいます」


 声が驚くほど細い。とっさに口を押えていた。なにもない、という意味で、首を振る。


「そんなはずないだろう……震えているよ」

「……」


 震えている? 信じられなくて手を見つめても、涙のせいでぼやけてしまっている。目をつむって雫を落としても……落としても、零れてきた。


「オリヴィア……」


 サイラスが身じろいだ気配に、とっさに体が硬くなった。ピタリと、サイラスが止まる。考える間があって……もう一度オリヴィア、と呼ばれた。


「君は震えている」

「……」

「だから、ドレスだけではよくないよ。上着を……私の物になるけれど……着た方がいい」

「……」

「いいかな?」


 ぐい、と顎を引けば、すぐに肩が温かくなった。背中も、腕も。

 すっぽりとサイラスの上着に覆われている。

 唐突に……涙が止まった。恐る恐る屈んでいた体を起こす。今度は白いハンカチを差し出されて、目元を押さえた。

 発作のような涙は、同じようにいきなり引いた。少し頭が重いのが涙の名残で、困惑するサイラスをただじっと見上げる。ややあって、困ったな、とサイラスが目を伏せた。


「あの……閣下」

「オリヴィア……それはひどい」


 サイラスがうつむいたまま苦笑した。


「そう呼ばれたら……私は君に対して、『社交的に』接しないといけない」

「……サイラス様」


 あの仮面のような笑顔を向けられるのは怖くて、オリヴィアは言い直した。


「あの、本当に何もないのです。ただ……」

「ただ?」

「いえ。お気になさらず」

「駄目だ。話して、オリヴィア」


 強く出られると、オリヴィアはサイラスに逆らい難かった。


「ただ……」


 安心した、それだけだと。嘘ではない事を告げられない。言ってはいけない(ことば)が飛び出しそうで、声を切る。


「医者を呼んでもいいかい?」

「いえ。どこも痛くは……」

「ではどうして」


 交渉のようだわ、とどこか冷静な頭の片隅が漏らす。サイラスがどこまで計算しているのか、それとも無意識に手段として使っているのかわからないけれど。


「オリヴィア」

 少しだけ近くに迫られて、限界だった。

「ただ……嬉しかったんです」

「――」

「あなたが、無事で……」


 ずっと。ずっと。

 怖い父母から、彼を守りたかった。でも、小さなオリヴィアに、力なんてなかった。

 今、力があるのはサイラスの方だ。オリヴィアは邪魔にしかならないと思っていた。

 あの一瞬。振り上げられた武器が、どんなに恐ろしかったか。

 サイラスを奪おうとする人間が、どれほど濃い闇に見えたか。


「もう一度、お会いできて……」


 二度と会わないと決めたはずの人が現れた時、とっさに幻だと思った。

 だって、ずっと「そう」だったから。

 そばにいたいという願いは、オリヴィアの中で根付いてしまっていた。今まで芽を出すたびに引き抜いて、振り払ってきたはずなのに、もう、どうやって抑えていたのか分からない。


 紫紺色の瞳と、目が合った。


「オリヴィア」

「はい」

「私たちは似ているよ」


 いつの間にか、サイラスはさっきよりもずっと近くにいた。

「私も……君に会えて嬉しいよ」


 温かいのは、上着が掛かっているからではなかった。背中にサイラスの腕がしっかりと回っているから。

 大きな手が、オリヴィアの頬に添えられている。こつん、と額が付く。目を閉じれば、ふっと笑った吐息がオリヴィアをくすぐった。


「サ……」


 呼びかけは、途切れた。ゆっくりと、手袋を外した指先が、唇をなぞったからだ。

 上と下とを、掠めるようにそっと。


「ここは……初めて?」

「――っ」


 息をのんだせいで、とっさに答えにならなくても、サイラスにすれば十分だった。


「……それは残念だね」


 オリヴィアが目を丸くする。なぜ、と思う間もなく、サイラスがさらに近くなった。


「好きな人がいたのかな」

「あ……」

 額に、一度。

「それとも迫ってきた悪い男?」

「っ……」

 こめかみに、一度。

「駄目だよ、オリヴィア。さっきみたいに、きっぱり拒絶しないと」

「……」

 右頬に、一度。


 髪に、首に、手の指に。

 サイラスの熱が落とされる。

 苦しかった。息が、胸が。体のすべてが。

 自分の物でなくなったみたいだった。

 動悸が胸を破りそうなほどなのに、血の巡りはちっともよくなっていなかった。指の先から、腕から、背中から。どんどん力が抜けていく。


 頬に、サイラスの手のひらを感じた。緩い力で仰向く。

止まったはずの涙が、またオリヴィアの瞳にいっぱいになっていた。灰色の双眸は、鏡面が揺蕩っているよう。

 目を閉じれば、一筋だけ流れた。


「お兄様……」

「――――っ」


 サイラスの体が強張った。腕の中のオリヴィアを呆然と見つめてから、きつく目を閉じて逸らした。


「……オリヴィア」


 目じりの涙を、サイラスがぬぐった。肩を支えて体を引き離し、とうに落ちていた上着を再度オリヴィアへかけた。


「……お兄様?」

「お別れだよ、オリヴィア」

「……」

「君とは、兄妹になれないんだ。私にはもう、その気がない。努力さえできそうにない」

「……」


 どん、とサイラスが遠くなった。冷たい水の中に、オリヴィアだけが倒れこんだようだ。それでも、オリヴィアはサイラスを凝視し続けた。

 肩が重かった。いや、どうしようもなく、すべてが重い。

 サイラスがオリヴィアから顔をゆがめて目をそらした。立ち上がって……踵を返して、外へ出ていった。


 扉が閉まっても、オリヴィアは時間が止まっていた。

 動かない。心も、体も。思考のすべてが。

 ただ、一つだけわかったのは。


「お兄様は、覚えていらっしゃらない……」


 ずっと気がかりだった、あの件の結果だけ。







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