十三
☆
王宮の謁見は、なんの問題もなかった。
なんと学院長自ら、オリヴィアの後見を申し出てくれた。取り計らってくれたのは国王自身で、すでに断れそうにない話になっていた。
ウィルコットではなく、今後はガーランスの家名が、オリヴィアの姓となる。一族は学者肌の人間が多く、研究所にも親戚が数人おり、さらに学院長とは話の合う研究者同士といった関係がずっとあった。顔も気心も知れた、最高の後ろ盾だ。
父というよりは、祖父という年齢差なのは、本当の祖父母を知らないオリヴィアを、少しだけ躊躇わせたけれど……何も変わりはしないよ、と優しく普段通りに話しかけてくれる学院長が、とてもありがたかった。
初めて袖を通した、大人のドレスも。美しく着飾られた自分も。
まるで夢のようだった。
だって、日常はあまりにも何も変わらなかったから。
好きなことをしていい。そう、新しい庇護者はオリヴィアの背中を押した。研究は好きだ、これからも続けたいと告げれば、とても嬉しそうに頼んだよ、と励ましをくれた。
今日も、今後改良された小麦をどうするか、ひとしきり議論してきた。
新しく作られた小麦は、研究を始めたウィルコット公爵領の一部――オリヴィア名義だった村は、すべて畑になった――において、栽培範囲を少しずつ拡大している所だ。収穫量も多く、病気や虫に強い新種は、喉から手が出るほど他領も欲しい。交渉は範囲拡大を早急に迫る領主たちの、鬼気迫る勢いに押されがちだった。
が、そこを頑として首を縦に振らないのが、研究の発起人であるオリヴィアで、結果として他領での新種栽培は見送りとなった。
変わらない日々。十分、満ち足りている。
けれど。
廊下には人影がなかった。
ふと、足を止める。
空耳だと、分かり切っていた声に――名前を呼ばれた、気がした。
『オリヴィア』と。
再会してから、いったい何度、あの声に名前を呼ばれただろう。きっともう、妹だった頃よりもずっと多い回数になっている。
足を速めて、廊下を進んだ。自室の扉をもどかしく開けて、とにかく寝台へ向かう。手にあった書物が床に散らばる。すべてをそのままに、力尽きて座り込んだ。
嘘だと否定しても。どれだけ駄目だと言い聞かせても。
両手で押さえた胸は苦しくなるばかりだ。
空っぽな人形だったオリヴィアに、心をくれたサイラス。
手渡された温かいものが、いまはひたすらオリヴィアは苦しめていた。
自分は言い聞かせている。そばにいてはいけない。求めてはいけない。
心情は叫んでいる。どうして、なぜ。差し伸べられたのに、手を取りたいのに。
振り払ったのに、まだあの優しさを求めている。
目頭が熱くなって顔を覆った。
泣いては、いけない。
温かい腕に囲われたのは、遠い日の記憶で。
柔らかく微笑みながら請われたのは、もう過去になった。
不思議な言葉でからかわれたのも、好きだと告げられたのも。
ほんの一瞬重なった、唇の熱でさえ。
すべてがオリヴィアの夢なら……いっそ楽だったかもしれない。
トントン、とノックが聞こえた。とっさに動けなかったオリヴィアを、促すようにもう一度。
深呼吸をした。目元に、そっと指をあてる。
涙は、零れていなかった。
床に散らばった本を拾ってから、扉を開けた。
ためらいを顔に浮かべた、シシリーがいた。もう、仕事は終わっている。何か不備があっただろうかと、一日を振り返るけれど、特に思い当たらない。
「シシリー?」
「……大丈夫?」
学院長の一族、ガーランスに迎えられてから、シシリーは義姉となった。もともと仲が良かったから、ひときわ喜んでオリヴィアを歓迎したのも彼女だ。
学院の宿舎を出て、一緒にガーランスの本家に住もうとさえ誘ってくれる。
さすがに、いきなりすべてお世話になる気にはなれなくて、保留とさせてもらっていた。
その話だろうか、とオリヴィアはシシリーを招き入れた。さすがにお茶は出せないが、作っておいた薄荷水を出す。
「仕事の話? 今日の会議、まだなにか問題でも」
「違うわ。そうじゃないの……」
じっとシシリーがオリヴィアを見つめる。ソファなんてないから、二人が腰かけているのは寝台だ。
「ねえ、私のせいかしら。あなたが公爵様のお話を断ったのは?」
「……」
オリヴィアは黙り込む。人差し指を口元に当てて、少し考え込んでから、首を振って否定した。
「もともと、シシリーの言うとおり、お受けできるようなお話ではなかったのよ。だから、誰のせいでもない。当然の結論なの」
でも、とシシリーが食い下がる。
「あなたは……」
「私がどうしたいか、なんて……関係ないの。私はあの方にとっての、最善を選んだつもりよ?」
被せるように、オリヴィアは言い募った。見抜かれていたのだとしても、指摘されたくなかった。それは、夢でない証拠になってしまう。
「サイラス様は、ビゼ―侯爵家と縁続きになって……カーティスの繁栄に貢献される、新しい公爵家をお作りになるわ」
たとえ血のつながりがなくても、本当の兄妹になろうと、言ってくれたのだと思った。
オリヴィアは、それだけで十分だった。
十分だった、はずだ。
じっとオリヴィアを見つめるシシリーは、揺らごうとしない義妹が、とても悲しかった。
「オリヴィア……これだけは、教えてくれる? あなたにとって、サイラス・カイエント様は、どんな方かしら?」
真正面から尋ねられて、オリヴィアはすぐに言葉がなかった。
優しくて、まっすぐで、けれど隠し事も多かった、たったひとりの兄。
「……かけがえのない方、だわ」
過去も、今も――これからもずっと。