十二
☆
なるほど、思い返せばサイラスは陽気なところがあった。冗談がうまいのはきっと本当だろう。ただそれを、オリヴィアに見せることがほとんどなかっただけ。
埋もれかけた記憶が引っ張り出されたのには、理由がある。
目の前で美しく微笑んだサイラスが、たった今オリヴィアの装いを褒めたからだ。
とても綺麗だよ、と。
嘘だとは思わない。オリヴィアは自分でも綺麗だと確かに思ったから。
空色のドレスは、刺繍もレースも、光をはじくビーズもふんだんにあしらわれていながら、上品な仕上がりで。
衣装係のメイドたちが施した化粧も髪型も、流行りを押さえた、一流には違いなく。
もともと肌が白く華奢なオリヴィアは、母に似ていて美しいといわれていた。
なにも、どこも事実と変わりない。
ただ――きっと、口に出したセリフよりも、本心が別のところにあるだけだ。
思い出の中の彼の言葉には、どこにもそんな含みなどなかった、と比べようもないことを考えている、オリヴィアの心が、どうかしているのだ。
だから、大人としてオリヴィアは座っていたスツールから立ち上がり、優雅に一礼をしようとして……白い手袋にそっと肩を押しとどめられた。
「……ごめん」
「なぜ謝罪を?」
「君がとても洞察力にあふれていることを忘れて、うかつなことを言ったからさ」
「私を褒めていらっしゃるのですか?」
やや皮肉を込めてあえて尋ねれば、サイラスは目に見えてへこたれた。
「いや……なんて言えばいいのかな」
向き合って見上げれば、口元に人差し指を付けて、サイラスが考え込んでいた。
「うん……本当だけど、全部じゃない言葉と社交用の表情で、ごまかそうとしたから、かな」
なるほど、とオリヴィアは納得した。あの微笑は社交用――仮面だったのか、と。
「私が悟ったことを、よくお気づきになりましたね」
「……っ君が、言葉を口にしなかったし……」
それに、と続きそうだった後ろを、サイラスが飲み込んだ。どうやら自分は分りやすいらしい、とオリヴィアは少し憮然とする。
「あいにく、社交用の持ち合わせがありませんので」
「それを今言われるのは手痛いね」
さあ、と手を取られてソファへ促される。まだ少し、王宮へ出発するには早い時間だ。サイラスは抜かりなく紅茶を用意させていた。口紅を塗りなおす時間も、きっと織り込まれている。
綺麗なんだ。とても。そっと落とした声でサイラスがこぼした言葉は、間違いなく本当だった。どこにも嘘がない。
だからこそ、オリヴィアは落ち着かなかった。サイラスが、ひどく不安定だから。不安や焦り、そんな感情が透けて見える。
どうして、なぜ。問いかけていいのか、オリヴィアは迷った。
「あの…おにい……サイラス様」
言い直せば、さらに苦しそうにサイラスが目を伏せた。もう、途方に暮れるしかない。不安は移る。サイラスから、オリヴィアへ。離れようとしたら、オリヴィアの手が、サイラスにとられた。軽く引かれれば、反対に距離は近くなった。
「ごめん」
「あの……」
「君は何も悪くない。本当だよ」
「でも……私のせいでしょう?」
「違う。私の、心の問題で……」
「こころ?」
「いや。心だけじゃないな。行動も、きっと問題がある」
ぱっとサイラスは手を放した。
「君に触れていい権利は、とっくに無くしていたね」
「……」
そうだった、と今更に気付いた。
サイラスとオリヴィアは、もう兄妹ではない。兄妹だったという過去があるだけで、父母がいない以上、二人をつなぐ線は過去にしかない。
どうして忘れていたの、とオリヴィアは一瞬前までの自分を叱りつけたかった。
過去のつながりから、彼に気安くすれば、現在にどんな影響があるか。
懐かしくても。どんなに後悔しても。本当はもっと一緒にいたかったとしても。
「適切な距離」を、今も誤ってはいけなかったのに。
しぼりだした声は、どうにか震えていなかった。
「……なんとお呼びすれば?」
「君の好きにしていいよ」
「でも」
「大丈夫。君はまだ、『大人』じゃないし、ここは公の場でもない」
確かに、オリヴィアは成人としての通過儀礼を終えていない。国王陛下に謁見を賜るのは、これからだ。そこで初めて、社交界へ出る権利を得られる。
不安を引きずったままのオリヴィアを、大丈夫だとサイラスがなだめた。
「一度くらい、君を甘やかしたかったからね」
「……」
この元兄は、かつての言葉通りにするらしい。パチリと片目さえつぶって見せた。
「……サイラス、さま」
しばらく迷ってから、そう呼ぶ。子供には戻れないことぐらい、承知していたから。
すう、と深呼吸をした。
「父はひどい人でした。あなたにとっても、領地の民にとっても。私の知りえない苦しみが、きっと多くサイラス様には降りかかった……父が私を見限ったために」
「……」
「駒にはならないと判断したために」
サイラスが、口を開きかけて、止める。ちゃんと話を聞いてくれるのだと、オリヴィアは嬉しくなった。
「あんな状況でしたから……サイラス様が、たとえ誰と、どんな約定を交わしてから、ウィルコットへ来たとしても、驚きはしません」
サイラスが、ひどく動揺したところを、オリヴィアは初めて目にした。
距離を置いていた。だからこそ、兄だった人のいろんな表情を、オリヴィアは知らなかった。
理由を尋ねられれば、説明したけれど、結局サイラスは沈黙を選んだ。
オリヴィアにしてみれば、少々警戒心のない兄から読み取ることは、それほど難しくなかったことだ。
バードは王家に尽くす男だ。
前ビゼ―侯爵とは、父でさえ一目置いた、礼儀正しい――少なくとも、見かけ上は――付き合いだった。
その男が、臣下のようにふるまう相手は、当然のようにバードと男を呼び捨てた。
二人だけの時に――だからこそ、関係性はおのずと知れる。
そして、サイラスの素性も。
「家が取り潰されたことも……あなたがいなければ、きっといつか、私がやりました」
もろともに滅んでいくとしても、道がそれしかなければ、ウィルコットを滅ぼすことを選んでいた。ただ、あの時のオリヴィアには、どんな力もなかった。
「サイラス様に、背負う重しなど、ありません。私にとって、ウィルコットも、父母も……どうでもいいんです」
ひどい娘だ。けれどまぎれもない、オリヴィアの中で揺るがない真実。
耐えられなくなったサイラスが、でも、と口を開く。
「ウィルコットの汚名は、君を罪人にして……」
「罪人?」
ふっとおかしくなった。え、とサイラスが目を見張る。
「嘘つきね、お兄様」
虚を突かれて、さらにサイラスが驚いたようだった。おかしくなってしまったオリヴィアは、少し俯いて笑いをこらえてから、続ける。
「ちゃんと手を打ってくださっているのに? 今の私に、不満なんてない環境で……それにもうすぐ、その汚名は雪がれます」
オリヴィアは学院に所属していた。
誰の差し金か、偶然か。学院の要請は当然だったとしても、どちらにせよ、成人を間近に控えていながら、呼び戻されることもなかったのだから、サイラスが手を回していたのは確実だ。
「サイラス様、あなたは優しかった。私のとても大事なお兄様。賢く、聡明で……素晴らしい行動力で、私を生かしてくださいました」
あの父は……横暴で、欲深くとも、決して愚鈍でもなければ無能でもなかった。むしろ、目の前のサイラスや前ビゼ―侯爵と同様、優秀な人間だった。
その能力を、己のためにしか使わなかっただけで。
裏をかき、不正を暴くまでに、どれだけの攻防があったか。そして獅子身中の虫として潜むサイラスに、どれほど危険が伴っていたか、想像さえできない。
だから。
「もう、よいのです」
小さなオリヴィアが、懸命に愛した兄。もう十分に、同じか……それ以上の心を、オリヴィアは受け取っている。
「ですから……これで最後にいたしましょう?」
会えない。会っては、いけない。庇護なんて、受けられるはずがない。
「代替わりした公爵様。家名を断ち、新しい流れを作る方……その肩に、これ以上背負わせる訳にはまいりません」
古いものに連なるオリヴィアは、きっといつかまた不要な壁になる。
それに、と暗い気持ちになりながら、オリヴィアは続けた。
「身をお固めになるのに、私がいては不自由もあるでしょう」
サイラスが息をのんだ。
「それを、どこで……」
研究所を、彼はまるで本物の檻のように考えている節がある。とても大きな間違いだ。王宮ほどではないにしろ、人の出入りだってそれなりにある。
「一応、研究所にも横や縦のつながりがありますの」
頑張って、微笑んで見せる。招待状が来てから、鏡の前で練習した。「社交用」に必要だと知っていたから。
でも今は、本当に笑顔を見せたいと思うから。
まだ固くても、自然ではなくても。
お別れするなら、笑った方がいいと、シシリーは前に言っていた。
サイラスは、微動だにしなかった。オリヴィアをじっと見つめて、やがてきつくこぶしを握った。
「…………君を、幸せにしたかったんだ」
長い沈黙の後に、もたらされた呟きに、ゆっくりと、オリヴィアは首を振った。
「幸せでした。とても……お兄様がいてくださったから」
サイラスがいなかったら、オリヴィアはきっとどこか空っぽな人形のままだった。
だから、と続ける。
「これからもきっと大丈夫。あなたの願いは、叶えてみせます」
妹であったことは、私の誇り。
それが、十分にオリヴィアを支える力になる。
すっと音もなく立ち上がる。期間は空いても、十年かけて指導された淑女の動きは、ちゃんとオリヴィアの中で生きていた。
裾をわずかに広げ、敬意をこめて、膝を折った。
「あなたの安寧と繁栄を、心からお祈りしております」
完璧な淑女の礼を、オリヴィアは綺麗に微笑みながら、サイラスに見せた。