第一章 2
シグは街の中心に聳える大木の枝の上で目を覚ました。
麗らかな春の風が囁く二度寝の誘いを振り払い、落下するように大木を降りた。
少々土汚れのついた衣服を手で払う。それから身体浄化の魔術を唱えて身を清めた。
フードをかぶって髪を隠して、噴水の水面で自分の瞳を見る。
瞳は深い闇色をしており、真紅色ではなくなっている。それを確認して、シグはひとつ息を吐いた。
朝のノーブルヴァルトは活気があるよい街だ。商人達の客引きの声と管楽器が奏でる爽やかな音楽が作り出した光景は、幸せそのものだ。
もちろんこれだけ幸せそうな街であっても、夜には顔を変えて悪が横行する。それをシグは容認することはできない。
「よォ、そこの美しい兄ちゃん。取れたてのオレンジでもどうだい?」
綺麗に整えられた髭を生やした商人がシグに声をかけた。その手には大きなオレンジが握られている。
「確かによいオレンジですね。一ついただけますか」
「一つね。銅貨一枚だ。何で払う?」
「魔術通貨でお願いします」
「はいよ。指輪ァ見せてくれ」
シグは右手の薬指に嵌めた銀色の指輪を見せた。
「おお、兄ちゃんは銀か。名は、シグルス、だな」
商人は金の指輪を嵌めた左手でシグの右手を握った。
「取引成立だ」
手を離して、オレンジを一つシグに手渡した。
シグはオレンジを持っている手を上げて、商人に別れを告げた。
服の内側に隠してある短剣を使い、オレンジの皮を剥いた。一応、魔剣であるが特に派手な装飾のない短剣は、ザリンゲンという街に住む鍛治屋・ヴェルヘンドによって作られ、レヴェルドと名のつけられたものだ。それにシグが魔装――魔術による加護や魔剣へと変化させること――を施して魔剣へと磨き上げた。
シグはレヴェルドを服の中に戻してオレンジに噛みついた。瑞々しい果実は汁を散らし、柑橘類特有の酸味を帯びた匂いを放つ。獣が獲物を喰らうようにオレンジを食べ尽くしたシグは口元を袖で拭い、ゴクリと喉を鳴らした。
もはやシグにとって食べることなど人間らしくあるだけの行為だ。食欲があるわけでも、餓死するわけでもない。ただ、人であることを再確認するだけの習慣と化している。
無意識に自嘲的な笑みを浮かべていた。
不意に、石畳の道を規則正しく踏みならす音が背後から聞こえてきた。
「貴方は昨日の恩人ですね」
振り返ると一人の騎士が姿勢よく立っていた。身長はシグに比べて随分と低く、騎士にしては一回りほど小さい。昨日とは違って兜のスリット部分が上側にスライドしており、目元がよく見えるようになっていた。
凜として威圧感があるがどこか幼さを残した目をしている。切り揃えられた金色の前髪が兜の中で彼女の正しさを象徴するように揺れていた。
「貴方は、昨日の小さな騎士さまですか。まさかこんなに可愛らしいとは思いませんでした」
「小さくありません。私はノーブルヴァストの民間騎士であるユフィーリアと申します」
「私はシグルスです。ユフィーリアさんは王国直属の騎士ではなかったのですね」
「ええ。父は、そうでありましたが、私は……」
ユフィーリアは一瞬だけ唇を噛んだ。しかし振り払うように小さく首を振ると何もなかったように自然な口調で言った。
「シグルス様。少々お話したいことがございます。よろしければこのユフィーリアについてきてはくれませんか」
「ええ、それはよいのですが……」
シグは真意を探るようにユフィーリアの瞳を覗き見る。しかし、その瞳は鏡面のようにシグを写すだけだった。
「ええ。ついていきますよ」
「感謝いたします。それでは」
そう言ってユフィーリアは堂々とした態度で歩き出した。シグは服に隠してあるレヴェルドを取り出しやすいように袖口に移してから、そのあとを追った。
ユフィーリアは人の多い大通りから暗い路地に入った。そうして人目がない場所まで歩くと、おもむろに振り返って剣を抜いた。
「いったい、何の冗談です? 騎士様」
「冗談ではありません。真剣に、あなたが、善か悪か、白か黒か、はっきりさせたいのです」
「……気づいていましたか」
シグは顔の半分だけで笑った。
正直、見くびっていた。まさか、最初からあの場所で男達の行為を覗き見ていたことに気づいていたとは思っていなかった。
彼女を鋭い眼光が空気を凍らせたように吐く息に熱が籠もる。
――焦るな。求めるな。
シグはつり上がりそうになる口角を必死に抑えて、怯えているかのような声を出す。
「私は、怖かったのです。心に正義の火を灯そうとも、風雨に打たれて消えぬほどの勢いを持てずにいただけなのですよ」
目尻を下げて視線を左右に揺らし、体を縮こまらせて話した。
しかしユフィーリアは騙されることなく、シグの言葉を切り裂いた。
「嘘だ。貴方は素手で暴漢を退治しただろう」
耐えきれなくなり、シグの口元がぐっとつり上がる。開いた口内には牙が見え隠れしていた。
「やはり、貴方は善のフリをした悪でありましたか。残念です」
言い終えるよりも早くユフィーリアはシグに向かって突撃した。腰の高さに構えた剣を、彼女らしく真っ直ぐの突きを繰り出した。
袖口からレヴェルトを出して突きを後方に滑らせ、彼女の背面に回り込み、飛び退いて距離をとる。
ユフィーリアは強い踏み込みで振り向きざまに一閃を放ったが、やはり壁面にかすりその剣は届かない。
シグはそのあともユフィーリアの猛攻を全て防ぎ、楽しむようにレヴェルドを揺らめかせていた。
ユフィーリアは随分と荒い息を吐いていた。いくら軽量化している鎧であっても、それは衣服とは違って重く邪魔になるだろう。
「貴方は、どうして攻撃しないのですか……」
「貴方が私を殺すために剣を振るっていないからですよ」
シグはあくまで善人のように告げる。
するとユフィーリアは剣を鞘に戻して兜を取った。肩ほどまで伸びている金色の髪が汗で湿っていて、春の小川のように美しく流れて揺れた。
ユフィーリアは片膝を地に着けて、頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。本当の貴方を見るためにはこれしかないと考えた結果であります」
「それにしては随分と無礼ではありませんか?」
シグはレヴェルドを懐にしまい込んで責め立てるように言う。
「もちろん、何の罰も受けずに許されようとは思っておりませんよね?」
「はい。どんな罰でも受ける覚悟で貴方に挑みました。死さえ、覚悟しております」
その言葉に嘘はないのだろう。だからこそ、シグはこの少女騎士に興味が湧いた。
「立ちなさい。騎士が膝をつけるのは主君の前だけですよ」
シグは茶化すように言いながら手を差し伸べた。けれどユフィーリアは顔を上げることなく叫んだ。
「承知しております! 騎士は主君に付き従うものであります。ですが、私は今、主君なき騎士であります」
昨日の違和感の正体はこれだった。彼女が純粋な正義を掲げているにも関わらず、どこか定まらない存在のように見えたのは従うものがなかったからだ。
ユフィーリアはそれから自らの境遇を語った。
出生とともに母を亡くしたこと。王宮騎士をしていた父が隣国の紛争を止めるために従軍し、その地で戦死したこと。
父の部下の男に引き取られて騎士として育てられたが、剣の才能に乏しく騎士になることができなかったこと。騎士崩れ、似非騎士と揶揄される民間騎士になってまで騎士という職に執着していること。
全てを語り終えたユフィーリアは静かにシグの言葉を待っていた。
欲しいのは慰めか、それとも同情か。はたまた介錯か。
――くだらないことだ。
シグは冷めた瞳で少女を見下ろしていた。いつの間にか握られていたレヴェルトを力強く握り直す。
殺してしまおう。生きていることがつらいのなら死ねばいい。
心からそう思い、短剣を振り下ろそうとしていた。
そのとき、風に乗った一羽の鳥が二人の上を通り抜けていった。
短剣の切っ先がユフィーリアの頭上にきたところで思いとどまった。
些細なことだ。
今日の青空が見たこともないくらい澄んでいたから、とか。
少女の金色の髪が風に揺れて美しかったから、とか。
食べたオレンジが少し酸っぱかったから、とか。
本当にどうでもいいことが積み重なっただけだ。それだけでシグは殺すのをやめ、若き騎士の肩に短剣の平を乗せて告げた。
「私は君の主君となろう」
ユフィーリアは幼子が目覚めるようにゆっくりと顔を上げた。信じられないといった表情を浮かべている。
「それは、本当ですか?」
声は震えていた。おそらくこれまで求められることなどなかったのだろう。
願いを叶えるようにシグは力強く求めた。
「若き騎士、ユフィーリアよ。我が下にてその剣を振るえ!」
「……っ、はい!」
涙で頬を濡らしながら、騎士は美しく笑った。
遠くからやってきた管楽器の高らかな行進曲が路地を明るく照らしていた。