第一章 1
銀白色の髪を風に靡かせながら夜の街を歩くたびに考えている。
正義は悪を倒す存在だ。ならば、悪人を倒すためにする悪行は、正義なのではないか。
そう、もしこの暗い路地で少女が襲われていたとして。少女を助けるために振るう暴力は正当化されるべきだろう、と。
図ったように女性の悲鳴が聞こえた。ゆっくりと声のした方向へと進み、建物の陰に身を潜めながら状況を確認する。
「やめてください! 誰か、助けてっ、んんッ!」
「大きな声出すんじゃねえよ……。なあ……?」
「大人しくしてりゃ、悪いようにはしねェからさァ……」
二人組の男達は一人の女性を挟むように立っている。女性は後ろから両手を捕まれ、前から口を押さえられていた。
獣のように醜悪な表情を浮かべた暴漢の手には一本の短剣が握られていた。脅すように女性の首筋に短剣を近づけて、小さな声で何かを呟いている。
――死にたくはねえだろ?
男の唇は確かにそう告げると、女性の胸元にナイフを差し込んで服を一気に切り裂いた。
くぐもった悲鳴とともに女性の胸が露わになる。女性が男の手を振りほどこうと動くたびに、暴漢の表情はいやらしく歪んでいく。
シグは踏み出しかけていた足をゆっくりと戻した。出来合いの正義感よりも単純に雄としてどうなるのかの興味のほうが勝っていた。
もちろん、これから起こるだろうことに対して無知でいられるような年齢ではないが、シグは自分が無関心を貫けるほど高潔なつもりもなかった。
男が短剣を腰に戻し、両手で女性の胸を乱暴に揉み始める。男の荒々しい息は、暗い路地全体が呼吸をしているように大きな音を立てていた。
女性の涙が頬から汚れた地面に零れ落ちた時、凜々しき騎士の声が響いた。
「守るべき女性に汚らわしき手を上げた不届き者めッ! 今すぐその手を離して地に伏せろ! さもなくば貴様等を殺す!」
シグの隠れている道の反対側から現れたのは白を基調とした鎧を纏った騎士であった。兜で顔を隠しているが声の高さからして、おそらくは女性だろう。
「あァ? キシサマは帰って王様のご機嫌でも取ってやがれ!」
男は短剣を抜いて、騎士に向けて突きつけた。
馬鹿め、騎士が暴漢ごときに負けるわけがないだろう。
シグは男の無知を憐れみ、逃げるために物陰からゆっくりと別の道へと移動した。暴漢の血を見るなど御免だった。
「ぐぅっ……!」
「ハッ、剣もロクに使えねぇヘッポコ騎士が図に乗るんじゃねえ!」
騎士は男の素早い短剣の動きを捉え切れていなかった。反撃に剣を振ろうとしても、狭い路地の壁面を剣が擦り、思うように剣を扱えていなかった。
「おい、ヘッポコ! それ以上動くんじゃねえ!」
女性を拘束していた男が叫ぶ。見るとその手にはもう一人と同じ短剣が握られていた。
「変な動きをしたらこの女をブッ殺す!」
「くっ……、この下衆がッ!」
騎士は剣を正面で構えたまま動きを止めた。二人組は女性に短剣を向けたままジリジリと後ずさりを始めた。
シグは随分な役回りだなと内心でため息をついた。まあ、これも正義らしいだろうと気持ちを切り替えて声を上げた。
「ちょっと失礼」
男達は虚を突かれたように歪んでいるのか緩んでいるのか判断のつかない表情で振り返った。
――下手糞め。
一人が騎士の足下まで地面を削るように転がっていく。すぐにあとを追うようにもう一人が滑ってくる。
シグは振りかぶることもなく、二回拳を振るっただけだ。それだけで男達は路傍の石のように動かなくなっていた。
呆気にとられる女性と騎士に対して紳士を気取って優雅に一礼した。
「正義は必ず勝つ、ということですね」
地面にへたり込んでしまっていた女性に自らのマントを渡して胸元を隠し、そのまま女性を抱きかかえた。
騎士は既に意識を失っている男達から短剣を奪い、懐から取り出した捕縛の魔術符を二人の額に貼り付けていた。
「それでは私はこちらの女性を家までお連れいたしますので」
立ち去ろうと踵を返すと背後から呼び止められた。
「御協力感謝します。この恩はいつか、必ず」
心臓に言葉を刻み込むように右手を左胸の上にかざして、騎士は宣言した。
その姿の美しさにシグは思わず小さな笑い声を漏らした。
騎士に背を向けて、少しだけ茶化すような口調でシグは言った。
「さようなら、小さな騎士さま」
私は小さくありません、という怒っているような声を聞きながらシグは路地を駆け抜けた。
「あの、本当にありがとうございました」
「いえいえ、人として当然のことをしたまでです」
家の前で女性は何度も頭を下げて感謝していた。シグは、凪いだ日の海のようだなと思いながら涙の浮かんだ女性の瞳を見つめていた。
「よろしければ、お名前を教えていただけませんか?」
「私は、シグルスと申します」
「いいお名前ですね。シグルス様」
「様だなんて、柄じゃありませんよ」
「いえ、私にとってはシグルス様こそ命の恩人なのです。よろしければ今晩は私の家で一泊していってください」
女性は艶めかしい視線をシグに注ぎながら、家の中に招き入れようとしていた。
シグは女性の瞳を見つめ過ぎたと密かに後悔していた。
――特異な力に頼りすぎてはいけないな。
少しだけ濁った女性の瞳に向けてシグは言い放った。
「我は命ずる。眠れ」
女性の瞳が光を失い、倒れ込むようにして眠りについた。しばらくすると心地よさそうな寝息が聞こえてくる。
ふと女性の胸元に手を伸ばす。柔らかそうな膨らみに手を乗せる。少し力を込めれば、思いのままになることを知っていた。
しかし、何もすることはせずに女性を抱きかかえて部屋の寝台の上に横たわらせて家を出た。
家を出る際に扉に封鎖の魔術符を貼り付けておく。それはシグなりの謝罪と防犯策だった。
空には黄金の天体が輝いている。その輝きはシグの心の深層を震えさせる。
――私は、いつまで人間でいられるのだろう。
シグは真紅色に変わり始めた瞳を隠すように、闇を切り裂いて走った。