スズカさんとすずとスズカさんのギター
ちきしょう、ちきしょう。
ぼそぼそと呟きながら、その人は何かを蹴り飛ばすように歩いていました。
あ、これはお母さんが何度も教えてくれた「頼ってはいけないヒト」だな。
すずはすぐにそう気付きました。
気付いたけれど、もうこの人以外にチャンスがないことも判っていました。
すず、すず、行きなさい。走りなさい。あなたは生きるのよ。
耳の奥に、お母さんの優しい、けれど泣きそうな声が蘇ります。
お母さんが車に轢かれたのは、まだお日様がお空にあった頃。
たくさんいた兄弟たちはいつのまにかすずを置いていなくなって、すずはお母さんとふたりっきりで生きて来ました。
お母さんは身体の小さなすずを一人前に育てようと、時に厳しくけれどいっぱいの愛情で包んでくれました。
けれど、そのお母さんはもの凄い勢いで走って来た真っ赤な車からすずを守って死んでしまいました。
お母さんの真っ白い身体は、ぽーんとまるでおもちゃのように跳ねて。
落ちて来た時には、あの車と同じ、真っ赤になっていました。
お母さんはぐったりとしたまま、すずに言ったのです。
あなたは生きるのよ、と。
だからすずは走りました。
色んな色の車の間を、夢中で駆けました。
走って、走って、気が付いた時、そこはすずが知っている街ではありませんでした。
季節はしんと冷えた冬の始め。
暗くなった街で、すずは途方に暮れました。
いつもすずとお母さんに残り物をくれるお肉屋さんも、軒下を貸してくれる優しいおばあさんもいません。
通りを行く人は皆足早に去って行き、足元のすずには目もくれません。
それどころか蹴られそうにすらなって、すずはとうとう通りに積まれたごみ袋の影で小さくなりました。
すずはもう赤ちゃんではありませんでしたが、決してお母さんのような一人前でもありませんでした。
ここでお日様を待っていたら、きっと死んでしまう。
小さなすずにも、こんなにもお腹が空いたまま寒空の下にいたらどうなるのかくらい解りました。
すずはぴんと耳を澄まします。
生きるのよ。
すずは自分にしっかりと言い聞かせました。
大丈夫。お肉屋さんやおばあさんは、雪のように白いすずを「ゆきちゃん」と呼んで可愛がってくれました。
この寒々しい街にも、きっとすずを助けてくれる人がいるはずです。
「ヒトは上手く使うのよ」とお母さんも言っていました。
すずはどんどん少なくなっていく人を、下から眺めて機会を待ちました。
少しでも優しそうだと思ったら、まずはそっと鳴いてみます。
すずの鳴き声はおばあさんに言わせると「まるで鈴の音」だそうです。
良く通るすずの鳴き声に何人かはやはり立ち止まりましたが、ごみ袋の影のすずを見つけると「連れては帰れないな」とぼやいて去って行きました。
何度も、何度もそうしているうちに、すずは自分がふらふらしてきたことに気が付きました。
お月様の見えない芯まで凍る夜を、ずっとこうしていたのですから当たり前です。
まだ、まだ、きっと機会はある。
すずは必死に鳴きました。
そして、その人に会ったのです。
「ちきしょう、ちきしょう。僕を、そんな風に言うほど知ってるのかよ」
すずには何を言っているのかさっぱり判りません。
けれど、その人が何かに苛立っていることは確かです。
真っ黒な髪は干からびたミミズのようにくねくねとしていて、身体全体にまとった苛立ちの気配の割に小さな丸い眼はとても寂しそうでした。
何か大きな荷物を背負ったその人は、だぼだぼズボンのポケットに手を突っ込んだまま足元を蹴り蹴り歩いて来ます。
すずは身体を引き止める「恐怖」を尻尾の先へと追いやりました。
生きるのよ。
そして力を振り絞って一声鳴くと、ぱっとその人の足元へと飛び出しました。
「すず、すず、すずちん。ただいまさん。今日のご飯は何だろな。今日のご飯はまぐろさん。まぐろの美味しい缶詰だ!」
ああ、帰って来た。
すずはくすくすと笑って、とびきり可愛くお返事をしました。
がちゃん、と壊れそうな音がして扉が開きます。
帰って来たその人は、玄関でお行儀よく待っていたすずに「ただいま、すず」と溶けそうな笑顔を見せました。
くるくるの髪、ちょっとまあるい体、だぼだぼのズボン。
そして優しい小さな瞳。
おかえりなさい、スズカさん。
すずは鈴のような声で鳴きました。
「ああ、ただいま、すず。ほら、今日のご飯はまぐろだぞー」
スズカさんはコンビニの白いビニール袋から、金色の缶詰を取り出しました。
この辺りのコンビニで売っている、一番高い缶詰です。
それはやっぱり特別に美味しくて、すずが喜んで食べたからでしょう。
スズカさんは自分には賞味期限の切れかけた安いおにぎりとかパンとかを買って、すずにはいつもこの缶詰を買って来てくれるのです。
すずはそれが嬉しくて、でも心配で。
またスズカさんはおにぎりですか?
咎めるように鳴きました。
スズカさんは背負っていた大事なギターを下ろして頭を掻きます。
「僕はおにぎり好きだから良いんだよ」
またそんなこと言って。スズカさんが身体を壊したら、嫌です。
スズカさんはひょいとすずを抱き上げて、ざらざらする頬をすずの額に擦りつけました。
「ああ、もう。どうしてこんなにかわいいんだろうな、すずは」
すずはスズカさんの頬を一舐めして、瞳を閉じました。
スズカさんは、恋人のいない一人暮らしの男の人です。
もうずうっとずうっと前に、ミュージシャンを目指して故郷を飛び出して来ました。
そして今も、アルバイトをしながらミュージシャンになろうと夜遅くまで道で歌っています。
初めて会った時の印象とは違って、スズカさんはとても良い人でした。
すずにしてみれば、スズカさんは優しくておっとりとしていてとびきり素敵な人なのですが、人間の世界ではどうも違うようです。
スズカさんは「とろい」とか「ぐず」と言われて、時々悲しい顔で帰ってきます。
それはアルバイト先で、時にミュージシャンのオーディションで。
そしてあの日も、そうでした。
あの日、スズカさんは路上で歌っている時に通りすがりの人に言われたのです。
アンタ才能ないよ、と。
そのたった一言は、口にしたその人にとっては何てことのない言葉だったかもしれません。
けれど、ずっとずっと夢を追って来たスズカさんにとって、それはとても辛い言葉でした。
もう壊れてしまいそうな心を守るため、スズカさんは悲しみを怒りにすり替えて文句を言いながら夜の街を歩いていたのです。
そしてスズカさんは、すずに出逢いました。
足元に突然飛び出して来たすずを、スズカさんはやっぱり蹴ってしまいました。
スズカさんは自分が蹴ったのが何か判ると、すずが申し訳なく思うほどに慌てました。
そしてすずを抱きしめ、「がんばれ、がんばれ」と励ましながら病院に駆け込んだのです。
幸い、すずの怪我は大したことはありませんでした。
けれどスズカさんはすずと同じように何か縁を感じたのでしょう。
隙間風の入ってくる自分のアパートに、すずを連れて帰ったのです。
最初は良い顔をしなかった大家さんやお隣のおばさんも、すずを連れ帰ってからスズカさんが明るくなったことに気付きました。
もともと穏やかで優しいスズカさんは、本当は大家さんにもお隣のおばさんにも大切にされていたのです。
今では、二人も当たり前にすずを撫でに来ます。
こうして、すずは「スズカさんちのすず」になり、季節は冬を過ぎ春を迎えました。
スズカさんはおにぎりの包みをごみ箱に投げました。
夜はすっかりと深くなり、開いた窓からお月様が見えます。
スズカさんの部屋にはもちろんテレビなんてありませんから、夜は優しい夜の気配のまま部屋の中に入ってきました。
「すず、歌おうか」
スズカさんはいつものようにギターを持って窓辺に座りました。
はい。待っていたんですよ。スズカさんの歌を聞かないと、落ち着かないんです。
すずはお返事をして、スズカさんの傍に寄りました。
スズカさんは相棒の傷だらけのギターをそっと撫でてから、そのぴんと張った弦を爪弾きました。
スズカさんは、ギターと同じです。
たくさん傷ついて、たくさん涙を流したのでしょう。
だから、ギターと同じ、美しい音が流れるのです。
すずは耳の先から鬚の先、しっぽの先まで、その音を浴びようと顔を上げました。
きっと、お月様が涙を零したらこんな音がする。
きっと、お日様が子守唄を歌ったらこんな声がする。
すずはうっとりと想います。
スズカさんは、すずの本当のなまえに気付いてくれました。
お肉屋さんやおばあさんのように「ゆきちゃん」ではなく、スズカさんはすずに「すず」というなまえをくれたのです。
だから、スズカさんが泣き笑いの顔で「僕には才能がないんだって」とすずに告白した時。
それはその人の見る目がないのだと、すずにははっきりと判ったのです。
だって、スズカさんはすずの本当のなまえを見つけるだけの力があるのです。
すずにも解るほどに、心震わせる歌を歌っているのです。
スズカさん、スズカさんの歌は世界一です。
長く伸びる心地の良い低音に、すずはそっと自分の声を重ねました。
気付いたスズカさんが、小さな目を細めて笑います。
ずっと、ずっと、この夜が終わらなければいいのに。
けれど泣きそうな余韻を震わせて、スズカさんの歌が終わります。
スズカさんはギターを労わるように撫でて、すずに訊きました。
「どうだろう。今度の歌は? 自分じゃ、良い出来だと思うんだ」
ええ、とっても。今までの歌も好きですけど、今晩の歌が、きっと一番好きです。
「ああ、そうだ。うん。やっぱり、この歌にしよう」
スズカさんは凛とした決意を込めて頷きました。
けれど、すぐに泣きそうに眉を下げます。
「いや、でも、ありきたりかもしれない。また、『どこにでもある』って言われるかもしれない」
優しいスズカさんは、けれどその分とても傷つきやすい人です。
これまで、「ミュージシャンになる」というそのたった一つの夢のために数え切れない傷を背負って来ました。
だからスズカさんは、こうして迷うことが多くありました。
いいえ、スズカさんの歌は『どこにでも』あるものじゃありません。
大丈夫。大丈夫です。
だから、すずはいつもそうスズカさんの背中を押します。
スズカさんはふぅっと長い息を吐いて、すずの咽喉を撫でました。
すずは嬉しくて、ころころと鳴きました。
ちりちり、と首輪の小さな鈴が音を立てます。
「ああ、やっぱり赤いのにして良かったな。すず、すずは真っ白だから、きっと赤が似合うと思ったんだ」
スズカさんはすずの首輪をそっとなぞって言いました。
この首輪は大家さんがごみ捨て場にあった物を拾って、お隣のおばさんが小さな鈴を縫いつけてくれました。
けれど首輪はすずの首には大きくて、器用なスズカさんは首輪の余分な部分を切って真っ赤なリボンでつぎはぎしたところを隠しました。
すずは赤が嫌いでした。
お母さんを轢いた赤い車。
そしてお母さんが流した赤を思い出すからです。
けれど、スズカさんがすずの首輪のリボンを上機嫌で誉めるので、この赤だけは許すことにしたのです。
「そうだ。 曲名は、『赤いリボン』にしよう」
スズカさんはとろとろと言いました。
朝から幾つものアルバイトをして来たので、疲れているのです。
今日も、いつものようにギターを抱いてしばらく眠ってしまうのでしょう。
お布団で寝たらいいのに。もっと、疲れが取れますよ。
すずがそう勧めても、帰って来たのは穏やかな寝息でした。
さらさらとお月様がスズカさんの頬を照らしています。
すずはギターとスズカさんの間にするりと滑り込みました。
スズカさんの柔らかいお腹がゆっくりゆっくり動いています。
すずはそこにぴったりと頭を寄せて、身体はギターのひんやりと滑らかなところにくっつけました。
おやすみなさい、スズカさん。
すずは胸一杯にスズカさんの匂いを吸い込んで、そっと言いました。
すずは今日も窓辺でスズカさんの帰りを待っていました。
春も本番と賑わいだしたアパートの裏庭の向こうから、今にもスズカさんが上機嫌に缶詰の歌を歌って帰ってくるような気がします。
少しお日様がオレンジ色に滲みだした時分です。
今日はヒトの世界は「お休み」で、時折隙間風に乗って聞こえてくる音も楽しげな気です。
スズカさんも今日はアルバイトがお休み。
ですが、朝早くから相棒のギターを背負って出掛けて行きました。
そうです。
今日はオーディションなのです。
スズカさんは『赤いリボン』の歌で、きっとミュージシャンになれるでしょう。
すずはうきうきしてきました。
スズカさんはどんなに喜ぶでしょう。
きっとこれからは、おにぎりふたつの夕ご飯ではなく、もっと美味しいお肉とかお魚とかを食べれるようになるに違いありません。
何より、世界で一番優しいあのスズカさんが、もう悲しまなくて済むのです。
それは、すずにとって何より嬉しいことでした。
すずがゆったりと尻尾を揺らしながらスズカさんの歌が聞こえてこないか、耳を立てていると。
突然。
ばたーん、と大きな音を立てて扉が開きました。
すずは吃驚して、背中を丸めました。
けれど入って来たのは、スズカさんです。
スズカさんは何も言わずに部屋に入ると、背負っていたギターを床に向かって振り上げました。
スズカさん。
すずは呼びました。
スズカさん、スズカさん。
何度も、何度も、優しいスズカさんのなまえを呼びました。
本当は全身の毛が逆立つほど怖かったのですが、すずはそうしなくてはいけないと知っていました。
スズカさんは、糸が切れたようにへなへなと崩れ落ちました。
すずはぱっと彼のそばに寄り添います。
スズカさんはギターに謝るように、そのぼろぼろのカバーを撫でました。
「ああ、もう、駄目だ。もう、駄目だ。駄目だ」
その小さな瞳から、透明な雫がぽろりぽろりと零れ落ちました。
涙です。
スズカさんは、泣いているのです。
「『赤いリボン』なんて昭和じゃないんだからって、それに歌詩がひどいって、みんな、笑ってた」
すずはそれを聞いて、怒りで鬚が震えました。
信じられません。
スズカさんが、あんなに一生懸命に作った歌を、笑う人がいるなんて。
スズカさんはギターを抱きしめるように、擦り切れた畳に横たわりました。
涙は畳に落ちて、茶色いしみになりました。
しみはどんどん広がって行きます。
「もう、駄目だ。僕は、才能が、ないんだ。中年男が、叶いもしないもの追ってるって、解ってたさ」
すずはこのままスズカさんが涙と一緒に畳に染み込んでいなくなってしまいそうで、必死にその涙を舐め取りました。
スズカさんはぼんやりとすずを見ます。
「…すず、すず。ごめんな。僕はもう、頑張るの、疲れたよ。辛いんだ。辛いんだよ」
スズカさんが悪いんじゃない。
大丈夫、私が付いてます。ずっと、ずっとそばにいますから。
「もう、ずっと、暗いトンネルを歩いてる気分だよ。もう先が、解らないんだ。何もない。終わりだ」
そんなことない。そんなことないです。
スズカさんの涙は熱くて、すずは咽喉が焼けるのではないかと思いました。
でも焼けてしまっても、構わないと思いました。
スズカさんはしゃくり上げて、目を閉じました。
玉のように、涙がころんと落ちました。
「こんなこと思っちゃいけないって解ってる。解ってるけど、でも、でも、もう」
すずは全身が凍るように感じました。
スズカさんはぽつりと、「もう死にたい」と言ったのです。
スズカさんはそれっきり、ギターを抱いたまま眠ってしまいました。
けれどこれっきり目を覚まさないような気がするほど、こんこんと眠っています。
すずはスズカさんの涙のあとまで舐めてから、すっと顔を上げました。
このままではいけません。
スズカさんは、すずの命を助けてくれました。
すずに「幸せ」をくれました。
すずはスズカさんのために、出来ることは何でもしたいと思いました。
この人を死なせては駄目。
凍りついていた全身が、燃えるように熱くなります。
すずはスズカさんの疲れ切った寝顔を一度見て、それから振り返りもせずに走りました。
スズカさんが乱暴に閉めた扉は、開いていました。
その隙間をすり抜けて、すずは走りました。
スズカさんを死なせるものか。
オレンジ色の知らない道を、すずは恐れもせず駆け抜けて行きました。
「そりゃあね、誉めてやるのが一番だ」
そう教えてくれたのは、悪くなった足を庇ってひょこひょこと歩いていた年寄り猫でした。
もう空にはお月様が昇っています。
薄暗闇で、年寄り猫の瞳がきらきらと輝きました。
「そんな…。そんなことより、すずはあの人を苦しめたやつらに仕返しに行きます。行って、本当はどんなにあの人の歌が素晴らしいか、解らせてやるんです」
「およし、およし。そんなことしたって意味がない」
「………だって」
「そんなことより、誉めてやることさ。あんたの歌は最高だ。あんたの歌に救われたってね」
すずはしょんぼりと項垂れました。
「そんな簡単なことで、あの人を助けられるのですか?」
「そうだ。そんな簡単なことで、人は希望を持つ生き物さ。特に、夢を追う人はね。でもねお嬢ちゃん。その『簡単なこと』があんたに出来るのか?」
すずはぎょっとしました。
年寄り猫の後ろで、丸く刈り込まれた背の低い木が風でざらざらと葉を揺らしました。
「すずは、すずはいつだって、あの人の歌を誉めて来ました」
「そうだ。でもそれは『わたしらの言葉』で、だろう。それじゃあ駄目だ。『人間の言葉』でなくちゃ」
雷に打たれたようにすずはびくっとしました。
すずは、いつだってスズカさんの言葉が解りました。
けれどスズカさんは、すずの言葉を理解してはいないのです。
だって。
「すずが、猫だから。だからあの人を救えないんですか?」
「………」
「そんなの、嫌です。あの人を、死なせたくないんです」
年寄り猫は諭すように「大丈夫。死にたい、死にたいって、その辺の人はみんな言うさ。心配のしすぎだ」と優しく言いました。
けれどすずは気が気ではありません。
このままではスズカさんは全部涙になって、ギターを残して畳に吸い込まれて、ただの茶色いしみになってしまうかもしれません。
すずは強く首を振りました。
年寄り猫も、ようやくすずが引かないことが解ったようです。
仕方がないとため息を吐いて、そっとすずの耳元に口を寄せました。
「いいかい? これは秘密の話だ。実はね、人間と話せる猫が最近この辺りに流れて来たんだと」
「人間と、話せる!?」
年寄り猫は「しー」とすずの大声を窘めました。
「昔からそういう話はあったんだが、どうも最近この辺りにいるらしい。そいつにどうしたらいいか、聞いてみたらいいだろう」
「本当ですか? その方は、どこにいるんですか?」
身を乗り出すすずに、年寄り猫は背後を振り返りました。
お月様の光に照らされて、背の低い木々の間に道があるのがわかりました。
「この公園の真っ白い道をずぅっと辿って行きなさい。そうすると、駅前まで出る」
「駅前」
「そう。とにかく道を辿って行けばいい。そうするといつの間にか道が高くなって宙に浮いているところに出る。そこが駅前だ」
道が宙に浮く。
すずは途方もないと思いましたが、怖いとは思いませんでした。
すずにとって怖いことは、スズカさんがいなくなってしまうこと。
ただ、それだけです。
「人間と話せる猫はその辺りをうろついていることがあるって聞いたよ。運が良ければ会えるだろう」
「ありがとう。ありがとうございます」
「あんたとあんたの大切な人に、幸運があるように祈ってるよ」
年寄り猫がそう言うなり、すずは堪らず駆け出しました。
白い道はずっとずっと遠くまで延びています。
けれどすずは休みもせずに、長い影を連れてひた走ります。
やがて、夜の空気に賑やかな音が混じり始めました。
少し、道も上り坂になってきたように感じます。
もう少し、もう少しだ。
何か大きな影がいくつかの光を抱いて聳えていました。
それを目指して走っているうちに、いつの間にか道の下から音が聞こえることに気が付きました。
辺りは人通りも、かなりあります。
すずは道の端によって、白い格子から下を覗きました。
夜なのに明るい道を車が走って行くのが見えました。
「ここが、駅前」
すずはぽつりと呟きました。
道行く人がすずに気付いて手を伸ばします。
すずはそれをひょいと避けて足早に進みました。
あれ、猫がいるよ。
リボン付けて、飼い主を探してるのかな。
いつもは多少お愛想を振りまくすずですが、今は人に撫でられている余裕などありません。
手を出してくる人間をうっとおしく思いながら、
「誰か! 誰か、いませんか!」
すずは声を張り上げました。
人間はすずが何を言っているのか解らず、ただ通り過ぎて行きます。
こんな人の多いところに、猫はいるのでしょうか。
夜が深くなっていくのを感じて、すずは苦しくなってきました。
人間と話せる猫がいなかったら。
スズカさんを、どうやって助けたらいいのでしょう。
あの涙を、どうやって止めればいいのでしょう。
すずはぎゅっと眼を瞑りました。
「おい、そこのチビ。迷子か?」
「!」
はっと、すずは目を見開きました。
いつの間にか、目の前に茶トラの猫が座っています。
その金色の瞳には、言葉ほど棘は感じません。
すずは勇気を出して、その猫に訊きます。
「あの、あなたが、人間と話せる猫ですか?」
「…………何だ、それは」
「人間と話せる猫が、ここにいると聞いたのです。どうしても、その方に会わないと!」
猫は金色の瞳で、じぃっとすずを見つめました。
そして、「チビ、お前のなまえは何だ?」と聞きました。
すずは猫の勢いに呑まれて、「すず、です」と素直に答えます。
「そうか。すず、か。良いなまえだな。母にもらったのか? それとも人にもらったのか?」
「お母さんからもらって、大切な人に同じなまえをつけてもらいました」
猫はゆっくりと微笑みました。
「私の名はミケだ。私の名も、母に貰い、大切な人につけてもらった」
「………ミケさん」
すずは自分が落ち着いて行くのが解りました。
すずの身体を振り回していた熱い塊が、ほろほろと崩れて行きます。
ミケさんはすずが落ち着いたと見て、「それで?」と聞きました。
「私は人と話せる猫ではないが、こうして会ったのも何かの縁。話くらいは聞いてやろう」
少し偉そうですが、ミケさんは悪い猫には見えません。
すずはゆっくりと、スズカさんの話をしました。
ミケさんはじっと座ったまま、すずの話に耳を傾け、話が終わると、
「そうか。だが、私が聞いたところによると、その猫は自分の相棒の人間としか話せないそうだ」
すずは驚いて、それからがっかりしました。
その猫に、すずの気持ちをスズカさんに伝えてもらおうと思っていたのです。
「違う方法もあるが」
低く、ミケさんは続けました。
「それはすず、お前が死んでからその想いを人に伝えるという術だ。だがそれはまだ先の話だろう」
「……? すずが死んだら、伝えられるのですか?」
「そうだ。その時お前が望み、運命がそれを許したらな」
ミケさんはさらりとそう言って、話を終わらせようとしました。
けれどすずはその言葉に魅入られたように、「死んだら、伝わる」と思わず繰り返しました。
ミケさんはしまったと顔を顰めました。
「…すずが、今死んだら、スズカさんに想いを伝えられるのですか?」
「………馬鹿なことを考えるなよ、すず」
強い口調で、ミケさんが叱ります。
「それは違う。それはしてはならないことだ」
「でも、スズカさんが助かるなら」
「解らないはずがないだろう、すず。お前は母から貰った名を、大切な人からも貰った幸運な猫だ。お前の大切な人は、誉め言葉とお前の命とどちらを取る人間だ?」
すず、すず、と呼ぶ声が聞こえるようですずは俯きました。
美味しい金色の缶詰。
毎晩、歌ってきかせてくれる優しい歌。
あの、あたたかいお腹。
ああ、それでもやっぱり、やっぱり、すずはスズカさんのために、何でもしたいのです。
「すず」
ミケさんがゆっくりと首を巡らせました。
見ろと、言うように。
二匹の猫が顔を突き合わせていたのを物珍しそうに見ていた通行人の間から、男の子が走ってきました。
真っ黒な髪はスズカさんと違って真っ直ぐで、その子がきょろきょろと辺りを見るたび揺れています。
誰かを探しているんだと、すずにはすぐに解りました。
その子の必死な様子は、どこか今のすずにも重なります。
男の子は、はっとこちらに気付くと、今度は眉を吊り上げてたぁーっと駆けて来ました。
すずは、ミケさんがいなかったら、きっと逃げていたでしょう。
けれど浮かしかけた腰を、男の子の一言が止めました。
「ミケ!」
そう、男の子はミケさんを探していたのです。
その子は掬うようにミケさんを抱えて、するりと腕の中に収めました。
ミケさんは「みゃあ」と鳴きました。
それはすずが聞いても意味を成さない、ただの音でした。
「馬鹿ッ! 馬鹿じゃねえの! 何で一日外をほっつき歩いてんだよ!」
「みゃう」
「みゃうじゃねーだろ! ホント、どっかで事故にあってたらどうしようって…」
男の子の語尾は消え入るようでした。
無防備なミケさんの首元に顔を埋めて、男の子は「良かったー…」と言いました。
すずは、きゅうっと胸を締め付けられるような気がしました。
男の子がどれだけミケさんを心配していたか、どれだけ大切に思っているか。
その一瞬で、全部わかるようでした。
そして、どうしてスズカさんのそばを離れたのだろうと唐突に気が付きました。
流石にミケさんも黙っていられなくなったのでしょう。
「すまん」と謝りました。
そしてぎゅうっと抱きしめられたまま、すずを見下ろして言いました。
「すず、猫には『猫の言葉』があり、人間には『人間の言葉』がある。でもな、お前と、お前の大切な人の間には、お前たちだけの『言葉』があるだろう? それで大抵のことは伝わるのさ。なあ、すず」
「………はい」
すずは素直に答えました。
確かに、すずは『猫の言葉』を話し、スズカさんは『人間の言葉』を話します。
けれどすずとスズカさんは、これまでずっと想いを伝えあって来たはずなのです。
伝えたい想いを『人間の言葉』にすることは出来なくても、それをスズカさんに伝えることはきっと出来るのです。
そう、生きてそばにさえいれば。
「何、偉そうなこと言ってんだよ。な、白ネコさん、迷子?」
「白ネコさんではない。こいつは、すず、というのだ」
「すず。へえ、ぴったりの名まえだ」
男の子はにっこり笑いました。
あれ、とすずは思いましたが、それは男の子の次の言葉でどこかへ飛んで行ってしまいました。
「あのさ、駅前のロータリーんとこでギター持った男の人がネコを探してたんだ。すずちゃんの、」
スズカさん!
すずは男の子の足元をすり抜けました。
「ちょ、待って! 車多いから、送ってく! すずちゃん!!」
たちまち、男の子の声が遠くなりました。
ロータリー、ロータリーとはどこのことでしょう。
そこがどこだかわからなくて、すずはとにかく白い道を駆けました。
スズカさんのところに帰ろう。
帰って、私たちの『言葉』で伝えよう。
道は途中で二つに分かれました。
片方は宙に浮いたまま、明るいトンネルに続いています。
もう片方は段々になっていて、たくさんの車が走る道の方へと降りて行くようです。
すずは咄嗟に人の流れを避けて、車が走る道の方へと曲がりました。
段々を飛ばして降りて行くと、微かに歌が聴こえます。
すず、すず、すずちん。ただいまさん。
「スズカさん!」
車が通る道を挟んだ向こうに、スズカさんの黒いくねくねした頭が見えました。
「スズカさん! ここです!」
スズカさんはギターを手に持って、歌いながら歩いているようでした。
すずは物凄い勢いで段々を下りて、道を走りました。
この車の道さえ飛び越せれば、スズカさんはすぐそこなのに。
「す、すず、歌おぅかぁ」
スズカさんの声は、あの涙に濡れた声です。
「すず、すず、すずちん。ただいまさん。今日のご飯は何だろな。今日のご飯はまぐろさん。まぐろの美味しい缶詰だぁ」
スズカさんは泣き声を張り上げて歌います。
歌い終わると、「すずぅ、すずぅ、どこ行ったんだよぉ」とすすりあげました。
「スズカさん! スズカ、さぁん!」
すずも声を張り上げました。
けれど、車の音が邪魔をしてスズカさんには聞こえません。
向こうに行かなくちゃ。スズカさんのところに帰らなきゃ。
泣きながら歌い、また泣いては何かを探すスズカさんを、通りすがりの誰かが指を指して笑いました。
何かを構えて、じっとスズカさんを観察している人もいます。
どの人も、どの人も。
笑って、スズカさんを見ていました。
すずは叫びました。
走りながら、心が裂けてしまいそうなほどつらくて叫びました。
スズカさんを笑わないで。
あの人を笑う人を、すずは許せない。
スズカさんを傷付けないで。
あの人を傷付ける人を、すずは許せない。
まるで流れ星のように、すずは走りました。
そして向こうの通りをゆるゆると歩くスズカさんを追い抜いた時、車の道に真っ白い橋のように架かる横断歩道が見えました。
向こうに行ける。
すずは夢中でした。
夢中で、その横断歩道の上で赤いランプが灯っていたことに気が付きませんでした。
遠くから、赤い車がスピードを落とさず走り抜けようとしていることなど、すずは考えつきもしませんでした。
「スズカさんッ! 横断歩道だ! すずちゃんがいる!」
男の子の声でした。
けれどその時、すずは横断歩道の上で、迫りくる車に顔を向けて固まっていました。
わあっと痛いほどの光に照らされて、すずは動けませんでした。
お母さんと同じ。
このまま、おもちゃのように撥ねられて、落ちて、「死ぬ」のだとすずは思いました。
そしてスズカさんはきっと、泣くに決まっています。
その涙を、あの咽喉が焼けそうなほど熱い涙を、すずは二度と舐めてはあげられないのです。
「スズカさん」
すずは、世界で一番大切な人のなまえを、呼びました。
きっと、最期になるだろうと思って、呼びました。
物凄い音がしました。
それは誰もが、これはもう駄目だと思う有様でした。
横断歩道の白線の上に、それは跳ね飛ばされて落ちました。
びゃん、と最後に一つ鳴いて、それは悲しくけれどどこか誇らしげに沈黙しました。
スピードを出していた真っ赤な車は、きっと驚いたのでしょう。
止まる気配もなく走り去りました。
横断歩道の信号は、今やっと緑色に変わったところです。
スズカさんは横断歩道にぺたんと座りこんだまま、そっと、そうっと胸に抱きかかえたすずに声をかけました。
「すず」
「スズカさん」
すずはスズカさんの肩越しに、身代りになって跳ねられたギターを見ました。
傷だらけのギターは、可哀想に折れて割れて、ぴんと張られた弦が切れていました。
「ご、ごめん、なさい。スズカさん。大切な、ギターが」
「すずが、すずが無事なら良い。すずが無事なら良いんだ。すずだったら、取り返しがつかない」
スズカさんは震えた声で、そう繰り返しました。
そしてがくがくと笑う膝を叱咤して立ち上がると、すずを抱いたまま壊れたギターを拾って横断歩道を渡りました。
スズカさんが横断歩道を渡り終えた瞬間、しんとしていた周囲からぱらぱらと音がしました。
それは、拍手でした。
泣きながら歌うスズカさんを笑って見ていた人たちは、その人に向かって真っ白いネコが駆けて行くのを、そのネコが車に撥ねられそうになるのを見ていました。
そしてスズカさんが信じられない速さで横断歩道に飛び出し、そのネコを抱きしめ守ったのを見ていました。
ただ持っていたギターだけは、ぎりぎりで車に当たってしまいあの有様です。
けれどそうして、あの人が何を探していたのか、あのネコがどんな想いで駆けて来たのか、みんな解ったのでした。
ぱらぱらと鳴っていた拍手はやがて大きな波になりました。
スズカさんはその拍手には顔を上げませんでした。
腕の中のすずに、スズカさんは謝りました。
その真っ白い小さな額に鼻をくっつけて、謝りました。
「すず、ごめんな。僕が馬鹿なことを言ったから、だから、出てったんだろう? ごめんな。もう言わない。もう言わないから、どこへも行かないでくれよ」
すずは胸が一杯になりました。
だからぐいぐいとスズカさんにくっついて、咽喉を鳴らしました。
「すず、すず」
何か言いかけたスズカさんは、やっぱり何も言えずにすずのなまえを呼びました。
「どこへも行きません。すずは、『スズカさんちのすず』です。これからもずっと、ずっとそうです」
「すずぅ、そうだな。帰ろうな、帰って、美味しいまぐろさん、食べような」
スズカさんは涙でぐしゃぐしゃになった目を、幸せそうに細めてすずに言いました。
顔を上げたスズカさんは、まだ惜しみない拍手を送ってくれる人々に恥ずかしそうに頭を下げました。
拍手はどんどん大きくなりました。
スズカさんは何度も、何度も頭を下げてから、右腕ですずを抱き左手でギターを持って歩き出しました。
すずはスズカさんの胸に頭を寄せて、じっとしていました。
「……ああ、それにしても、あの子。どうして僕やすずのなまえを知ってたんだろうなぁ」
ふと、スズカさんが呟きました。
すずの危機を、スズカさんに教えてくれたのはあの男の子でしょう。
すずは微笑みました。
「ミケさんはあの子とお話出来るんです。だから、ミケさんからスズカさんのなまえを聞いたんですよ」
「まさか。すず、おまえしゃべれるんじゃないよな?」
「すずは、『人間の言葉』は話せません」
「まあ、しゃべれなくたってすずの言いたいことなら、僕ちゃんとわかるけどなぁ」
ああ、やっぱり。
すずの身体の隅々まで、涙が出そうなほどあたたかいもので溢れました。
この人に会えて良かった。
『スズカさんちのすず』になれて、本当に良かった。
「スズカさん、あなたは、世界で一番素敵な人です。誰が、何て言おうと、私にとってあなたはたった一人の大切な人。だからどうか、私がおばあちゃんになっても、その優しい声で、私を『すず』と呼んで下さい。私は、いつだって、どこにいたって、あなたのためにお返事します」
スズカさんは泣き腫らした瞳でにっこりと笑いました。
笑われて、馬鹿にされても、この人はこんなにも優しくてあたたかい。
すずは世界中に言ってやりたい気持ちになりました。
ねえ、ほら、見て。
私のスズカさんは、こんなに素敵な人なのよ、と。
*
ちょっと見てみ、と秋村から渡された彼のスマホ。
映っていたのは夜の駅前だった。
もうすぐ先生が現れそうな、HR間近の騒がしい教室はスマホから微かに聞える音を掻き消してしまう。
俺は思わず抱え込むようにスマホに耳を近付け、そして更に映像を見ようと忙しく視線を上げた。
それを見て、秋村が苦笑する。
仕方ないだろ、と言いかけて、やめた。
映っていたのは、あのとんでもない休日に、ミケを探していて出逢ったすずちゃんとスズカさんだ。
二人は夜の駅前で、楽しそうに歌っている。
ぱっと見ると、横に寝かされたギターから、すずちゃんが顔を出しているように見える。
そうか、あのギターは今も一緒に夢を追っているんだな、と思ったら、無性に嬉しくなった。
ミュージシャンになるということが、どれほど難しいことか想像も出来ないけど、
スズカさんとすずちゃんは楽しそうで、あの壊れてしまったギターもどこか満足そうで。
だったら、彼らにこの先悪いことは起きないような、寧ろ、良いことがたくさん待っているような。
そんな気がする。
「これ、あの駅前だよな」
「……だろーな」
ちょっと涙声になってしまったのを、咳払いで誤魔化す。
幸い秋村は気付いた様子もなく、映像が終わると俺の手からスマホをひょいと取り返した。
「これ、何かネットに話題んなってんだと」
「歌が?」
「じゃなくて、見ると願いごとが叶うんだそうだ」
何だそれ。
まあ、注目されているのは悪いことではないけど。
「マサも、弟も偶然見かけて『今夜は麻婆豆腐が良いです』ってお願いしたら叶ったって興奮してよ」
「…弟さん、かわいいな」
「お前も探しに行ったら?」
何で、と聞き返そうとして、そこへ先生が入ってくる。
秋村はさっさと自分の席に戻ろうと立ち上がって、それからにやりと笑った。
「恋が叶うんじゃねぇ?」
「だから、違うってんだろ」
まあ、いい加減当の春野にも気付かれそうなほど、目で追っている自覚はあるけれど。
俺、早くもストーカー?
けれどそれも、ちゃんとミケに相談したから、きっとどうにかなるだろう。
近付けた耳に、明るく響いたスズカさんの声。
すず、歌おうか。
そして、すずちゃんの鈴のようなとびきりの返事。
うん、大丈夫。
きっと、大丈夫だ。
悪いことなんて、起こりっこない。
俺は教室に籠っているのが勿体ないほどの晴天を、窓越しに感じながら思った。